日曜閑話45

今日のお題は「院政」です。日曜閑話44で「荘園」をやった続きで、清盛の話に続けたいの意図をもったシリーズぐらいでお楽しみ下さい。この院政と言う言葉は現在も使われていまして、これは大辞泉からですが、

  1. 院の庁で、上皇または法皇が国政を行っていた政治形態。応徳3年(1086)白河上皇に始まり、天保11年(1840)光格上皇崩御まで断続して行われた。
  2. 現職を引退した人が、なお実権を握っていること。「会長が―をしく」

今日のお話は当然1.の定義になるのですが、現在良く使われるのは2.の定義です。ですからどうにも印象が良くない言葉ではあります。この辺も白河・後白河の両法皇の印象のためと思っていますが、さてさてその実態はと言う事になります。


藤原摂関政治

これは院政の前に延々と続いていた政治形態で、藤原氏の政治支配の典型スタイルとしても良いかと思っています。藤原氏の政治指向はあくまでも天皇を立てる事によるNo.2で権力を揮うところにあります。これは藤原氏がどんなに肥大化し、巨大化してもそうです。藤原氏鎌足から台頭しますが、大きく躍進したのは持統天皇とタッグを組んだ不比等の時代からになります。

細かな経過は省略しますが、他氏を次々に排斥してゆき、また藤原家内部も激しい内部抗争を繰り返しながらやがて藤原北家がほぼ独占権力として台頭します。大きくなった藤原氏は娘を天皇家に嫁がせ、生まれた子供を天皇とし、天皇の外祖父として朝廷の中枢を独占する政治形態を出現させます。簡単には天皇が幼少のうちは摂政として、成人してからは関白として政治権力を揮うです。

全盛期は藤原道長藤原頼通の時代になります。ここも面白いのは、ここまで政治権力を独占しながらも、外形として律令政治を守っています。道長や頼通は非常な権力者ではありますし、実質として意のままに政治を動かせる力はありましたが、決して藤原家の私的政治形態にしなかったと言う事です。私的の意味の説明が微妙なんですが、あえて喩えれば幕府を作って朝廷と別に政治を行なうようなものと思って頂ければ良いかと思います。

摂政・関白といえどもあくまでも朝廷からの任命であり、政治もあくまでも太政官の合意の形態を崩さなかったとすれば良いでしょうか。逆に言えば、私的にしなかったがために院政を許し、さらに清盛の台頭を許してしまったとも言えるかも知れません。

藤原摂関政治藤原氏のための藤原氏の政治ではありましたが、あくまでも藤原氏の勢力が朝廷権力を独占していただけの政治形態であり、藤原氏が衰えると朝廷の勢力が取って代わられる余地を残していたとしても良さそうな気はします。


藤原摂関政治の衰退は全盛を極めた道長・頼通時代の直後に訪れます。藤原氏勢力が衰えた理由は、内輪もめと有力指導者の枯渇です。内輪もめも勢力台頭期なら勝ち抜いた有力指導者が、それこそ「雨降って地固まる」式でさらなる勢力の拡大につながったりもします。道長なんかはそれに当てはまります。しかし衰退期になるとひたすら勢力を消耗し、出てくる人物も小粒になってしまいます。

遥か不比等の時代から連綿と権力中枢に座り続けた藤原氏も、以後は衰えるだけの存在になります。藤原氏の勢力の衰えが院政時代を招きよせたと思っています。また藤原幕府的な政治形態を取っていなかったがために、平家が台頭しても生き残り、鎌倉幕府からの武家政権江戸幕府まで続いても衰微しながらも生き残ったとしても良さそうな気がします。

ここでちょっと年表を作ってみます。

事柄
669年 鎌足死す
720年 不比等死す
826年 冬嗣死す(北家始祖内麻呂の子))
857年 冬嗣の子良房、太政大臣に(皇族以外で初)
866年 良房、摂政になる(摂関政治スタート)
884年 良房の養子基経、関白になる
930年 基経の子忠平、摂政になる
941年 忠平、関白となる(初めて摂政・関白歴任)
1016年 道長摂政となる(1年で辞任)
1017年 道長の子頼通、摂政になる
1068年 後三条天皇即位
1073年 後三条天皇崩御
1074年 頼通死す


