日曜閑話44

今日のお題は「荘園」です。実は清盛の話を書こうと思ったのですが、その前に時代背景を掘り下げておこうと書き出したら、思わぬドツボに入り込み、荘園の話を中心に一つ独立させた方が良かろうになっています。話はあくまでも清盛の話につなげるための前フリの基礎知識です。この荘園制度と言うのが実に難物で、詳しくやろうとすれば本が一冊書けてしまうほどの代物です。もちろん私に本を書くほどの知識などあろうはずもなく、非常に浅い知識で、清盛の時代につなげるのに必要な知識の整理のためだけと御理解下さい。

荘園制度の話を触れたくなったのは、平安期の政府の財政事情です。これもまた良く分からないのですが、どうも深刻な財政危機に陥ったような気配が乏しい感触があります。深刻とは江戸幕府のような財政危機とかです。鎌倉幕府もまた末期には財政的に苦しくなっていますし、室町幕府もまたそうかと思っています。もっとも鎌倉、室町は財政危機と言っても江戸期とはまた違います。

財政危機の形態の違いは貨幣経済の普及度も関係するとは思っています。中国では早期に成立した貨幣経済ですが、日本ではなかなか普及しなかったのは実際です。ま、貨幣を作ってみても、それを使える範囲が極端に狭かったのが一つの原因と思っています。生産量も需要が少ない分だけ微々たる物で、一時の中国からの主要輸入品が銭だったみたいな事もあったそうです。

日本の貨幣経済の状況は、wikipediaから、

皇朝十二銭以降、朝廷は貨幣の発行を停止し、11世紀前期からはもっぱら絹が代用貨幣として用いられる時期が続いた。

11世紀といえば1000年代なんですが、清盛は1118年から1181年に生きた人ですから、清盛時代と言うか、それ以前の平安朝でも銭経済は殆んど存在しなかったしても良さそうな気がします。つまり物々交換の時代であったと言えます。もっとも銭経済が本当に日本に普及するのは戦国期以降とされますし、戦国期でも地方に行けば銭自体が滅多に見れるものでなかった傍証はたくさんあります。

物々交換と言っても、代用貨幣は存在したはずであり、絹もそうでしょうし、金銀なども当然そうであったとは思います。貨幣経済は確立していなくとも富の蓄積は確実に起こっているからです。でもって、平安朝時代はそういう代用貨幣の相場が異常に高かったんじゃないかと考えています。

たいした推理ではないのですが、代用貨幣も生産品であり、税としてロハで徴収します。その代用貨幣の価値には相場原理が働き難く、徴収した側が非常に高い価値をつければ、言い値で物々交換できるみたいな感じです。タダで徴収したものをさらに高く売りつけるみたいな構造もあったんじゃないかと思ったりしています。

もう一つ、平安朝の財政の特徴は、軍事支出が事実上なかった事です。以後の武家政権時代になると、元からが武力闘争で勝ち取った政権であり、ライバルに対して政権奪取後も優勢な武力を保有する事が安全保障になります。ところが平安期は国内外に常備軍を置く必要がなかったと言うか、置かなくても結局のところなんとかなってしまっている部分があります。

軍事予算は王朝の財政をかなり圧迫します。軍事行動を起さなくとも常備軍として抱えているだけで確実に圧迫されますし、実際の軍事行動を起そうものならなおさらです。この負担がゼロないし非常に低かったら財政負担は非常にラクになります。


ただ平安期の税は重かったようです。当時の身分制は大きく、身分が違えば人として見てもらえない時代です。これは見下ろす側もそうですし、見下ろされる側も無条件に畏怖していたとしても良いでしょう。そういう関係では税とは絞るだけ絞るものになります。中世以降の感覚なら、そういう状況が続けば反乱が起こるのですが、平安期では国を覆す反乱にさえならなかった時代と考えて良さそうです。

律令制度の公地公民制は早い時期に崩れ去りましたが、私有地であっても税はかかります。当時の徴税制度は、国司の請負制度に変質しています。これがどんなものかですが、大雑把に言えば、中央政府に納める税金以上に集めたものは国司の財産になると言う制度です。無茶苦茶と言えば無茶苦茶ですが、国司に任じられたものは在任中にあらゆる手を使って税をかけまくったと言うところでしょうか。

無茶苦茶な税金がかけられれば抗議の声も出そうなものですが、国司も京都の貴族もその点はグルですから、どこに訴えても無駄な世界が平安朝です。とはいえ、重税があればなんとかこれを免れようとするのが人情になります。荘園制度自体は幾多の変遷がありますが、荘園制がもっとも拡大した時期のシステムが、

自分の土地を中央の有力貴族や寺社に寄付してしまう方式です。寄付してしまえば寄付した方はスッカラカンになりそうなものですが、微妙な関係が寄付される側と寄付する側に生じます。寄付された方(貴族)は、寄進地を「自分の家の庭」であるとして免税地にしてしまいます。色んな手続きがあったようですが、中央貴族はグルですからどうとでも出来ます。

