今日のお題は「三職推任問題」です。歴史マニアなら知っている人もおられるかと思いますが、本能寺の変の直前に「太政大臣か、関白か、征夷大将軍」に推任するという事件が起こっています。これが本能寺朝廷陰謀説の出所にもなっているのですが、周辺も含めてムックしてみます。
完璧に私の不勉強の賜物ですが、信長といえば右大臣であり、死んでからも右府様の敬称が用いられているぐらいですから、本能寺の変の時も当然ですが右大臣であったと思い込んでいました。ところがそうではありませんでした。wikipediaより、
信長は尾張時代には上総介を自称していたものの、直接朝廷より任官を受けることはなかった。これは朝廷に献金を行って備後守や三河守の官を得た父信秀とは対照的である。今川義元を破って後は尾張守を称している。
足利義昭を奉じて上洛した後も弾正少忠や弾正大弼といった比較的低い官に甘んじている。しかし将軍足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇した。天正2年(1574年)に参議に任官して以降わずか3年で従二位右大臣に昇進している。これは武家としては源実朝以来の右大臣任官であり、彼以前に上位を占めた武家は平清盛・足利義満・義持・義教の4人しかいない。しかし天正6年(1578年)4月に右大臣兼右近衛大将を辞した後、官職に就かず散位のままであった。
補足すると義昭を連れての永禄11年(1568年)の上洛戦のときに従五位下弾正少忠、元亀元年(1570年)に正四位下弾正大弼に叙せられています。従五位下と言う官位は、宮中への昇殿資格を得る位階であり、これより上を殿上人と呼びます。もう少し細かくまとめておくと、
元号歴 | 西暦 | 月日 | 位階 | 官職 |
永禄11年 | 1568年 | 10月28日 | 従五位下 | 弾正少忠 |
元亀元年 | 1570年 | 3月14日 | 正四位下 | 弾正大弼 |
天正2年 | 1574年 | 3月18日 | 従三位 | 参議 |
天正3年 | 1575年 | 11月4日 | 従三位 | 権大納言 |
11月7日 | 従三位 | 右近衛大将兼任 | ||
天正4年 | 1576年 | 11月13日 | 正三位 | 権大納言兼右近衛大将 |
11月21日 | 正三位 | 内大臣兼右近衛大将 | ||
天正5年 | 1577年 | 11月16日 | 従二位 | 内大臣兼右近衛大将 |
11月20日 | 従二位 | 右大臣兼右近衛大将 | ||
天正6年 | 1578年 | 1月6日 | 正二位 | 右大臣兼右近衛大将 |
4月9日 | 正二位 | 右大臣、右近衛大将とも辞任 |
実質上の京都の支配者であり、朝廷の庇護者ですから位階・官職なんて望むがままとも思うのですが、有名な右大臣職にいたのは天正5年11月20日から天正6年4月9日までの半年足らずであった事がわかります。ちょっと意外でした。ここから本能寺の変がある天正10年(1582年)6月2日までは、位階は正二位のままですが、官職は無しの状態であったことになります。
もうちょっとだけ補足しておくと、従五位下から昇殿資格を与えられ殿上人(六位の蔵人も入るそうです)になりますが、従三位からは公卿(四位の参議でも含まれるそうです)となります。もう一つ参議と言う官職がありますが、これは中納言に次ぐ官職とされます。
ここも年表から適当に抜粋しておきますが、
元号歴 | 西暦 | 月日 | 出来事 |
天正7年 | 1579年 | 9月15日 | 家康の嫡男信康が信長の命により切腹 |
天正8年 | 1580年 | 3月5日 | 勅命により、本願寺との講和が成立 |
8月 | 折檻状により、佐久間信盛・信勝、林信貞、安藤守就を追放 | ||
天正9年 | 1581年 | 2月28日 | 京都内裏東にて京都御馬揃えを行う |
天正10年 | 1582年 | 3月11日 | 武田氏滅亡 |
4月21日 | 東海道遊覧後、安土に凱旋 | ||
5月15日 | 駿河国加増の礼と武田征伐の戦勝祝いのため、徳川家康が安土城を訪問 | ||
秀吉から援軍要請 | |||
5月17日 | 光秀接待役を解かれ、中国出陣の準備にかかる | ||
5月26日 | 光秀、丹波亀山城にて出陣準備整う | ||
5月29日 | 信長、本能寺に入る | ||