用語の整理ですが、太政大臣とは人臣の最高位になります。もともとは左大臣が最高だったのですが、臨時に置かれるはずだった太政大臣が最高位として定着します。ま、総理大臣みたいなものでしょうか。摂政とは天皇が幼い時に代わって政治を預かるものです。幼少の天皇の後見人みたいな感じです。最後に関白ですが、これは成人の天皇摂政、つまり後見人みたいなものです。

律令政治と言っても、太政官政治と言っても良いでしょうが、基本は太政官が集約した意見を天皇が裁可するです。単純化すれば、人臣である太政官政府と天皇の二重権力状態としても良いかと思います。摂関政治とは、二重の権力の一方である天皇の代人を摂政・関白として兼ねてしまうと形態と理解しても良さそうです。摂政・関白として天皇の権力を封じると同時に、太政大臣として太政官政府として支配するです。

良房の時代から皇族勢力の巻き返しもありましたが、頼通までおよそ200年間ぐらいが摂関政治であったとしても良いと思います。そのうち頼通の時代は50年もありますが、頼通と言うか藤原氏にとって痛かったのは、頼通が差し出した娘からついに男児が得られない状態になります。つまり外祖父として摂政になる事ができなかったと言う事です。

皇位継承については頼通も様々に努力した形跡はありますが、藤原氏系の親王が枯渇した状態を如何ともしがたく、ついに非藤原系の後三条天皇が即位する事になります。なんとなく奈良朝の末期状態を想起させるような状況になります。


今回その気になって調べてみるまで疑問だったのですが、藤原氏は北家が主流を為します。摂関政治を主導したのは北家であるとしてよいでしょうし、有力貴族も殆んどが北家系であるはずです。藤原氏以外の有力貴族は排斥されています。藤原氏も北家以外は衰微しています。ここらへんまでは常識なのですが、権力を握った北家はさらなる内部抗争に突入したようです。

同じ北家系列でも分派が進み、本家筋にあたる摂関家とその他の藤原氏では同属と言うより対立関係になっていたとしてもよさそうです。後三条天皇宇多天皇以来170年ぶりの非藤原系天皇であるとはされますが、父である御朱雀天皇も母である禎子内親王道長の外孫)も藤原氏の血流です。ですから正確には非藤原系と言うより非摂関家系の天皇とした方が正確そうです。対立は政争も絡みますから、見ようによっては摂関家と非摂関家藤原氏同士の抗争の末に登場したとも言えそうです。

もう一つ感覚的に重要なのは、これほど藤原摂関政治が続いても天皇の権威自体は非常に重かったと言う事です。それとかなり分かり難いのですが、藤原氏の血を引いても皇族の一族意識は、どうも藤原氏では必ずしもないような感じを受けます。推測ですが、皇族からすれば藤原氏はあくまでも臣下であり、臣下の血は皇族に入っても皇族は皇族であるみたいな感じでしょうか。

ちょっと言い過ぎかもしれませんが、当時も皇統争いは権力闘争も絡んで大きな問題であったようです。当時は相続法が曖昧な時代で、必ずしも長子(嫡子)相続でなかった面があります。嫡子に実力があれば良いのですが、そうでなければ他の子供や一族までが乗り出してきて相続争いが起こります。これは鎌倉時代になっても続き、さらに南北朝時代も続き、室町時代も続きます。

実力者による相続は良い面もあるのですが、一度相続者になればそこに系統が生まれます。前相続者の系統も健在なわけですから、どちらも正統であるの主張があります。事は天皇位ですから、有力貴族も加担しての政争にすぐ発展します。つうか摂関家自体もさらなる相続争いの火種を抱えており、相続者としての権力基盤拡大のために自分の血統の天皇を擁立しようと奔走します。