貴族側は寄進地を免税にした上で、より軽い税をかけます。さらに寄進地の管理人に寄進者を任命します。結果としてどうなるかですが、

  1. 寄進者は名目は管理人になってしまうが、実質として所有者になり、納める税金も格段に軽くなる
  2. 貴族側は実質何もせずに税だけ私有財産に出来る
貴族は寄進地を免税手続きするだけで財産が無条件に転がり込んできます。もっともここで寄進地を実質支配しようとしたならば、誰も寄進なんて行いませんから、名目だけの所有権と上ってくる税で満足みたいな形です。ただ所有権問題は実質の所有者である武士の不満につながっていき、ついには鎌倉幕府の成立に至る伏線とはなります。

これも初めて知ったのですが、拡大する荘園はどの程度まで達したかです。wikipediaからですが、

寄進により荘園は非常に増えたが、田地の約50%は公領(国衙領)として残存した。

印象として8割ぐらいが荘園になったと思っていましたが、それでも半分ぐらいだったようです。こういう荘園制度はあまり良い書き方はされていませんが、私はもうちょっと評価しても良いと思っています。



平安朝の政治と言ったところで実質のところ何もしていないに等しいと思っています。これは別に平安朝に限らず古代王権はどこも似たり寄ったりとは思っています。そういう中央政府が必要な理由は本来安全保障であるはずです。外敵からの侵入に備え、常備軍を整備するです。そのために国民から税を集めるです。

ところが平安朝では軍事安全保障について機能していません。つうか予算もかけていません。だからこそ、あの時代の国力で京都に華麗な王朝文化を花開かせたとも言えます。文化が花咲くためには富の蓄積とその消費者が不可欠です。ただそうなると平安朝の税は京都での消費のためのみに使われていたになります。

これもある程度古代史の必然ですが、文化が花開けばその負担は税に反映されます。これもまた当時的な感覚ですが、文化は京都にしか基本的に存在せず、京都の文化に参加できるものが貴族であり、参加するには莫大な参加費用、つまり富が必要の関係です。そのために税負担はどんどん重くなります。ここで荘園制による節税は、所有者である貴族の富の蓄積にも貢献していますが、実質の所有者である寄進者の富の蓄積にもつながります。つまり京都だけではなく地方にも富の蓄積が生じる余地が出来ることになります。

荘園制は治安維持にも貢献していると見ます。平安朝は常備軍を持たず、治安維持能力は極めて低かったと言えます。一方で荘園内においては、管理人たる実質の所有者が治安維持のために私設の常備戦力を備える事になります。これが可能になるぐらいの税負担が軽くなっていると言う事です。この私設の常備軍武家になるのですが、荘園制がなければ誕生は難しかったような気がします。

荘園制により力を蓄えた武士たちの軍事力は、源平合戦の動員を見れば確認できます。実際の動員数は不明とは言え、源平双方とも1万程度の動員が可能になったぐらいは言えるかと思っています。1万と言っても当時の総人口が700万人足らずの時代ですから、雲霞の如き大軍としても良いかと思います。判り難いなら、仮に源平合わせても1万人としても、現在の人口に換算すると17万人ぐらいになります。2万なら35万人ぐらいです。


ふとふと思うのですが、武家政治は平安朝以降は延々と江戸幕府まで続きます。武家の政権ですから保有する軍事力は桁違いに強力です。しかしあれほどの軍事力は日本に必要だったのでしょうか。軍事力が国外の敵に活かされたのは元寇の時ですが、あれも考えようによっては、十分な軍事力があると鎌倉幕府が考えたからこその外交です。フビライにしても、交渉時点で日本遠征を本気で考えていたかどうかは疑問です。

形の上で服従していれば、海を渡ってまでの日本侵略は行わなかったように考える事もあります。陸続きの朝鮮半島とはちがいます。それと国内に巨大な軍事力があったがために、熾烈な国内戦がくり返されます。軍事力と言うのは使い出すと勝手に拡大する性質もあるように感じています。

それでもなんですが、狭い日本に軍事力が充満していた事が安全保障に通じたとも見れます。元寇もあの時に撃退したので、以後はわざわざ元の二の舞をする大陸王朝は現れなかった見ることも可能です。幕末時の話はどうかと思うところもありますが、攘夷浪士が荒れ狂うのを見て、こういう連中の国を制圧するには、よほどの大軍が必要と考え自重した言う説もあります。


功罪はわかりませんが、武家政権を開いたのが源頼朝なら、武家政権への道を開いたのが平清盛と言えると思います。また武家が政権奪取のために力を付けられたのは荘園制度であったと見る事は出来そうな気がします。あちこちに寄り道しまくりでしたが、なんとか清盛の話に継ぐ事ができたところで、今日は休題にさせて頂きます。