片手間の異論遊戯

モトダネが6/6付日刊SPA!なので肩の力を抜いた雑談です。文章の構成としての起承転結とはお手軽にwikipediaより、

  • 起 → 物語の導入部。その物語にはどんな登場人物がいるか、どんな世界・時代に住んでいるのか、登場人物同士の関係はどんなものか、なぜその物語は始まるのかなど、これから物語を読む上で必要な知識を紹介する部分。
  • 承 → 「承」は「受ける」を表し[2]、「起」で提起した事柄を受け、さらに進めて理解を促し、物語の導入である「起」から、物語の核となる「転」へつなぐ役目を果たす部分。ここは単純に「起」で紹介した物語を進めるだけで、次に続く「転回」または「展開」が誤解されることがないように備えておくものであまり大きな展開はないのが普通。
  • 転 → 物語の核となる部分。「ヤマ」ともいわれる、物語の中で最も盛り上がりを見せる部分。物語の中でも最も大きな転機を見せる部分であり、読者が知らなかった事柄や想起を超える展開をすることによって関心や興味を引く部分となる。
  • 結 → 「オチ」とも呼ばれる部分で、物語が進んだ結果、「転」での結末が最終的にどうなったのかを描いて物語を締めくくる部分。

学校での作文技法で言われた記憶はあります。さて日刊SPA!の主張ですが、

「上司から『まず結論を書け(話せ)』『その後に理由を説明しろ』と言われたことはないでしょうか。結論をすぐに知ることに慣れてしまったビジネスマン、特に『仕事ができる』と言われる人ほど、日常の会話や普通の文章に対しても、とにかく早く結論を知りたがる傾向があります。そのためにはあってもなくてもいい『転』を省いた『起承結』こそ、ふさわしい論理サイクルといえます」

文章は起承転結ではなく起承結が良いとの主張です。何回か読み返したのですが、日刊SPA!が取り上げている社会行動分析家・流音弥氏の意見は、

    近著『仕事では「3」を使え』
つまりも何も、ビジネス文書の書き方のマニュアルです。あえて医師の文章で例えれば、退院サマリとか、紹介状とか、もう少し長いものなら論文が該当するかと思います。たしかにそういう文章の書き方は、主張したい事を明確にし、その主張の根拠を簡明に整理するのがポイントになります。起承結で分ければ、
    起・・・結論の明快な提示
    承・・・結論の根拠の説明
    結・・・根拠に基いても結論が正しいの結び
別に「転」をわざわざ入れる必要性が薄いのは同意です。「転」が加わると、「起承」と続いてきた説明を一度御破算にするような展開になり、「起」で提示した結論の理解を混乱させかねない要因になります。「転」を入れる時は、「起」で提示したものが結論でなく仮説、それも否定したい仮説である時に使うべきで、「転」で「起承」部分の根拠を否定し、本当の結論を「結」で提示する時に使うと言えば宜しいかと思います。

では仮説の否定には起承転結が好ましいかと言えば、これも時と場合によりけりです。起承転結まで駆使して否定する時は、気を使う相手の時に用いるとすれば良いでしょうか。つまり「承」の部分と「転」の部分を両論併記的な体裁にして、否定したい仮説にも根拠はあると相手にも花を持たせ、相手の根拠以上の否定要因がある事を説明するスタイルです。

回りくどいやり方ですが、否定も起承結でやると感情的に角が立つとか、それによる不快感情が自らのこれからの不利益になりかねない時に使用価値があるです。仮に起承結で反論すると

    起・・・相手の結論の否定の提示
    承・・・相手の根拠を粉砕
    結・・・相手の結論は宜しくないの自分の結論
シンプルですが、もって行き方によっては相手の全面否定ですから、場合によっては「この野郎」的な展開もありえると言う事です。シチュエーションによっては「この野郎」大歓迎もあるでしょうが、「この野郎」展開が望ましくなさそうなら、より婉曲な起承転結を用いる選択もあるです。


ま、記事ですから話を簡明にして紹介したとは思っているのですが、

「ブログやSNSなどで目にする、よくできた読みやすい投稿は、ほとんどが起承結、または結論→理由という構図です。スピード感が要求される現在、起承転結の文章はむしろ特殊な存在となりつつあるのです。文を書くことに苦手意識がある方は、ツイッターのような短文からトレーニングしてみるのもいいかもしれません。著書のなかでも提唱しているのですが、仕事において『3』という数字を意識して取り組むとスムーズに進みます」

ブログは違うと思います。ブログは、あくまでも読み物であると言う事です。読み物の楽しさは、読むことの楽しさであり、書き手の感情の揺らめきを読み手が味わう点です。書き手の感情の揺らめきが文章の味になります。読みやすさとは起承転結とか起承結とか言う文章構造ではなく、文章に味がある点だと言う事です。噛みしめれば味が出るから読みやすいわけであり、味のない文章を起承転結にしようが、起承結にしようが食べる気が失せるです。