どうもなんですが、玉である天皇位の相続争いが皇族を藤原氏とせず、あくまでも皇族として残したようにも思います。


でもって後三条天皇は資質も悪くなかったようで、藤原摂関家の勢力が退潮した間隙を活かして親政を行ったようです。応援したのは非摂関家藤原氏であったようにも思います。後三条天皇は一説に依ればこのまま院政に移行する意図もあったとされますが、在位4年で病死します。後継はついにあの白河天皇になります。


院政時代に

やっと院政にたどりついた。後は皆様の御存知の通りにしたいのですが、そうはいかないので続けます。まずは楽してwikipediaより、

次の白河天皇の母も摂関家ではない閑院流出身で中納言藤原公成の娘、春宮大夫藤原能信の養女である女御藤原茂子であったため、白河天皇は、関白を置いたが後三条天皇と同様に親政を行った。白河天皇は応徳3年(1086年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し太上天皇上皇)となったが、幼帝を後見するため白川院と称して、引き続き政務に当たった。一般的にはこれが院政の始まりであるとされている。嘉承2年(1107年)に堀河天皇が没するとその皇子(鳥羽天皇)が4歳で即位し、独自性が見られた堀河天皇の時代より白河上皇院政を強化することに成功した。白河上皇以後、院政を布いた上皇治天の君、すなわち事実上の国王として君臨し、天皇は「まるで東宮(皇太子)のようだ」と言われるようになった。

以下も延々とwikipediaの解説は続くのですが、まずは白河天皇後三条天皇同様に非摂関家系の支持が勢力基盤であったと見ます。頼通死後の摂関家は後継争いと人材難でこれに対抗するのが難しい状態に陥ったと考えるのが良いでしょう。ここで白河天皇は権力維持のために幼少の堀河天皇皇位を譲り、自分は上皇となって後見するスタイルを取ります。

摂関政治で言う摂政の地位になると思いますが、前天皇摂政になれるわけもないので、上皇としての後見です。摂関政治では外祖父でしたが、白河上皇は実父ですから関係は強力です。ただ摂政でもなく、ましてや太政大臣でもありませんから、太政官政府を直接支配するわけにはいきません。そこで朝廷外の上皇邸宅(白川院)から後見役として政治に関与する事になります。

当時の天皇権威の強さでしょうか。天皇が頭の上らない白河上皇に権力が集まったと見えます。集まったというより、白河上皇の判断が天皇の判断になるため、朝廷ではなく白川院に有力貴族が集まり政治の決定を行うようになったと解釈するほうが良さそうです。簡単に考えるなら、朝廷以外に白川幕府が成立してしまった感じでしょうか。

たぶんですが元の太政官政府(朝廷)は力を落としたとは言え摂関家の牙城ですから、非摂関家藤原氏も白川院に集まって白川上皇の下で政治を動かす方がやりやすいの判断もあったのだとも考えられます。これが成立してしまったのは、白河上皇の器量に対し、これに対抗できるほどの人材が摂関家にも非摂関家にもいなかったのも原因と見ます。

白河上皇の権力の源泉として皇位継承に絶対的な力を発揮したのもあるとされます。藤原摂関政治時代も皇位継承でもめていますが、上皇として事実上の天皇指名権を握り、これに誰も対抗できなかったと言えます。最高権威をすげ替える実力者はさらなる権威者になると言う事です。白河上皇は1096年にかの有名な白河法皇になります。


院政の弱点

院政の権力の源泉に皇位継承決定権があるとしましたが、これは同時に院政の弱点になることになります。院政院政たる所以は院の命令を朝廷と言うか、天皇が聞き入れざるを得ない状態になっている事です。しかし正統政府はあくまでも朝廷であり、最高権威者は天皇です。最高権威者の天皇上皇なり法皇の言う事を聞いてこその院政になります。

そのためには天皇が言う事を聞く、あからさまに言えば言う事を聞かざるを得ないような幼少の君である事が望ましくなります。院も非公式な政治機関ですから、天皇が親政を始められると困ると言う事です。白河院政時代の皇位継承をまとめます。

事柄
1073年 白河天皇即位
1087年 堀河天皇(8歳)に譲位
1107年 堀河天皇崩御(28歳)、同年鳥羽天皇即位(4歳)
1123年 鳥羽天皇退位(20歳)、同年崇徳天皇(4歳)即位
1129年 白河法皇崩御


