日曜閑話46

今日は「清盛」に行き着くはずです。たぶん。


武士の始まり

日曜閑話44の時のコメ欄であった議論ですが、これが正直なところ厄介なお話です。これは武士とはなぞやのそもそも論まで遡る必要があるからです。言ってみれば時代劇に出てくるような浪人も武士であるかどうかになります。武士と言う言葉は後世になるほど適用範囲が広くなった経緯があり、原初はどうだったのかを考える必要があります。

まずなんですが武士と戦士は別として良いでしょう。戦士は奈良朝以前から、いや歴史が始まって以来、いや人類発生まで遡るかと考えます。人類の歴史とは抗争の歴史でもあるからです。戦士が武士の遠祖であるのはそうなんですが、日本の武士は戦士とはチト位置付けが異なります。

中国古代史で大雑把に考えると、まず都市国家の成立があります。そいでもって都市国家の防衛軍が形成されます。防衛軍は都市国家を営む政府の軍隊になります。戦士は都市住民から徴収されますが、集められた軍隊を指揮するのは官僚と言うか、政府の役人になります。春秋戦国時代では民政と言うか政府の閣僚がそのまま軍事の指揮官になる関係になっています。

宰相とは政治として民政を見るのと同時に、戦争になれば最高司令官になって出陣するのが役割です。以下の閣僚や官僚も基本的に同様です。春秋戦国時代は常に戦争の危険を孕む状態だったので、民政も軍政も境目無しで指揮できる事がごく普通に求められたとして良さそうです。そうですね、今で言うなら国民皆兵制度の軍事政権みたいな感じでしょうか。


日本もある時期までは古代中国と似たような形態で軍事力が形成されます。白村江で戦ったのも、その後に防人として動員されたのも、坂上田村麻呂の東北遠征に動員されたのも政府軍であり、兵士は戦士であって武士ではありません。ところが日本では政府軍を廃止してしまう事になります。武官は少将とか中将として役職名として残りましたが、指揮すべき政府軍がなくなる状態になります。

大袈裟に言えば世界史的に政府軍無しで安定政権が続くなんて事はまずありえないのですが、ありえてしまったのが平安時代であるとも私は思っています。とはいえ、政府軍の存在は対外防衛、他国侵略だけではなく治安への大きな役割を担っています。政府軍無しの平安政権は長期に続きましたが、治安状況の悪化は必然的に出現する事になります。


たしかに大規模な外国軍の侵略は殆んどありませんでしたが、治安が緩んだ事により山賊や海賊の類は横行します。本来は山賊や海賊を討伐するのも政府軍の仕事なんですが、これが無いとなれば自力で防衛組織を作らなければならなくなります。ここも平安時代のおもしろさなんですが、政府軍が弱体化(つうより消滅)した状態で山賊や海賊が横行すれば、やがて中央政府をなぎ倒しそうなものですが、そうはなりません。

山賊や海賊の脅威も地方的な存在に留まります。とは言え、その地方の住民にすれば迷惑なお話で、これをなんとか撃退する必要が出てきます。そこで生まれた私設の防衛軍が武士の始まりと私は考えています。ついでですが、この私設の防衛軍も巨大化は容易にせず、中央政府に政府軍が無い穴をせっせと穴埋めしていたのも平安時代の一つの側面かと考えています。

ゴメンナサイ、いつから論争は意図的に避けています。


武士団の台頭

私設の防衛軍を持つには経済力が必要です。平安時代だけでゃありませんが、当時の主要産業はダントツで農業です。農業しか事実上産業が無かったとしても良いかと思います。そういう産業の長が私設防衛軍形成の基礎となったはずです。つまりは自作農です。今の語感で自作農と言うとしょぼくれたイメージしかありませんが、当時的には中小企業の社長みたいな感じとしても良いかと思っています。

とはいえ、防衛軍を作るには大きな資金が必要です。武器を調達するだけでも巨額の資金が必要と言うわけです。それを可能にしたのが荘園制度と見たのは前に書いた通りです。荘園制度により税負担が軽くなり、軽くなった分で防衛軍を組織したと言うわけです。