6月1日 | 信長、本能寺にて茶会を催す | ||
6月2日 | 本能寺の変 |
右大臣職辞任後も天下統一に向けて着々と地歩を固めているのがわかる一方で、折檻状事件や信康殺害の命令など、信長の負の部分とされたり、本能寺の変につながる動機と後世で関連が付けられる事件も起こっています。本能寺の変の真相を推理するのが今日の主題ではありませんから、こういう動きであったと言う事がわかって頂ければここは十分です。
天正6年から散位(官職につかない状態)状態の信長は朝廷でも問題になり、二度に渡り官職への就任打診を行ったとされます。とくに二度目についての具体的資料が発見されたのは、wkipediaによると、
従来伝承されていた『晴豊公記』は、天正10年4月分から同年9月分が欠けていたが、1968年(昭和43年)岩沢愿彦が内閣文庫(現国立公文書館)にあった『天正十年夏記』が『晴豊公記』断簡であることを発表した
晴豊とは武家伝奏であった勧修寺晴豊の事であり、日々記とも言われるそうですが、そこの天正10年4月25日付の記録に、
廿五日天晴。(中略)村井所へ参候。安土へ女はうしゆ御したく候て、太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候て可然候よし被申候。その由申入候。
私も読み難い候文ですが、これをどう読むかが論争になっています。どう読むも、こう読むも日本語ですから、そのまま読めばよさそうなものですし、中世の日本語であっても研究者はテンコモリいると思いますから、わかりそうなものですが結論が出そうな情勢ではないそうです。代表的な岩沢愿彦説(岩沢説)と立花京子説(立花説)を紹介しておきます。
問題の焦点は主語の問題です。つまり誰が「太政大臣か関白か将軍か、御すいにん候」と言ったかです。誰がと言っても、登場人物は二人で、使者となり日記を書いた武家伝奏勧修寺晴豊と京都所司代村井貞勝です。たった二人しかいないのですが、意見が割れています。
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岩沢説:晴豊、すなわち朝廷側が申し入れた
立花説:村井、すなわち信長側が申し入れた
立花説が注目したのはこの部分です。
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被申候
そういう立場の晴豊が村井に言葉を伝える時は、朝廷すなわち天皇の言葉として伝える訳ですから、「被申候」は敬語としておかしいとされます。天皇の言葉であれば、「申し」ではなく「仰す」になるはずだと言う事です。立花説では、晴豊公記の他の部分で村井の発言を「被申候」と表現しているところを確認した上で、村井の発言であると結論付けています。
立花説のオリジナルは読んでいないので大きな事は言えませんが、それでも「どうだろう」と私は思います。そこで当時の朝廷の立ち位置を考えてみます。
朝廷と言っても、鎌倉・室町の両幕府時代を経て政権担当能力は皆無となっています。また経済力も食っていくのさえ怪しいぐらいのものしかありません。戦国期でも武家の最高権威は将軍であり、朝廷の存在は武家の殆んどがさしての意識の存在もないものであったとされます。織田家では信長の父の信秀が朝廷と言うか、天皇を意識していたという変わり者ですが、それでも上洛戦の頃の信長にどれほど朝廷の意識があったかは不明です。
信長と将軍義昭の関係は簡単にしますが、将軍家による幕府再興を目指した義昭と、そんな事は認めるはずも無い信長の軋轢の歴史で、結局のところ義昭は追放されています。信長は扱い難い将軍家の代わりに朝廷を権威として位置付ける政策を取ったと見ても良いと思います。これが結構大変だったようで、武家にとって「朝廷??」状態のものを、信長は盛りたてていたと見ます。
信長の努力により朝廷の権威が高まったのですが、それでも朝廷の立脚基盤は脆弱です。朝廷の権威は二段構造になっており、朝廷が官位を与えた実力者が権威を揮う事により、その実力者に官位を与えた朝廷の権威が保たれ、同時に実力者に庇護される関係とすれば良いでしょうか。これはある意味、現代まで延々と続いていると見ても良いかと思っています。
