コント55号よ永遠に

別に訃報サイトと言う訳ではないのですが、坂上二郎氏の逝去も是非取り上げさせて頂きたいと思います。伝説の怪物コンビと今も語り伝えられるコント55号の経緯をwikipediaから引用します。

1966年、営業先の熱海つるやホテルで「机」の一人コントを考案した萩本が、早速以前出演していた浅草松竹演芸場に売り込みをかけようと準備をしていたところ、たまたま浅草フランス座時代に幕間コントで競演した坂上から電話があり、この電話で坂上の助演が決定。10月に浅草松竹演芸場の上席前座として「机」を演じたところ、反応が今一つだったため、三日目に役を入れ替えたところ好評を博し、五日目には正式に香盤表に載る事となり、この時支配人から「コント55号」と名付けられた。

二人の名は瞬く間に広がり、翌1967年2月14日には日劇の「西田佐知子ショー」にコメディーリリーフとして出演。以降、松竹演芸場の高座で新ネタを降ろし、練り上げて日劇の舞台にかけるといったパターンが続いた。テレビでは日本教育テレビ(NETテレビ 現・テレビ朝日)「大正テレビ寄席」に出演。余りに激しい動きをカメラが追いきれておらず、収録後楽屋から逃げ出そうとした二人をディレクターの山下武が止めて逆に詫びた逸話を持つが、この番組の出演で全国的に売れ出し、1968年前田武彦と組んだフジテレビの公開生放送「お昼のゴールデンショー」、続いてスタートした「コント55号の世界は笑う」で人気に拍車がかかった。この時、「同じコントは(テレビでは)二度とやらない」をキャッチフレーズにし、萩本を「タレ目」、これに対して坂上を「チッコイ目」と呼んで売り出した。

以降、テレビ、ラジオ、映画と多方に渡り活躍。時代の寵児となった。そんなある日、とあるタクシー運転手から「欽ちゃん、刑事さんをあまりいじめないでくれよ」と言われる。このとき、既に坂上は単独で俳優活動を行っており、TBSテレビ系の連続テレビドラマ「夜明けの刑事」で主人公の刑事役を演じていた。萩本は世間が坂上を萩本の相棒ではなく、一俳優として捉えていることを痛感。更に「(自分はただ仕事として相棒をいじっていただけなのに)客には本気でいじめてると思われてる。」とショックを受け、コントを演じ続けられなくなったとして、1975年以降はコンビとしての活動を大幅に縮小した。

コント55号が実質的に活動したのは1966年から1975年頃までの10年足らずであった事が確認できます。私を以ってしても、コント55号の本当の黄金時代はその末期しか知らなかった事になります。これも伝説の怪物番組である「コント55号の裏番組をぶっとばせ!」の放映も、1969年4月27日から1970年3月29日ですから「記憶の片隅」ないしは「伝説として聞いた」レベルになります。これがどれほどの怪物番組であったかですが、wikipediaより、

番組は好調で、1969年7月6日の放送で視聴率は29.3%を記録し、同日27.6%だった『天と地と』を初めて上回った。1969年10月には番組の最高視聴率である33.8%にまで達し、大晦日にも紅白歌合戦の裏番組として放送される。

たぶんですが、私の親は「天と地と」を見ていたので私は殆んど見ていなかったんじゃないかと思います。それにしても「天と地と」を上回っていたなんて、当時からすると想像を絶する番組であったとしても良いと思います。


コント55号の斬新さは動きの激しさにあると良く言われます。今でもそうですが、テレビ放映には映る範囲と言うのがあります。それをぶっち切るように舞台一杯を使ったコントは、カメラが追いきれなかった伝説も残しています。カメラが追いきれない部分でギャグをかまし、それが大受けする音だけが聞こえるみたいな状態に陥ったと伝説は語ります。

それとコント55号のコントにも台本はありました。が、二人は台本を飛び越えてコントを演じていたとされます。一説には超売れっ子になり、台本に基いたコントの練習をする余裕がなくなり、ザザッと設定だけ読んで、あとはアドリブでドンドン膨らませたともされます。コンビの性質にも依りますが、アドリブは諸刃の剣で、相方がこれを受け止める力量が無いとコントは崩壊します。これを何の問題もなく演じていたあたりに二人の凄みを感じます。

