思いつきのジャーナリズム論

ジャーナリズムの歴史

私はジャーナリズム史の研究家ではないので、大雑把な話になりますが、語源的にはラテン語にあるそうで、ラテン語の「日々の」である”diurnus”から派生した言葉だそうです。もうちょっと語源的なムックを加えておくと、元老院と対立していたユリウス・カエサルが、元老院の操縦のために、元老院の審議内容を速報で掲示させた事が始まりとされます。

元老院での議員の発言は、それまで公開されておらず、これが公開されることによりローマ市民を味方に付ける計算がカエサルにあったとされます。共和制ローマギリシャほどではありませんが、ローマ市民の参政権を認めており、帝政時代に移行してもローマ市民の支持を得る事はローマの政治家にとって重要な事であったからです。

ローマの時代はともかく、現代に至るジャーナリズムの源流は紙と印刷技術の進歩によるものとされています。安価に大量に印刷物が量産される様になり、現代の新聞や週刊誌などの定期刊行物が商業として発行される様になったのに伴って成立したと考えて良さそうです。ジャーナリズムはジャーナルの派生語ですが、ジャーナルとは大辞泉によれば、

  1. 日刊の印刷物。日刊新聞。
  2. 定期刊行物。雑誌・週刊誌など。
  3. 軸受けの中に入っている軸部分。軸頸(じくけい)。

3.の意味はともかく、1.に日刊の印刷物が挙げられているのが面白いところです。平たく新聞としても良いのですが、新聞は今も昔も日々のニュースを伝えます。新聞は情報源でもありますが、一面として読み物の性質もあります。素のままのニュースとして伝えるより、ニュースに解説があった方が読者は嬉しいのは当然でしょう。

解説はニュースを面白く読ますだけでなく、読者がニュースに書かれていることを、どう解釈するかも導く事になります。また単に面白い、わかりやすいだけではなく、どれだけ鋭く物事の本質を見抜けるかも評価の対象になったと思います。

そういう解説や分析批評を書くのも一種の才能が必要であり、それ専門の職業人が自然と成立したと考えるのが妥当で、それらの人々をジャーナリストと呼び、そういう職業活動全体をジャーナリズムと呼ぶ様になったと考えます。これは日本大百科全書からですが、ジャーナリズムの定義として、

マス・メディアが時事的な事実や問題に関する報道・論評を伝達する活動の総称。

ここで少しだけ用語の寄り道をしますが、マスメディアとは、不特定多数に同時多くの情報を伝える装置自体の事を指します。具体的には新聞、ラジオ、テレビなどです。ジャーナリズムとは、そういう装置を使っての報道活動を行なう事の総称になります。もう一つマスコミという言葉がありますが、これはマス・コミュニケーションの略語です。

コミュニケーションとは語源的には相互理解になり、マスが付いているので大量のになりますが、ネット前のマスコミュニケーションは、相互理解と言っても縦のコミュニケーションになると考えています。不特定多数に同じ情報を伝達する事により、その情報に対して同じ理解・知識を持つコミュニケーションです。たとえれば学校の授業のようなもので、教師が教えた事を生徒がそのまま知識にするようなコミュニケーションと言えばよいでしょうか。

なんとなくコミュニケーションと言うには若干の違和感がありますが、縦のマスコミュニケーションの教師役をジャーナリストが担い、学校そのものがジャーナリズムと考えても、そんなに間違いではないように考えています。


高級紙と日本のジャーナリズム

ジャーナリズム活動が行なわれるのは、かつてのジャーナルの語源である新聞・雑誌からラジオ・テレビにとマスメディアの発達と共に活動範囲が広がりましたが、基本は新聞にあると見ます。ジャーナリズムとして情報を集め、解説や論評をなんのために書くかと言えば、ぶっちゃけた話、読者に新聞を買ってもらうためです。

新聞と言うビジネスモデルの基本は部数の拡大です。これは直接には販売収入になりますし、販売収入とならぶ大きな収入源である広告収入にも密接に連動します。これはテレビがある意味わかりやすくて、収入源の大部分であるCM収入に連動する視聴率に、あれだけピリピリするのを見ればわかりやすいところです。

ジャーナリズムは部数拡大のためにその読者に対して行われるのですが、日本に無くて欧米にある概念として「高級紙」があります。これはコトバンクからですが、

欧米の新聞の分類にしばしば用いられる区分。タイムズ(英)やルモンド(仏)などのように、政治・経済・文化についての記事や論説を中心に地味な見出しの紙面で、少数の社会的エリートを読者層とした新聞が高級紙、デーリーミラー(英)やビルト(独)などのように、社会的事件やスポーツ・芸能記事などを中心に派手な紙面構成を特徴とし、一般庶民を広く読者層とする新聞が大衆紙とされる。