実力者は朝廷の権威を利用しているとも見れますが、朝廷側からすれば実力者に朝廷の権威を利用してもらわないと死活問題になるとも言えます。とくにこの時期の朝廷は衰微しきっており、なんとかして実力者に朝廷の権威を買ってもらう必要性があったと考えます。もちろん買って欲しいのは、当時最大の実力者であり、実質として朝廷の庇護者であった信長です。
義昭を擁しての上洛戦以来、朝廷は順調に官位を信長に売りつけていたとも見えます。朝廷は権威を売りつけると言っても、そこは煮ても焼いても食えない公家の事ですから、小出しにかつ、異例の要素を織り込みながら、恩を売るように権威を売りつけます。ところが信長は天正6年に官職を辞任してしまったのです。つまりは「もういらない」の意思表示です。
朝廷の権威は、最大の実力者である信長が利用してこそ保たれるのに、これを不要とされれば朝廷の権威だけではなく、朝廷の存在自体が危うくなると考えてもおかしくありません。情勢的には、朝廷がなんとかして信長に朝廷の権威を買ってもらいたいと言うのが時代的な背景であると私は考えます。
朝廷の権威を「いらない」と言う信長と、なんとか朝廷の権威を売りつけたい朝廷側の思惑のぶつかりあいと考えれば、晴豊公記の見方は少し変わりそうな気がしています。天正10年の朝廷の信長任官の動きは、天正6年の信長辞職以来2度目の事となっています。2度目と言う事は、1度は断られている事になります。
朝廷側は権威を売るにも手順が必要です。朝廷の権威は朝廷の存在基盤の拠り所ですから、形式上はあくまでも「与える」もしくは最低限「望まれるから与える」である必要があります。「望まれるから与える」も表面に出るのは好ましくなく、あくまでも「与える」事によって朝廷の権威が保たれます。もう少し言えば「与える」事でもらう方が喜ばないと意味が無いとしてもよいでしょう。
「与えて」喜んでもらわなければならないものを、拒否されてしまうのは朝廷の失墜につながります。これが一度ならずも二度となれば目も当てられない惨状になりかねません。晴豊公記の記載で私が引っかかるところは、その辺の問題に絡んできます。
晴豊公記には「余勅使」の記載があったとされますが、ここも良く考えればおかしな点で、勅使がなんで京都所司代なんかに行くのかです。信長は安土におり、勅使を下すのなら信長に勅使を出すべきではないでしょうか。つまり「余勅使」は正式の勅使ではなく、勅使に準じるぐらい重い役割と公式性を持たせた使者と考えます。
信長が任官を渋っているのが前提であり、一度は断られている訳ですから、安土にいきなり勅使を送って断られたら困るから、予備交渉として晴豊が京都所司代の村井貞勝に赴いたと考えたいところです。ここもなんですが、記録には天正6年から2度目の任官の要請となっていますが、それ以外にも非公式の任官要請があったと考えます。
非公式で信長に任官の誘いを行っても、サラサラと交わされてしまうので、天正10年の交渉では、朝廷の本気度を示すために晴豊に勅使に近い格で、村井に話を持ちかけたと考えます。朝廷側も晴豊にかなりの訓示を与えた上での、申し入れの形を取ったと考えます。
そこを踏まえて晴豊公記を読んでみると、別の解釈が成立しそうです。晴豊は「余勅使」として村井の下に出向いているわけです。勅使は使いですから、当たり前の事ですが、まず村井に勅使として伝える内容を伝えたはずです。村井も相手が勅使ですから、畏まって勅使としての晴豊の言葉を聞いたはずです。
ここでなんですが、勅使としての晴豊の言葉を聞いた村井に裁量の余地は無かったとみます。事は重大ですから、村井に出来ることは勅使の言葉を信長に伝えるぐらいしか返答しようがないと考えます。つまり村井から晴豊に答えた言葉は「その旨、信長に伝えます」ぐらいのはずです。
さてここで問題ですが、晴豊が日記に書く時に何を考えたかです。三職推任は朝廷の切り札としても良い権威のバーゲンです。しかしこれまでの経緯から信長が受けるかどうかは不明です。さらに今度も断られれば朝廷の権威の失墜は明らかです。そこで晴豊は、三職推任を村井が持ち出したかのように記録しておいたのではないかと考えます。
村井が三職推任の話を持ち出した事にしておけば、信長が今度も断っても、最低限の権威の失墜を免れるです。責任は安請け合いした村井に回るという計算です。つまり村井が持ち出した形式にして、朝廷を守る計算にしたという考え方です。
