決めセリフの検証

2/6付週間ダイヤモンドより、

内容全体は「もう」どうでも良いのですが、

本来、医師は高い志やコミュニケーション能力が要求される職業だ。だが、偏差値偏重の今の制度では、協調性や思いやりに欠ける生徒も入学してくる。

定番の決めセリフですが、たまにはじっくり取り組んでみます。


偏差値とは何ぞや

今回記事になっている場合の偏差値とは学力の指標です。もっとあからさまに言えば、高校生が大学入試に求められる学力の指標であり、そこには人格的要素も身体的要素も一片も含まれていません。

では具体的に偏差値は何を示しているかです。おおよそ2つの指標を示していると考えられます。

  1. 忍耐力
  2. 応用力
学力としてまず求められるのは基礎知識の習得です。英語なんかがわかりやすいかも知れませんが、とにかく単語、文法、慣用句を覚えなければなりません。歴史もそうで史実をとにかく覚えないといけません。いかなる教科であっても求められる基礎知識があり、これを覚えなければ次の段階に進めません。これを覚える能力が忍耐力です。スポーツなら基礎体力作りにあたります。

これが一般的には実に面白くありません。多感な時代ですから、他への誘惑を我慢しながら覚えこむことが必要であり、さらに長期間の継続が求められます。一夜漬で済ませられる量ではないのは皆様良く御存知の通りです。さらに覚えるときには集中力も必要です。漫然とやっていたら時間ばかりがかかって、成果が上がりません。

そうやって基礎知識を習得したら次に試されるのは応用力です。応用力と言っても、習得した基礎知識の組み合わせ能力と言ったほうが良いかもしれません。もう少し言えば、基礎知識の習得は往々にして断片的な習得になります。これを横断的に使いこなす能力と言っても良いかもしれません。さらにもう一面で言えば、基礎知識の習得の深さを見ているとも言えます。

たとえば解けなかった問題があるとします。解答を見た時の反応として、

  • 「なるほど、そうやって考えるんだ」
  • 「そこまで知ってなければならないのか」
「なるほど」の反応は応用力の不足です。「そこまで」は基礎知識の不足です。これらを現す指標が偏差値です。


偏差値的学力と偏差値的能力

偏差値的学力はあくまでも高校までの学力の指標に過ぎません。だから偏差値と本人の真の能力・適性は無関係であるの主張はあります。一面は真実であり、一面は違うと考えています。偏差値的能力と言う指標です。偏差値とは見方を変えれば、高校までの教科を材料にしての基礎知識の習得力と、それを使っての応用力を測っている指標と見ることもできます。もっとピュアに見れば、いかなる題材に対する知識習得力と応用力があるかを計る指標と考える事も可能です。

ここもあえて定義しておくと、

    偏差値的学力・・・大学入試のための学力
    偏差値的能力・・・あらゆる題材に対する基礎知識習得力とその応用力
違いがわかりますか。学部によって差はありますが、高校までの授業の延長線上に大学の教育があるわけでは必ずしもありません。もちろんまったく無縁ではありませんし、学部教育の基礎学力として必要ですが、大学では高校までとまったく違う体系の学問を習得する場であるとも言えると思います。

学生として求められるのは、新しい学問体系を実質ととしてイチから学習する事が出来る能力の有無です。そういう能力は、偏差値が要求する基礎知識習得力と応用力がニア・イコールになるとも言えます。あくまでも見方ですが、高校時代までに学校の教材で能力の壮大なテストをやっていたとも言えます。つまり英語なり数学が学力として優れているというより、英語なり数学と言う題材を身につける能力をより高くと言うか同時に評価していると言う事です。

高校の教材で偏差値的学力が発揮できるのであれば、大学での新たな体系の学問の習得でも同じような能力を発揮できるはずだの見方です。一番良いのは大学の教育で試すのが良いのでしょうが、そんな事は全員に出来ないので高校までの偏差値で代用です。

こう書くと何か偏差値至上主義者みたいになっちゃいますが、偏差値と言う物指しも欠点は多々あります。偏差値的能力評価にしても結局のところ「サッカーが上手ければスポーツは万能のはず」式のものであり、共通項としての運動能力を一つの競技の実績から類推しているものに過ぎません。ですから当然ハズレも出てくるわけです。