堀河天皇は28歳で崩御するまで天皇位にいますが、この時は白河法皇の権力基盤も十分でなかったともされます。しかし次の鳥羽天皇は20歳で譲位させられています。鳥羽天皇上皇となって白河院政の後を継ぐことになる人物ですが、そういう権力臭を白河法皇は嗅ぎ取って強引でも崇徳天皇に譲位させたと見ます。堀河天皇の時代と違い、白河院政の権力が頂点になっている時代ですから抵抗しようもなかったと考えます。

白河法皇崩御は1129年ですが、この時に崇徳天皇は10歳ぐらいになります。10歳では後見人が必要なんですが、ここに鳥羽上皇白河法皇に代わって座る事になります。ただ鳥羽上皇は20歳で強制的に譲位させられた恨みがあったとしても良いでしょう。自分の代わりに天皇になった崇徳天皇を1142年に譲位させ3歳の近衛天皇を即位させます。もちろんそれだけではなくて白河法皇流の幼少の天皇を操作して院政を維持する意図もあったとは考えます。

鳥羽上皇近衛天皇が1155年に16歳で崩御すると、近衛天皇の兄である後白河天皇を28歳で即位させます。それでもって1156年に鳥羽上皇(1142年からは法皇)は崩御します。


白河法皇鳥羽上皇の二代にわたる院政時代のツケが崇徳上皇に残る展開になったのがお判りでしょうか。天皇を傀儡に留め置くために無理な譲位を行ったがために、鳥羽上皇崇徳上皇の二人の怨念者を生み出します。鳥羽上皇はそれでも院政を主催する事によって補いましたが、崇徳天皇はよほど鳥羽上皇に憎まれていたのか、近衛天皇の後継は院政の条件である幼少の君ではなく成人天皇後白河天皇です。

天皇及び朝廷側と上皇法皇)及び院政側の力関係は当事者(とくに院政側)の政治力の違いにより揺れ動いてしまうのが院政の一つの弱点ですし、院政側の主催者が天皇と違い明確な後継システムがなかったのも弱点だったと思います。院政側の都合で幼少の天皇を維持するために早期譲位から上皇なり法皇院政主催者)を量産する結果になるのも政争の火種になります。

ひょっとして鳥羽上皇近衛天皇の後継に幼少の君を据えていたなら、崇徳天皇が三代目の院政主催者になった可能性もありますが、後白河天皇が即位したため、流れは崇徳上皇を素っ飛ばして後白河天皇の早期退位から後白河法皇による院政に傾いてしまいます。結果論かもしれませんが、鳥羽上皇の人物眼は優れていたかもしれません。

白河法皇も怪物ですが、後白河法皇も妖怪です。後白河法皇院政時代は平氏台頭から全盛期に、さらには源平合戦から鎌倉幕府成立までの激動の時代ですが、あれだけの妖怪が京都に存在したので鎌倉に対抗する京都の朝廷勢力が維持できたのかもしれません。

しかし後白河天皇即位の代償も小さくありませんでした。怨念に燃える崇徳上皇保元の乱を引き起こす事になり、これが平家台頭の引き金になります。これは単に平家を台頭させただけではなく、武家を政権の表舞台に立たせ、平安時代の貴族政治を終焉させる起爆剤にもなったと言えます。

時代が変わる時ですから、鳥羽上皇の選択が崇徳上皇であっても変わりなかったかもしれません。ただこうやって調べてみると、せめて近衛天皇ではなく後白河天皇皇位にすえていたら、少しは歴史が変わったかもしれません。もっとも後白河天皇鳥羽上皇が健在のうちはどうしようもなかったかもしれません。天皇親政なんて始めれば、鳥羽上皇から猛烈な反撃が来るのは必定です。

ありえる結末としては「崇徳上皇 vs 後白河天皇」の保元の乱ではなく、「鳥羽上皇 vs 後白河天皇」の保元の乱に変わっただけだったかもしれません。今日はこの辺で休題にさせて頂きます。