政府軍の消滅は、山賊や海賊の横行だけではなく、隣接する他の勢力との抗争の抑止力も失わせます。私設の防衛軍をもっても単独では脅威に対抗できなければ、近隣で連合を組む、さらには大きな勢力の庇護下に入るなどの多種多様の防衛戦略が行われるようになります。様々な合従連衡の末に、小さな私設防衛軍がネットワークとしての武士団に発達していったと見ています。

武士団の台頭を考える時に、これから書く3つの乱は象徴的と考えています。


武士から武士団に力が高まっていた一つの象徴が平将門藤原純友の反乱になると見ます。とくに将門の方は乱を起こすや坂東の武士たちが一斉に加担するような状況になります。これはそれだけの武士が既に存在し、存在しているだけでなく、求心力があるリーダーが出現すればネットワークで呼び集まる状態であったと見ても良さそうに見ています。

それと武士の始まりに少しだけ関連するのですが、承平天慶の乱の朝廷軍(官軍)と言っても、これも私設軍隊の連合軍になります。ただこの時に官軍として参戦し、勲功者として認めらた事により、私設でありながら準公式の軍隊の地位を獲得したともされています。それ以前に較べると飛躍的な地位の向上です。とくに官軍の指揮者であった藤原秀郷には従四位下平貞盛には従五位下が授けられています。貞盛の従五位下の意味合いは昇殿資格のある貴族を意味します。いわゆる殿上人になり、中級貴族になったとしてもよいかと思います。


朝廷さえ倒す事が出来そうな実力をこの乱で武士達は示しましたが、その成果の方向はそちらには向いませんでした。この乱で武士たちが獲得したのは地位だと思っています。この辺は完全に時代感覚なんですが、この乱までは武士の存在なんてこの世になかったほど低かったとしても良さそうです。身分さの激しい時代で、武士にすれば京都朝廷にその存在を認めてもらうだけで満足してしまったと言えば良いでしょうか。

将門の坂東独立国構想まで当時の武士たちは意識として、ついていけなかったとしても良いかもしれません。そのため京都との関係強化、地位向上に精を出したと見ています。京都の中央政権との関与の深さは承平天慶の乱のおおよそ100年後の前九年の役でも窺えます。前九年の役の前にも小規模の反乱はありますが、これを京都側に立って鎮圧する事で自らの地位向上、実力認知運動を行っていたぐらいと考える方が、その後の歴史展開からも筋が通ります。

この辺は京都の摂関家前九年の役後三年の役の時には道長・頼通の黄金時代になります。軍事力はともかく、政治力では圧倒的に劣る武士側ですから、考えようによっては自然な行動であったと見る方が良いのかもしれません。既製政権を倒すには軍事力も必要ですが、強い求心力を持つ優れたリーダーが必要です。承平天慶の乱から200年近く経った1118年に清盛は誕生します。


平安末期の京都側の指導者である道長、頼通、白河法皇は卓越した政治力により、大きくなった武士の軍事力を自分の権力の下に組み込む事に成功したと見ています。もう少し言えば成長した武士勢力を取り込むことが権力掌握に必要な時代になったとも言えます。武士側も取り込まれることによって地位向上があるわけであり、win-winの関係であったとも言えます。

しかし武士の軍事力と京都貴族の政治力の関係は時代と共に逆転していったと見ます。清盛が登場する頃には実質として軍事力を持つ者が権力を握る時代に変わっていたとしても良さそうです。いや、それ以前から実質としてはそうだったのが、たまたま京都に道長、頼通、白河法皇と卓越した指導者が存在し、巧みに懐柔され抑えこまれていたとした方が良さそうです。


白河法皇の後に院政を敷いたのは鳥羽上皇ですが、白河法皇より政治手腕は確実に劣ったと見ます。これは鳥羽上皇が低いというより、白河法皇が高すぎたのであり、また武士の軍事力に対抗するための政治手腕として求められる水準が非常に高いものであったとする方が良いでしょう。

もちろん鳥羽上皇時代も表面上は平穏です。しかしこの平穏の意味が白河時代と鳥羽時代ではかなり異なると見ています。白河時代は実力者であっても武士は白河法皇にまったく頭が上がらない関係であったのに対し、鳥羽時代になると地位もさらに向上して権力抗争に参加できるところまで登って言ったと言う事です。またそういう政争の火種を鳥羽上皇崇徳上皇後白河天皇の間に残してしまいます。