そういう意味ではブログなら起承結より起承転結の方が良いかもしれません。「転」のパートは書き手の考えが一番反映される点であり、どうしても書き手の感情の揺らめきが出やすくなります。さらに「転」を受けての「結」になるとなおさらです。起承転結構造なら、「転」の部分の説明がもっとも重要になり、「起」や「承」の部分もすべて「転」の展開のための伏線になるからです。

もう少し言えばブログが起結の2部構成になるか、起承結の3部構成になるか、起承転結の4部構成になるか、はたまたそれ以上の多部構成になるかは、ネタに対するブロガーの調理法の違いに過ぎません。ブロガーの個性、スタイル、ネタの質により一番表現しやすい構成になるだけのお話です。読みやすくするために3部構成にしているとか、3部構成のブログ以外は時代遅れはチト無理があると思います。


こういうブログの「読み物」に対して必要とされるエッセンスは、ビジネス文書には無用の物になります。ビジネス文書と言っても色んな類型はあるでしょうが、重要な点は簡明に主張を整理説明するです。余計なおかず、とくに感情的な表現は不要で、可能な限りストレートに相手に誤解なく、論理的に伝える事が最重視されます。

そういうビジネス文書で起承結の構成が有利と主張しているのは、その構成もありますがテンプレ効果だと私は見ます。読み物の読みやすさは文章の味としましたが、ビジネス文書ではどこに何が書いてあるかのわかりやすさだと考えます。研究者は時に膨大な数の論文を読み込みますが、あれは必ずしもすべてを精読しているとは限りません。論文構成も一種のテンプレですから、どの部分に知りたいキモがあるかが判り、そこを手早く拾い上げている面は多分にあります。

テンプレであればテーマが違えども、読み手はどこにポイントが書いてあるか全部読まなくても把握しています。もう少し言えば最初から順番に必ずしも読むのではなく、いきなりポイントを読むです。そのポイントが気に入られなければ放り捨てられるでしょうし、そこが気に入れば改めて他の部分を読むぐらいの感じです。

ここで重要なのは読み手が特殊な嗅覚でポイントを探しているのではなく、テンプレ構造で探しているです。テンプレ構造の考え方を進めれば、冒頭部に結論を置くような構成が望ましいになります。テンプレと言っても業種や会社が変われば微妙に変わります。さすがに統一書式によるテンプレがある訳ではないので、一番目に付きやすい冒頭部にドカンと結論を提示してしまうです。



この記事の気になる点は、そういうビジネス文書作法はネット時代の到来の影響にしている点です。私としては無理に結びつける必要はなかったです。そんな事を言ってしまえば、ネット時代の到来がなければ起承転結が幅を利かせていたになりかねないからです。

無理にネットと結びつけたために、ブログまで持ち出す展開になります。人気ブログは確かに読みやすいですが、これを起承結の3部構成のためであるとするのは力技過ぎます。ブログの読みやすさは文章構成ではなく文章の味によるものであり、あくまでも読み物であるが本質です。ビジネス文書とは評価される点がかなり異なると言う事です。

ネット時代の情報の基本は皮肉な事に文章回帰です。通信網の高速化により画像や動画の駆使の幅が広がったとは言え、一方でモバイル普及があり、モバイルでは画像や動画はやはり重いです。主役は文字情報であり、文章の読みやすさ、面白さです。ネットの文章の評価は非常にシビアです。どれでも無料で読める代わりに、読む価値の無いもの、読む楽しさを味わえないものは一顧だにされないです。ビジネス文章をブログに求めるのは少々無理があるです。

この世に文章は数え切れないぐらいありますが、用途によって表現技法は異なります。読み物がストーリーを追いかける楽しさであるとすれば、ビジネス文書はいかに手早く相手に自分の意図を伝えるかです。性質の違う文書を「読みやすさ」で類似化し、一般化するのは少々危険だと思います。



・・・と結構真面目に考察していたのですが、ほぼ書き終えた頃に素朴な疑問が出てきました。疑問と言うよりどこかで聞いた話なのですが、ビジネス文書と読み物の差すらわかっておられない方が結構おられるみたいなお話です。これは書く方だけでなく、読んで評価される方にも少なくないです。

まあ、今がどうなっているか存じませんが、私の頃の小学校あたりの作文教育では「いかに感情を盛り込むか」が重点で、感情を削ぎ落としたようなビジネス文書形式の教育はなかったかと思います。読み物形式の作文教育しか受けていないです。ビジネス文書形式は、それこそ学生レポートぐらいからの実戦教育で身につけたです。

そうやって読み物とビジネス文書は次元の違うものだと覚えるのですが、なんとなくどこかに「三つ子の魂百まで」が残っておられる様な気がしています。最初に教育された書き方がすべてであるみたいな認識です。文章の書き方の基本はどこでも同じみたいな感じと言えば良いのでしょうか。幸い私はそういうレポートを読んだり評価する立場にありませんが、今でも多いのでしょうかねぇ。多いから指南書の類がいっぱい売られているようにも見えたりしています。