ただ他の指標を用いるより近似値としてまだマシであり、これに取って代わる指標が現在のところないので使われているだけだと思っています。


私は医学部しか経験が無いので経験値が狭いですが、医学部では偏差値的能力の物指しはある程度有用と考えています。医学部教育はとりあえず膨大な基礎知識を習得しなければなりません。基礎知識が膨大ならその応用もまた大変と言う事です。これも偏りすぎた見解かもしれませんが、医学部で求められる能力は創造力ではありません。むしろ偏差値的能力に基づく高い情報処理能力とした方が相応しいと思っています。

正直なところ、あの陰気な暗記はかなりの忍耐力が必要と今でも思っています。今でもそんなに変わっていないと思いますが、医学部レベルの医学知識なんて殆んどは理屈でなく、単に存在する現象の暗記ですから結構大変なもので、なおかつそんな事を6年も続けるわけです。


偏差値的能力の限界

偏差値的能力には冒頭の方で記した通り、人格的要素は一切含まれません。人格的要素と偏差値的能力は別個の指標になるかと考えています。世の中には残念ながら人格的に問題のある人間は一定の比率で存在します。ただし偏差値的能力と連動しているとは思えません。偏差値的能力の高い群にも、中ぐらいの群にも、低い群にも分布しています。

私の知る限り、どの群にどれほどの分布がある、つまり濃淡があるとの明確な研究データはなかったかと存じます。基本的に独立した指標ですから、相関性を論じる事にはあまり意味はないとさせて頂きます。

偏差値的能力の高い者は、医学教育を習得する点については、医学部教育の特性からして適性が高いと今日はしています。しかし医師になれる(国家試験に合格する)のには適性が高くとも、医師として人格的適性があるかどうかは偏差値では計れないの指摘は間違っていません。これは偏差値が計っているものがまったく別の能力であるので必然として生じます。


人格の指標は作れるか

問題医師の出現を極力抑制し出来ればゼロにするべきだは、論だけでは天下無敵の正論です。ただ正論を唱えるだけで何事も解決するのなら世の中苦労しません。問題医師をたとえば医学部入学時点で排除するとなればどういう指標が必要かです。医学部学習に求められる能力は偏差値的能力が指標となると今日はしています。しかしこの指標だけでは人格評価は不可能です。

そうなると人格を評価する指標が必要になります。具体的な手法論は今日は控えたいと思いますが、人格的能力をなんらかの方法で評価することの空恐ろしさをご存知なのだろうか思っています。記事ではさも当然のように、

    協調性や思いやりに欠ける生徒
こういう人物を排除すべしと唱えていますが、少しでも考えれば、こういう人物は医師だけでなく、かなり広範囲の職業で失格の烙印を押されます。それも高校生の時点で押されるわけです。そういう人格評価を高校時代に刻み付けろと記事は主張されているのでしょうか。医学部在学中でも同じようなものです。言ったら悪いですが、そういう指標を高校生(大学生、いや社会人でも)の評価に導入するなんて事の実現性はゼロに近い様な気がしています。

ま、偏差値は必要条件であり、人格的要素は十分条件とは言えますが、この2つの条件は独立しており、なおかつ人格的評価をとくに大学入試レベルで行うのは不可能に近く、入学後であっても余程の外れ値に間接的に対応するのが「やっと」として良いでしょう。これは医学部だけでなく普遍的にほぼすべての学部にある程度共通しています。


これも社会かも

問題人物はあらゆる職種に存在します。もし存在しない職種があれば教えて頂きたいと思います。もっとも問題人物と言っても濃淡はそれこそ様々であり、言い様によっては、私も含めてほぼすべての人間はなにがしらかの問題を持っています。

問題人物でも極端なものは、それこそ犯罪行為まで手を染め、然るべき処分を受けます。しかしそれ未満の者は確実に存在し続けます。そういう人物は迷惑がられながらも、周囲がカバーしながら、また激しい摩擦を起こしながらも「なんとか」社会の一員として組み込みながら暮らしているのが実相だと思っています。

存在理由としてはたとえば「協調性」や「思いやり」が乏しくても、持っている技術・能力への評価とか、違った角度からの発想力を評価されたりがあったりします。場合によっては員数合わせ、猫の手扱いでも価値が認められるも時に認められます。さらには「協調性」や「思いやり」があまり必要としない分野の仕事も少ないですがきっとあると思います。

かなり弩級の問題人物と付き合うのは本音では嫌です。そりゃ排除したいと思ってしまうのは自然な感情です。私もウンザリするような経験をした事があります。それでも全部排除は無理じゃないかと思っています。否応無しで存在は厳然としてあるわけですから、自分が出来る範囲でどう対応するかを考えるのもまた社会かと思っています。