保元の乱が宮廷クーデターではなく、軍事衝突になったのは実質だけではなく表面も権力奪取の決め手が軍事力に移行したことの象徴に感じます。保元の乱も政権の実権を争う政争であり、有力貴族も崇徳上皇側、後白河天皇方に別れます。これが軍事力の無い、それまでの政争なら崇徳側、後白河側でドロドロとした政争劇が続き、有力貴族たちも旗色を見ながら、崇徳側に行ったり、後白河側に付いたりしながら続くだけだったかもしれません。

ところが軍事力が政権中枢に食い込む時代に既になっています。軍事力と言うのは麻薬的な魅力があり、これを持つと行使したくなる力です。さらに軍事力を権力抗争に組み込んでしまうと、軍事力以外の要素が後退してしまいます。ついに武士の軍事力が京都の中央政権で炸裂してしまったのが保元の乱と見ます。


保元の乱の結果は後白河天皇側が勝利するのですが、勝利の最大の功労者は軍事衝突の主役である武士になります。何が言いたいかですが、保元の乱で有力貴族たちは自分たちこそが主役と信じて疑わなかったと思っています。武士の軍事力は使ったものの、あくまでも道具に過ぎず、乱が終れば勝利者主導による従来の政治が続くはずであると。

ところが乱が終ると、目の前に現れた軍事力の凄まじさに驚愕する結果となったと見ます。確かに軍事力は敵対勢力を一瞬にして粉砕しましたが、その力の方向が自分たちに向えばどうなるかです。有力貴族たちの権力基盤は、伝統と富と権威です。しかしそれらを凌駕する破壊的な権力が軍事力である事に嫌でも気が付かされたとでも言えばよいでしょうか。

とりあえず今は味方であると言っても、保元の乱で見せ付けられた軍事力は京都に存在し、いつでも誰に向かっても牙を向くと言う事です。保元の乱をもって、京都貴族による軍事力を持たない平安政権は終焉し、軍事力を持つものが権力を握る武家政権時代が事実上始まったと私は見ます。もっとも当時の人間でどこまで見えていたかはなんとも言えません。


平治の乱保元の乱とセットで語られる事が多いですが、かなり様相が異なると思います。保元の乱は皇族や有力貴族が主役の抗争劇です。武士はかなり権力中枢に食い込んではいましたが、まだまだ主役ではなかったと言えます。しかし保元の乱が終ると、主役でなかったはずの武士が主役になるという現象が起こったと見ます。

もう少し言えば、保元の乱では有力貴族が主役なり監督として武士を使っていましたが、軍事衝突後は貴族がもう武士を直接コントロールできなくなったと見ます。平治の乱での主役は完全に武士であり、貴族たちはすでに脇役に追いやられていると私は見ます。

平治の乱も権力闘争ではありますが、軍事力と言う新たな権力のNo.1決定戦に様相になってしまっています。平治の乱時点では、見え難いところもありますが、保元の乱後に「権力 = 軍事力」の図式が成立してしまい、軍事力No.1こそ最大の権力者であると認識です。


こういう保元の乱後の権力基盤の変化を清盛はかなり濃厚に意識したんじゃないかと考えています。次の権力は軍事力であり、軍事力を握るものこそ次の政権を握る事が出来ると。そういう目で見ると、京都の有力武装勢力としては自ら率いる平家と、保元の乱で小さくなったとは言え義朝率いる源氏です。源氏は小さくなったとは言え、存在する限り敵対勢力として再び台頭する懸念があります。

清盛としては時代の軍事力による政権の競争相手をなんとしても叩き潰しておく必要性を認めたのだと考えます。負ければ平家でなく源氏が時代の政権を握ってしまうです。スケールはかなり小さいですが、平安版関が原と言うべきものが平治の乱であり、勝ったのは平家であり、清盛であったと言う事です。ここも義朝にはそこまで見えていたと思えません。時代が清盛を招き寄せたとしても良さそうな気がします。