もう一つ言えば、晴豊公記は私的な日記ですが、晴豊にしても三職推任を朝廷から持ちかけたと事を書くに忍びなかったと考えています。朝廷最高の官職を叩き売りのように差し出す屈辱を私的な日記でも記すのが憚られ、あくまでも村井(信長側)が持ち出したにしたのではないかと考えています。
こうやって三職推任問題は安土に持ち込まれることになります。信長のこの頃の動きは、武田征伐後の東海道遊覧を終え、4月21日に安土に凱旋しています。安土に帰った信長が企画したのは、家康を安土に招く事です。家康は5月15日に安土に到着していますが、家康の歓迎には信長はかなり気を使ったと記録に残されています。三職推任問題は、家康接待の準備の真っ最中に持ち込まれたと考えられます。
信長からの返答らしきものは、5月4日の晴豊公記であるとされます。
四日(中略)のふなかより御らんと申候こしやうもちて、いかやうの御使のよし申候。関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候へハ、又御らんもつて御書あかる也。
ここも解釈が難儀な代物です。とりあえず使者は信長の側近中の側近である森蘭丸である事が確認できます。信長は自分の意向をすぐに察知できないものを非常に嫌ったのは有名であり、なおかつ意向を長々と説明するのも嫌がったのも有名です。そんな信長の側近代表と言うべき森蘭丸は、完璧に信長の意向を表したと考えて良いかと思われます。
ここ主語が問題になりますが、私の解釈としては、
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蘭丸:いかやうの御使のよし申候(なんの御用の使者か理解しかねます)
晴豊:関東打はたされ珎重間、将軍ニなさるへきよしと申候(いやこの機会に将軍になるべしの意向です)
解釈の基本は、官職に就く意向の無い信長が、朝廷からの申し入れを婉曲に断ったと考えます。何故に信長が官職就任を固辞したかの理由は今となっては不明で、これも不明の信長政権樹立の布石であるともよくされます。ただ信長は放っておいても、ドンドン昇進するはずの官職を天正6年の段階で自ら辞任しています。どういう理由であったにせよ、天正10年の時点でもその考えは変わらなかったと見るのが自然です。
信長もまた自分の考えを長々と口にしたり、ましてや文書として記録に残す事が殆んどなかった人物ですから、三職推任問題での信長の真意も謎として残っていくような気がします。最後の部分である、
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又御らんもつて御書あかる也
あれこれ考えて見ましたが、朝廷側の資料に記録が少ないのは納得がいきます。朝廷最高の官職である三職を蹴飛ばされたのですから、記録に留めたくない不名誉な記録です。一方で信長側の資料にもカケラも残っていません。三職推任問題をある程度重く受け止めていたら、何か書き残されていても良さそうな物です。これは朝廷側から見ると重い話であったとしても、信長側からすれば、さしての話でなかった可能性を考えています。
三職推任問題が信長のところに届られた時の安土城の想像です。
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蘭丸:「朝廷から、武田征伐の功績を嘉して、三職推任の意向を打診されております」
信長:「であるか。蘭丸、使いせよ」
蘭丸:「は」
朝廷と信長の関係が緊張状態であったのか、そうでなかったのさえ議論は分かれており、緊張説を取るものは、三職推任を信長側から持ち出したにせよ、朝廷側から持ち出したにせよ、そこから様々な派生問題を考え、さらには本能寺の朝廷黒幕説までつなげている様に感じています。結局のところ信長が天下統一後に何を考えていたのかが基本的な謎であり、それがわからないから三職推任にも様々な解釈が成立すると思っています。
ただなんですが、朝廷側も実力者への権威の売り方は、これを教訓とした様に感じています。信長の後継者は秀吉ですが、秀吉は信長より朝廷の権威を必要としました。これに対し朝廷は出し惜しみすることなく官位を与え、あっさり関白まで昇進させています。秀吉だけではなく、秀吉の言うがままに武家に官位を大バーゲンの様に売り払っています。家康に対しても同様で、言ったら悪いですが、春日局にまで従二位を大盤振舞いしています。
この辺で今日は休題にさせて頂きます。