欧米では「平等」と言うフレーズをことさらに掲げなければならないほどの階級社会が存在します。階級はかつては身分そのものでしたが、現在でも経済による階級としてあるとしても良いと思います。欧米の新聞は読者としての階級別に成立した歴史があると考えています。上流階級と庶民階級です。この差は大きく、階級が違えば、教養も関心も差がありすぎ、一つの新聞としては無理があったためと思っています。

ところが日本では高級紙と言うジャンルは成立していません。クオリティ・ペーパーと自負されている日本の大新聞社であっても、分類としては大衆紙です。日本であるのはせいぜい上品な大衆紙と、より庶民的な大衆紙ぐらいしかないと考えています。

ここで誤解ないように言っておきますが、「高級紙 > 大衆紙」の関係とは必ずしも考えていません。そういう時代もあったかも知れませんし、とくに高級紙を読んでいる人間は今でもそう考えているかもしれませんが、ジャーナリズムとしての本質に差はないと思っています。(ただし読み比べた事はありませんから、悪しからず)


この高級紙の存在の有無が日本のジャーナリズムの成立に結構大きな影響をもたらしているような気が最近しています。ジャーナリズムの本質として差は無くとも、高級紙に論評を書くとなれば、かなりの教養と知性が求められます。これは読者層がそういう連中だからです。浅薄な知識で書き散らしたのでは、冷笑を喰らうだけですから、読者に負けない知性と教養を常に磨いておく必要があります。

それとそういう高級紙の存在は、ジャーナリストに取っても一つの基準と言うか指標になると考えています。大衆紙であっても、高級紙の質を基準において、自分の立ち位置、論評のレベルを考えるみたいな感じです。

新聞ではわかりにくいので、食堂でたとえて見ます。食堂にも高級店から大衆店までランク分けがあります。旨い不味いではなく、店の格みたいなランク付けです。大衆店であっても、必ずどこかで高級店を念頭に置いています。自分の店が高級店に及ぶところ、及ばないところを冷静に評価して、特色を出していると言えば良いでしょうか。

日本のジャーナリズムの場合、高級店にあたるところがなく、せいぜいファミレスに毛の生えた程度が「高級店」として位置付けられ、ここを基準にしてジャーナリズムが成立しているのが、大きな特色と思っています。

食堂としてのファミレスは良いところがたくさんあります。高級店より遥かに安価に、高級店より遥かに気軽に、ちょっとだけ贅沢気分が味わえるのが魅力と言ったところでしょうか。ただ頂点がファミレスしかないのは、これはこれで問題です。ファミレスより上を望んでも、モデルすら存在しない状態だからです。ファミレスは、あくまでも上に高級店があってこその存在だからです。


ファミレス式ジャーナリズム

日本のジャーナリズムがファミレスであると考えると、納得できる点が幾つかあります。まず目に付くのは極度の横並び体質です。何かが流行れば、一斉に飛びつくのはジャーナリズムとしての反応としても、それに対する論評まで金太郎飴式になります。まるで流行の食材があれば、どの店に言っても同じようにあるのと同じです。

これは同じ食材が手に入っても、独創的に調理しようとする気がない事につながります。変わった事をするよりも、横並びにしておく方が、ファミレス商法としては無難です。ここに高級店があれば、間違っても同じには提供しません。むしろ同じものを出すぐらいなら、提供すらしません。たとえ失敗しても独自の味を摸索しようとします。

ここが高級店とファミレスの基本的な姿勢の違いです。高級店がない日本のジャーナリズムは、無難なファミレス料理以上のものを提供できませんし、そういうモデルさえ存在していないです。


同じような指摘になりますが、極度のマニュアル化が起こります。ファミレスは高級店と違い、一流のプロによるサービスなんて不可能です。そのサービスの差を補うためにマニュアル化が行われます。マニュアル化に沿ったサービスのうちなら、高級店と同じとは言いませんが、違和感の少ないサービスを提供できるからです。

マニュアル化は接客だけではなく、調理技術にも及びます。最小限の技術で、それなりのメニューを同じ水準で提供するためです。このマニュアル化が日本のジャーナリズムでも確実に起こっています。最小限の手間で、効率よく記事を量産するマニュアル化です。


もう一つ指摘しておくと、ファミレス同士では接客も提供するメニューもほぼ同じになります。中身が同等なら、謳い文句で差をつけようとするのがビジネスです。実質的に同じメニューであっても、謳い文句で飾ることにより、他店とは違うを強調します。新聞で言うなら見出しとか、内容の煽情性です。しかし高級店は逆で、メニューすら出さないところさえあります。勝負は料理自体であって、派手な謳い文句は不要と言うか下品の考え方です。