天下を取ると言う事

京都の中央政権は794年の平安奠都、いや壬申の乱に勝利し673年に即位した天武天皇以来、さらにはそれ以前も含めて、当時の人間には神代の時代から「当然」と言う感覚の政府であったと見ます。太陽が天に輝くのと同じぐらい、京都に政府があると言う感覚でしょうか。これは当時のいかなる知識人であっても、常識以前の前提であったと考えても良いかと思っています。

これはその後の鎌倉末期、室町末期、江戸末期とはかなり違う感覚です。歴史の記憶に残る政権倒壊、新政権樹立の知識があれば、その先例に従って行動できますし、そうなる事を世間も認めます。しかし先例が無いと「どうするか」になります。

承平天慶の乱の記憶はまだ残っていたかもしれません。武士にとっては重要な反乱ですから覚えていても不思議ありません。承平天慶の乱で将門が用いたフレーズは京都政権の否定です。しかしこれは失敗に終っています。そうなると清盛が政権掌握に参考にしたのは、藤原摂関政治院政ではなかったかと考えます。摂関政治院政も成功例であり、手法も熟知しています。


平治の乱後に軍事力を権力基盤に平家は台頭します。これは清盛の計算通りと思いますが、とりあえずは摂関政治式の権力掌握を目指したと考えます。お蔭で追い落とされる事になった従来の貴族からはボロクソに書かれ記録される事になります。追い落とされる方からすれば当然の反応でしょうが、清盛の実像はかなり歪められたとは思っています。

では清盛は摂関政治式を完成と思っていたかどうかです。ある時期までは人臣ですから摂関政治式以外に手法はないと思っていたかもしれませんが、やはり旧来の貴族の抵抗も強かったでしょうし、後白河法皇院政もどきの政治基盤を築いています。これらに対し軍事力は暗黙の脅しにはなりますが、直接の干渉手段としては使い難いところがあります。

とくに後白河法皇の政治力は清盛をもってしても手を焼いたらしいは随所に記録として残されています。ま、院政が始まって以来、いわゆる朝廷と院の政治関係は非常に複雑になっており、摂関政治式で朝廷を抑えても、朝廷から独立している院の勢力を押さえ込みにくかったと見ます。なんつうても相手は妖怪とも大天狗とも言われる後白河法皇です。


そうなると清盛のさらなる権力掌握のためには、後白河法皇院政をなんとかしなければなりません。なんとかの直接手段は後白河法皇を放逐して院政を叩き潰す事ですが、そういう短期的な話ではなく、安定政権としての平家政権のあり方です。

これは想像の領域にかなりなりますが、院政方式は清盛にとっても魅力的な方法に思えた可能性はあります。摂関政治式はやはり主舞台が朝廷であり、朝廷で政治を行なうには煩瑣な手続きや儀式がテンコモリあります。それに対し院政は、もっと簡略にダイレクトに政治が行なえます。悪く言えば独裁ですし、良く言えばリーダーシップです。

しかし院政が行えるのは上皇とか法皇になるのが原則と言うより鉄則です。院政そのものを清盛が行うわけにはいかないので、院政的な朝廷外の新たな権力装置を考えていたは言いすぎでしょうか。実際にどうであったかがさすがに良く知らないのですが、とくに晩年に朝廷ではなく、屋敷のあった六波羅からの命令と言う形式で政治を動かしていた形跡は窺えます。

また福原遷都も色んな政治的意味合いは言われていますが、京都では清盛式院政をやるには抵抗が大きすぎたため、自分の完全な勢力範囲で清盛式院政を完成させようの意図でもあったんじゃないかと思っています。結局あれこれ摸索したものの、有効な新たな政治形態を確立することが出来なかったとも見えます。


この清盛式院政の限界は、権力でなく権威の基盤があくまでも天皇であった点かも知れません。清盛をもってしても、最高権力者は天皇の代人(摂関政治式)、もしくは天皇さえしのぐ権威(院政式)以上はできなかったと言う事です。この点をもって清盛は頼朝より政治能力が落ちるとの評価もありますが、私はむしろパイオニアと後継者の違いのように思えます。


