おもしろい比較

keigomi29さんの(普通の)科学者と(三流)ジャーナリストの違いに関するツイートのまとめがなかなか良く出来ていたので、御紹介しておきます。これを作られた趣旨として、

地震以来、いわゆる「ジャーナリスト」の人のいうことが、どうしてこんなに違和感があるのだろうと、バスを降りてから自席につくまでに考えた。ジャーナリストにも色々な方がいらっしゃるので失礼のないよう(三流の)ジャーナリストと、(普通の)科学者の考え方の違いを揶揄的にまとめてみる。

比較例をまとめられているのですが、対照表にしてまとめて見ます。

(普通の)科学者 (三流の)ジャーナリスト
自説を否定する事例を探す。 自説を補強する事例を探す。
反例が見つかると自説は否定されたと考える。 反例を気にせず自説は証明されたと考える。
ひとつの例では不安である。 ひとつ例が見つかれば大満足である。
事実から論理を導き出す。 論理にあう事実を見つけ出す。なければ創り出すこともある。
相関関係が因果関係かどうかを考える。 相関関係は因果関係だと考える。ただし因果の方向は任意である。
抽出した標本が母集団を代表しているかどうかを考える。 取材した対象が母集団を代表していると思いこむ。
どの程度確かなのかを考える。 絶対確実か絶対間違いだと考える。
見つからないものはないのかもしれないと考える。 見つからないものは隠されていると考える。
誰の話を聞いても本当かどうか考える。 話を聞く前に本当かどうかを決めている。
話を聞いて理解できないのは自分の知識が足りないからだと考える。 話を聞いて理解できないのは相手の説明が下手だからだと考える。
分からなければ勉強する。 分からなければ説明責任を追及する。
量と反応の関係を考える。 あるかないかだけが問題である。


紹介しただけでは愛想が無いので、これら12個の例のであえてキモになる点を考えて見たいと思います。根本発想の違いになりそうな点で、そこから考えれば話がつながっていくみたいなポイントです。個人的には、
    (三流のジャーナリスト)は話を聞く前に本当かどうかを決めている。
問題を考える時に先入観を可能な限り排除すると言うのは一つの原則です。ましてや先入観に縛られてすべてを判断しようとするのは強く戒められています。ただ一方で先入観無しでは問題を解く糸口が見つかりません。矛盾しているようですが、求められるのは縛られない先入観と言うか、直感というか、洞察力みたいなものになります。

問題の解決なりを考える時に、ある程度の情報が集まった時点で、解決の方向性を考えます。これは直感的な部分があったり、思い込みがあったり、先入観に左右される部分があったりもしますが、その時点の解答として「仮説」とします。「仮説」とは読んで字の如く、仮の説明です。完全には証明されていないが、ある研究調査時点での仮の解答みたいなものです。

仮説を立てたら、次の作業は仮説が本当に正しいかどうかの検証作業に入ります。ここでの重要な点は仮説は真の解答ではなく、常に間違っているかもしれないと考えながら検証することです。当然ですが検証作業が進むと仮説に修正が必要になったり、仮説自体が完全否定されたりは日常茶飯事の様に起こります。仮設の修正や否定が当たり前に起こる事を知っているのが(普通の)科学者であると言えば良いと思います。

私も統計系のエントリーを書くときに仮説をやはり立てます。調べれば「こういう結論に導かれるはずだ」の思い込みでデータ収集・検証に突っ込んでいくわけです。思い通りになる事もありますが、散々苦労してデータ処理を行なって結果を見たらあけてビックリ玉手箱状態になる事はしばしばあります。泣く泣くボツになったり、出た解答からロジックを組み直す作業に迫られるのは良くあることです。

医学系の学会発表でも実はしばしばあります。演題を決め、抄録を送った時点では「きっとこうなる」と思い込んでいたものが、最終的にデータなりをまとめ上げると「ありゃりゃりゃりゃ」の世界です。多くの演者は学会ギリギリに演題をまとめる事が多いので、抄録との辻褄を合わせるのに必死になる寸法です。どうしようもなくなって開き直った演者なら「抄録とは”若干”内容が異なります・・・」と断りをつけて”まったく”違う発表を行う羽目になったりもします。

心当たりのある方は少なくないと思います。これも慣れれば抄録段階で逃げを工夫しておく手を覚えますが、逃げさえも上回る笑撃の結果なんて事もありうるのが仮説です。



これが先入観のみで仮説とせずに解答として決めつけて行動すれば大変な結果を引き起こします。先に解答が決まっていますから、検証作業ではなく解答の補強作業に様変わりします。解答を否定するような事例は「それが間違っている」になるわけです。解答に合うデータは補強のために採用しますが、否定するデータは最初から排除されるわけです。

どうしても解答の論理の辻褄が合わなくなれば、辻褄を埋める根拠の無い理屈で埋めます。反論があっても強弁・詭弁を駆使し、それでも拙ければ論点外し、さらにはロジックと関係ない感情論を爆発させてでも元の解答を死守しようと務めます。それでも否定されれば、自分が補強した論拠に「騙されていた」だから「騙した奴が悪い」になり「騙した奴の責任追及」に立場を早代わりさせたりします。


考え方として天動説と地動説みたいなものでしょうか。もちろん(三流の)が天動説であり、(普通の)が地動説です。

天動説的な考え方では自分が常に絶対の中心にあり、自分の考えに都合よく周囲が配置されることを当然視して考えます。合わないものは、それだけでおかしいの判断基準です。自分の考えに合う様にだけ世界を構築して満足している世界といえばよいでしょうか。

地動説的な考え方は、常に周囲とは相対です。自分がいかに考えようが、存在が周囲の影響の上に成り立っていると考えるので、その影響を常に考えます。自分が見渡せる範囲で解答と考えても、それでも見えていないところからの影響がありうると考え、それを受け止める姿勢を保持し続けている世界です。科学ではある時点で絶対の真理と考えられていた事が、後世になり覆される事は珍しくもないからです。


そうそう誤解されない様に付け加えて起きますが、「天動説的思考 = 絶対悪」「地動説的思考 = 絶対善」ではありません。たとえば芸術・スポーツ分野では天動説的思考が尊重されると思います。地動説的思考ばかりでは「ありきたり」が打破できないからです。芸術・スポーツ分野と言うより、創造的な分野では必要な要素としても的外れではありません。

むしろ如何なる分野でも適当に入り混じる必要はあり、その上で分野の特性により、どちらかの思考がより優先されるかの差ぐらいと考えています。少なくとも科学に限らず検証分野では、地動説的思考が小さくなり、天動説的思考が強ければ強いほど評価は低くなるぐらいとした方が適切かもしれません。


小理屈を付け足してみましたが、切れ味抜群のおもしろい比較でした。