ネット言う黒船

ネットは新たに登場したマスメディアです。ネット言うメディアの特色は、ジャーナリズムと一体となっていない点が挙げられます。これまでのメディアはジャーナリズムと表裏一体のものであり、メディアを利用できるものこそがジャーナリストでありジャーナリズムであったわけです。しかしネットは単にマスメディアであると言うだけで、誰であっても手軽に安価に利用できる点がこれまでのメディアとまったく違う点です。

もう一つの大きな特徴は、従来のメディアが縦のコミュニケーションしか出来なかったのに対し、ネットは横のコミュニケーションが強力であると言う点です。縦のコミュニケーションだけであるなら、受け取った情報はそこまでであり、情報自体にはそれ以上の考察が加えられる事は少なかったと思っています。しかし横のコミュニケーションが活発になると、受け取った情報の価値自体を容易に論評できる様になります。


ネットには集合智と言葉があります。これは様々な解釈がなされますが、個人的には専門家の存在であると考えています。ネット参加者が増えれば増えるほど、あらゆる分野の専門家が参加します。医療もわかりやすいですが、どんな医療記事が出ても、それに対する専門家が存在し、記事を書いた記者なり、医療ジャーナリストなりを遥かに凌駕する実践的経験と知識を持っています。

個人が専門とする領域は狭くとも、100万人、いや1000万人単位でネット参加者が増えれば、どこかに専門家なり本当のプロが存在します。それも1人や2人と言うレベルではなく、団体さんで存在すると言う事です。そういう専門家がある関心事の議論に大挙して参加すれば、リアル社会ではありえない高度の検討がお手軽に為されると言う事です。

これこそネットの集合智だと私は考えています。


ネットが普及した国々ではほぼ例外なく既製ジャーナリズムとの対立が起こります。日本もまた例外ではありません。これは、これまで絶対視されていた既製ジャーナリズムの情報が、専門家が暴けば問題情報が少なくない事に気が付くからだと見ています。

既製ジャーナリズムの縦のコミュニケーションだけなら、受け取った情報のさらなる評価は事実上不可能でした。ところがネットの横のコミュニケーションで検討すると、相当杜撰な情報もあり、見方・考え方があまりにも偏っているものが少なくない事に誰でも気が付きます。これまで無邪気に信用していたものに裏切られたわけですから、可愛さ余って憎さ百倍に陥っても不思議ありません。

そう考えると、ネットの対応に苦慮した既製ジャーナリズムのネットとの対立路線が悉く実を結んでいないのも説明がつきます。横のコミュニケーションを知ってしまった人間に、縦のコミュニケーションのみの時代に戻れと頑張ったところで、時計の針を逆に戻すような行為に過ぎないと言う事です。

まさにネットは黒船であると私は感じます。


なんとなく象徴的な出来事

7/17付読売新聞より、

自民党に報道チェック部隊、抗議や申し立ても

 自民党は、報道機関の論調を調べ、内容に問題があれば対抗措置を講じる「メディアチェック」の担当議員を新設した。

・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・

 主にテレビ報道を点検し、事実誤認や公平性を欠く内容があれば、局側に抗議したり、放送倫理・番組向上機構BPO)などの第三者機関に申し立てたりする方針だ。

・・・・・・・・・・(後略)・・・・・・・・・・

自民党の方針は色んな見方が出来るのですが、一つ言えるのは、これまではそんな事をやろうとも考えなかったと思っています。もちろん余りに酷いものには抗議もした事があるでしょうが、組織だって報道チェックなんて行なわなかったと考えています。これは、そんな事を行えば、この記事の省略した部分の様に手ひどく批評されるだけではなく、その後も足を引っ張る記事で報復されるのが確実だからです。

それをやろうと決断したのは、そういう報復よりメリットが高いものが得られると判断できるからだと考えられます。真意はもちろん不明ですが、自民党が期待しているのは、ネットの横のコミュニケーションによる支持のように感じます。既製ジャーナリズムの縦のコミュニケーションに十分対抗できるだけでなく、むしろメリットも計算できるの判断の様に思えます。

現時点でその判断が吉と出るか、凶と出るかは微妙ですが、そういう判断が出てくるぐらいネットの横のコミュニケーションによる世論構成力を高く評価しているんじゃないかと思っています。ただネットの横のコミュニケーションは操作がかなり困難です。一つ間違えば、集合智的な結果を出すと言うより、ボロクソに叩きのめされる結果もありえます。