清盛と頼朝

清盛は権力が軍事力に移行した事を自覚して動いた人物と私は見ます。清盛の政治テーマは軍事力を基盤とした政権のあり方はどうすべきかであったように考えています。私の勉強不足なんですが、全盛時の平家の荘園は広大であったとされます。清盛はその荘園支配をどうやっていたのだろうです。従来方式と同じかどうかです。

ここに違うエッセンスを清盛は持ち込んでいた様に考えています。理由は清盛死後の源平合戦での平家の怖ろしいほどの強靭さです。荘園支配の特徴は、公式の所有者(貴族)の影が非常に薄いです。つまり税金だけ取るが、後は丸投げ方式です。清盛の平家は、もう一歩踏み込んだ支配形式を取っていたのではないかです。

荘園支配に武士が不満を持ったのは、実質の支配者である土地寄進者の地位が極めて不安定であった事です。形の上では中央貴族の家来みたいな形式でしたが、中央貴族と武士の身分関係は圧倒的であり、中央貴族の意向一つで自分の土地がどうなるか常に不安であったぐらいの解釈で良いかと思います。

平家は武家です。従来の貴族支配に較べると、身分差の距離は近く、また同じ武家であるの同業意識もあると考えます。同じ家来であっても、武家の平家の家臣なら安定感が違います。平家が家臣として支配を認めた土地は、従来より土地所有権の感触が強かったんじゃないかです。清盛は太政大臣まで昇進しますから、清盛のお墨付(当時そんなものがあったかどうかは知りません)は準公式認証ぐらいの価値があったんじゃないかと言う事です。

この土地の公式所有権を得ると言うのは、当時の武士にとって「一所懸命」の言葉通りに至上の価値がありましたから、強い平家への忠誠心として反映されたとしても不思議ありません。そういう支配形式を清盛は意図的に進めていたんじゃないかです。

また領地争いなどの紛争についても、それこそ軍事力での庇護を行っていたです。他の貴族所有の荘園との争いであれば、それこその軍事力誇示で自分の家臣の権益を守っていたです。自分の家臣同士の争いでも積極的に仲裁に当たったも考えられます。そうなれば武士は平家支配の荘園になりたがるでしょうし、貴族からはボロクソ記録されて不思議ありません。


何が言いたいかですが、源平合戦の後に頼朝は鎌倉幕府を成立させます。史上初の武家政権の設立者として頼朝の評価は非常に高いものがあります。頼朝の幕府システムは斬新なものでしたが、これを頼朝およびそのブレーンが独創したものかどうかが少々疑問です。

頼朝が冷徹なリアリストである事は私も同意ですが、同時にクリエーターとかアイデアマンだったかと言われると「どうか」と思ってしまいます。一方で清盛はクリエーター、アイデアマンの匂いはプンプンします。根拠はきわめて薄弱ですが、頼朝は清盛式を導入し完成させたんじゃないかです。


頼朝が京都から遠く離れた鎌倉に根拠地を置いたのは、偉大な政治的判断であったとされています。私もそう思います。この京都から距離を置いての政権根拠地構想は、清盛の福原遷都を念頭に置いている様な気がしてなりません。福原遷都から受け取れる教訓として、

  1. 人の記憶に新しいうちでの京都以外に政権根拠地が出来ている先例
  2. 根拠地に京都貴族を入れると失敗する
  3. 後白河院政への有力な対抗手段
もし福原遷都の先例が無ければ、根拠地は京都でなければならないというのが当事の常識であり、頼朝も上洛して「奢る源氏」をやらないと政権が取れません。先駆者清盛が福原遷都で失敗した点は是正し、活かせる点はフルに活用したのが鎌倉根拠地であった様な気がします。

土地支配については直輸入に近そうな気がします。まず幕府に味方する武士たちの土地を幕府所有にしたと考えても良いと思います。貴族所有でもなく、国衙領でもない幕府の土地であると言う形式です。その上で、武士を御家人として家来とし、幕府と言う公式機関から公式の所有権を認めるです。所有権の保証として全国に守護を置き、この権利を守ったです。これも太政大臣の家来と言う平家方式をさらに組織化、高度化したもんじゃないかと言う事です。


なにより頼朝が参考にしたのは、京都勢力との距離の置き方ではなかったかと思います。清盛ほどの英雄であっても京都の旧勢力との抗争に手を焼いています。頼朝は自分なら出来ると考えずに、京都と鎌倉の支配領域を切り離してしまう方式を選んだのだと考えています。清盛は京都で勢力拡張をやりましたが、頼朝は地方で勢力拡張をやろうです。

京都の旧勢力は京都では清盛でさえ手を焼くほど強かったですが、地方に行けば武士の軍事力は圧倒的です。地方から京都貴族の勢力を剥いで行き、鎌倉政権をパワーアップしていこうの政治戦略です。これは清盛の結果的な失敗を参照にしたんじゃなかろうかです。


時代の転換期には英雄が出現します。平安貴族政治から武家政治への転換点が源平時代です。転換のために歴史は二人の英雄を世に生み出した様な気がしています。武家政治への扉を開けた清盛と、これをしっかり固定させた頼朝です。戦国期に喩えると、信長・秀吉が清盛で家康が頼朝ぐらいの役回りでしょうか。清盛が荒ごなしした武家政治路線を頼朝が仕上げたぐらいの感じです。

清盛はパイオニアであるが故に失敗もあり、試行錯誤もあったと思っています。頼朝は清盛の成功を発展させ、失敗は教訓としたです。断っておきますが、頼朝の功績を貶める気は微塵もありません。私の推測どおりであっても、これを完成させた実務能力は史上最高の政治家であるの評価は変わりません。二人がいてこそ、江戸時代まで連綿と続く武家政権が誕生したのだと思います。


清盛の孤独感

頼朝の源氏と違い、清盛の平家は一族の結束が高かった事は間違いありません。それだけの繁栄を清盛はもたらしたのですが、清盛自身の晩年は寂しかったかもしれません。親族的な寂しさと言うより、政治的な寂しさと言えばよいでしょうか。上述した様に清盛は平家幕府とも言うべき政権構想を持っていたと思います。しかしこれを理解できるものがいなかったと言う事です。

清盛以外の平家一門もボンクラの集団ではありません。清盛の後継となった宗盛も後世の評価は高くありませんが、都落ち、一の谷、壇ノ浦をやってのけるほどの実績を残しています。負けたのは稀代の戦術家である義経が源氏方に存在したためと思っています。

他にも俊英はいましたが、残念ながら清盛構想を理解し受け継げるほどの人物がいなかったと見ています。かつての藤原氏のように朝廷の高位を独占した事で「これ以上、何が必要」の意識は濃厚ではなかったかと考えています。それだけでは後白河院政や、旧来の貴族勢力に再び足許を掬われる危機感が清盛にあったと思っていますが、これを理解できる人材についに恵まれなかったと言うところです。


清盛の危惧は晩年に訪れます。東国での源氏の蜂起です。清盛の頭の中には、かつて平治の乱で源氏勢力を殲滅し、平家政権を作り上げた時の事が頭をよぎったかもしれません。そういう事態になっても対応できる政権基盤を清盛は作りたかったのだと思っています。歴史の皮肉は、清盛の政治的後継者は平家にもたらさず、源氏に配役したと言う事です。

軍事でも計り知れないほど強大と信じられていた平家を、源氏が討ち滅ぼす事による軍事的デモンストレーションが、武家政権成立のために必要と判断したのかもしれません。


あとがき・もう一度保元の乱を振り返る

平家台頭の契機になった保元の乱ですが、考えれば考えるほど興味深い構図になっていると思います。まず注目すべきは藤原摂関家の勢力の衰退です。保元の乱の基本構図は「崇徳上皇 vs 後白河天皇」です。でもって争ったのは次期院政主催者の座です。事実、この乱で勝った後白河天皇は3年で退位し院政を再開しています。

つまり院政から摂関家が政治主導権を奪回する政争にはなっていないです。そのため保元の乱では摂関家も次期院政主導者に加担する事によるおこぼれを貰う立場になり、そのため摂関家自体も双方に分裂する事になります。