自民党の方針はともかく、そういう価値判断がなされるぐらい既製ジャーナリズムの世論構成力は落ちてきているの一つの証左のように見ています。ジャーナリズムは情報を売って発行部数をあげるのが目的ですが、政治家は世論の支持を得るのが大きな目的になります。政治家がジャーナリズムを警戒したのは、ジャーナリズムが世論を作るからだと考えています。

縦のコミュニケーションしかなかった時代は、ジャーナリズムが送り込む情報しか判断基準が無く、世論と言ってもその縦のコミュニケーションの情報供給に振りまわされていました。ところが横のコミュニケーションが発達すれば、様相がチト変わってきます。

    従来:ジャーナリズムによる縦の情報が直接世論を左右
    将来:ジャーナリズムによる縦の情報を横のコミュニケーションで消化してから世論を左右
縦に送り込まれた情報をもう一度横でコミュニケーションしてからのステップが出来てきます。ここであえて「将来」としたのは、現在はそこまで到達しているとは必ずしも言えないと考えるからです。従来の縦のコミュニケーションの影響はまだまだ強大と見ています。

現在は縦の直接影響力は強いですが、横の発達はどうしたって進みます。ほいじゃ、横が発達するのなら、縦に牽制球を送らなくとも良さそうなものですが、従来は圧倒的な縦支配があり、これの機嫌を損ねる行動すら憚られていたと考えています。つまり縦支配の独占力が緩み、「文句を言う」ぐらいに緩和され、「文句を言う」事により、横の賛同を得る戦術を取れる時代になったとも言えそうです。

もう一つ、横のコミュニケーションは「見る」事が出来ます。その気になれば世論の流れをリアルタイムで確認できます。今はまだ発展途上ですが、遠くない将来に世論の動向メカニズムは、

    縦の情報供給 → 横の情報消化 → 世論動向
こう変動する可能性が非常に強いと考えています。従来は政治家が発した情報をジャーナリズムがどう取り扱うかのみに神経を使っていたのが、将来は横のコミュニケーションがどう受け取っていくかに神経を使う時代になるとしても良さそうな気がします。これは従来世論の動向の鍵を握っていると自負してきたジャーナリズムも同様にならざるを得なくなるとも言えます。

既製ジャーナリズムも動きを間違えれば、集中砲火を浴びるでしょうし、自民党もまたそうです。既製ジャーナリズムの世論構成力がまた一歩後退している象徴の様に感じています。世論構成の主戦場は、既製ジャーナリズムの縦のコミュニケーションから、ネットの横のコミュニケーションの時代に確実に変わる日は確実にやってくるでしょう。


ジャーナリズムの激動期

ネットの普及による横のマスコミュニケーションが出来上がりつつある点が出発点だと考えます。これは好ましいとか、好ましくないとの問題ではなく、ネット言うマスメディアが普及したために起こった一つの社会変化です。それも一過性の現象ではなく、既に変化であり、そういう時代に対応しなければならないと言うことです。

ネットの特性は当たり前ですが、長所もあり、短所もありで、短所を取り上げて貶めるのは容易ですが、貶めて滅ぼす事が出来るような代物でなくなっているのは周知の事です。滅ぼすどころか従来のメディアに匹敵、ないしはこれを凌駕するメディアに成長しつつあるのも現実として認めないといけません。

ジャーナリズム自体は不滅と思っています。これは人間と言うのが常に新たな情報を欲する面があり、これを供給する職業が滅びる訳がないからです。しかし縦のコミュニケーションに全面依存した既製ジャーナリズムのビジネスモデルは急速に陳腐化しています。

きっとなんですが、近世に縦のコミュニケーションによるジャーナリズムが成立した時にも社会は大変だったと思います。メリットを享受したものもいたでしょうし、逆に甚大なデメリットを蒙った者もいたとは思います。ジャーナリズムの存在自体が敵視され、迫害された時期もあったとは思いますが、人々は縦のコミュニケーションによるジャーナリズムをしっかり守り、利用してきたと考えています。

しかし横のコミュニケーションが出来てしまうと、人々は縦のコミュニケーションだけでは満足できなくなっています。そうなれば横のコミュニケーションに対応したジャーナリズムを成立させる必要があります。横のコミュニケーションの発達を阻害しようとするのは、蟷螂の斧に似た行為に過ぎないのも既に立証されています。10年先に現在のジャーナリズムのビジネスモデルで復活なんて考えている人間は、業界人ですら少ないような気がします。


商売は極度に単純化すると「売る」と「買う」からなっています。情報を買いたい人は変わらずいるわけですから、市場自体は厳然としてあります。ジャーナリズムはこれをどうやって売り込むかの方法論だけなんです。最終的にどういう形態になるかは、予想すらできませんが、変化を正しく読み取って、需要に対する的確な供給を行えるモデルを確立したところが次世代のジャーナリズムになる事だけは間違いありません