保元の乱では権力闘争に軍事力が導入された政争ですが、この時に軍事力を動員できた在京勢力は言うまでも無く源氏と平家です。ではどっちの方が大きかったかですが、どうも源氏の方がかなり大きかったと見ても良さそうな気がします。では当時の源氏が成長の足がかりにしていた勢力はどこかになりますが、これが藤原摂関家です。

源氏は摂関家との関りで勢力拡大を行ってきた経緯があります。承平天慶の乱の後に武士が歴史の表舞台に出てきますが、出てきた武士は中央政権に深く取りいる事を目指し、その時の政権掌握者は摂関家です。それも黄金時代といわれる道長・頼通の時代です。源氏には義家と言う英雄も出現し、前九年・後三年の役を中心に大きな勢力をつくります。

この源氏と摂関家の関係ですが、保元の乱までに微妙な経緯をたどる事になります。単純には勢力が大きくなりすぎた源氏を摂関家が疎み始めた事があるとされます。これは摂関家が疎んだのも理由でしょうが、摂関家に源氏と言う駒を使いこなせる人物が枯渇したのも理由だと思っています。保元の乱の前に白河、鳥羽の院政時代があるのですが、摂関家院政の下風に立ってしまったのは史実です。

摂関家の力の衰えと、摂関家との関係のために院政に距離が出来てしまったのが保元の乱当時の源氏の課題であったと見ます。一方の平家は白河法皇摂関家との対抗上引き立てられた勢力と見なしてよいでしょう。良くは調べてはいませんが、鳥羽上皇の時代になっても院政側の犬として変わらぬ地位を得ていたと考えます。


院政の正統継承者は誰かを考えた時に源氏と平家の命運が分かれた様な気がします。平家の判断はシンプルで、鳥羽上皇がわざわざ28歳の後白河天皇を擁立していますから、後白河天皇こそが院政の正統後継者であると見たと思います。つうか、主流派の鳥羽上皇ラインにいた平家としては、反主流派の崇徳上皇が後継者では困るです。

では源氏です。源氏は後白河側にも崇徳側にもさして関係が深くなかったと見ます。考えなければならないのは、この乱を利用していかに源氏勢力を台頭させるかです。ここで2つの考え方が出たと思っています。

  1. 平家が後白河側についているから、これに便乗すれば必勝。ただしその時には、従来の関係から平家の下風に付かざるをえなくなるかもしれない。
  2. やや弱体の崇徳側につき、平家加担の後白河側を撃破すれば、今後に武士筆頭として重用される。
おそらく1.を主張しなおかつ源氏の勢力の大きさからして、乱の後も平家の下風に付く事はないと主張したのが嫡子義朝であり、平家と決戦で独占市場を目指したのが当主為義だったんじゃないかと思います。この辺は為義が当初は院政に接近していたにも関らず、結果として冷遇された感情もあると思ってはいます。為義にすれば、1.のプランでは源氏台頭の目は無いとの判断です。

源氏にすれば本当はどっちでも良かったような気がします。どっちでもと言うのは、源氏勢力が一本化すれば、加担した方が勝つからです。それぐらい当時の源氏と平家の力の差はあったんじゃないかと思っています。後白河側について勝利すれば、その勢力の大きさは無視できず、保元の乱の第二幕である平治の乱でも様相が変わっていた可能性さえあります。

しかし結果としては最悪の二分です。為義は崇徳側につき、義朝は後白河側に走りです。源氏のうち義朝勢力の加勢を得た後白河側が優位となって勝つのですが、そのため源氏勢力は平家勢力を下回る結果になってしまったと思います。小さくなってしまった源氏勢力で、乾坤一擲の勢力挽回を狙ったのが平治の乱と言うわけです。


もっとも保元の乱で源氏勢力が一本化していても、源平の帰趨は不明です。つうかこれも一本化できないのが歴史に与えた源氏の使命であったのかもしれません。義朝の器量では武士筆頭の地位を得ても、清盛の代役は到底務まりません。また頼朝による鎌倉幕府樹立も清盛が切り開いた道がなければ、やはり無理があったように思います。

時代の転換期は英雄の時代であり、英雄に歴史が微笑むのも歴史の様に思います。なんとか清盛までたどり着いたので、今日はこの辺で休題にさせて頂きます。