ただこのアドリブに頼ったコントがコンビの寿命を縮めたのかもしれません。今もそうですが、当時も超売れっ子になると分刻みのスケジュールになり、その日のスケジュールの終わりが26時で、次の日のスケジュールが6時から始まるなんて殺人的な日程を課せられます。コントを練る時間がなくなれば、いかに芸達者であろうともコントが類型化します。

萩本欽一の変人ぶりもエスカレートしてワンパターン化し、坂上二郎氏のイジメられぶりも類型化すると言う事です。いかに芸達者の二人であっても、時間のなさはどうしようもなかったと思っています。芸でカバーできる領域を越えた時に

    「(自分はただ仕事として相棒をいじっていただけなのに)客には本気でいじめてると思われてる。」
萩本欽一がこれを悟ったのは偉大だと思っています。破滅までひた走らずに、コンビ活動を縮小するのは並大抵の決断ではなかったと思います。萩本欽一坂上氏と離れた後、コント55号の毒を薄めた形で欽ドン路線を70年代後半に花開かせます。以後の萩本氏の活躍は御存知の通りで、かつての狂人に近かったキャラクター設定をドンドン薄め、嘘のようなホンワカ善人路線で現在に至っています。


一方の坂上二郎氏も、コント55号の熱狂とは別の俳優路線に転じます。時代劇や現代劇のバイプレーヤーとして新たな人気を確保したとしても良いでしょうか。これも余りにもスンナリ転向したので誰も気が付いていませんが、お笑い芸人から俳優に転じるのはそんなに簡単な事ではありません。お笑い芸人として映画に出るのは当時的にはありふれた世界ですが、お笑い芸人としてではなく、本当の俳優として地位を確保するのは生易しいものではありません。

俳優業もまた層の厚い世界で、素人が人気だけで入り込める世界ではないからです。お笑いで頂点を極めた人間が俳優業でも成功した例は少なく、パッと思いつくのはいかりや長介氏に匹敵するほどの偉業かと思います。ビートたけしもいますが、較べるのならいかりや長介氏の方が相応しいと思っています。


もういつだったか忘れてしまいしたが、久しぶりにコント55号として復活コントをやられ、放映された事があります。これだって10年以上前だったと思うのですが、コントが終わった後に萩本欽一氏とシミジミと懐旧談をやっていたのが妙に印象に残っています。内容は「若い頃は、もうちょっと息が続いたんだが、今はこれが精一杯」みたいなお話です。あんまりテレビを見ない関係もあって、私の中ではコント55号の最後の勇姿でした。

坂上二郎氏にとって自分をスターダムに押し上げたのがコント55号であり、天才芸人萩本欽一と互角に渡り合えたのは生涯の財産と自信になっていたんじゃないかと思っています。萩本欽一のアドリブを返すだけでなく、逆に切り返せたのは坂上二郎氏だから出来たと思っています。切り返すだけなら他の芸人でも可能ですが、コンビを破綻させずに芸を盛り上げられたのは坂上二郎氏以外にはいなかったと思っています。ギリギリの調和の才能です。


晩年についてwikipediaより、

2003年9月にゴルフのプレイ中脳梗塞に倒れたが[5]、同伴競技者に医師がいたため、すぐに適切な応急処置を施され病院に搬送。幸い軽度で済み、必死のリハビリで2004年6月に復帰した。

2005年4月21日に、歌手としては5年ぶりの新曲CD『必殺!人生送りバント/飛びます音頭』を発売した。『必殺!〜』は、坂上の波瀾万丈の半生を題材に、さだまさしが作詞・作曲を手掛けた。2005年6月4日には、栃木県那須塩原市にお笑い芸人の育成学校『那須お笑い学校』を開校、名誉校長に就任した。

2006年5月6日、地元で結成された社会人野球チーム鹿児島ホワイトウェーブの総監督に就任した。背番号は茨城ゴールデンゴールズ萩本欽一と同じ55。

2010年8月13日に自宅の台所で再び脳梗塞で倒れ頭を強打、病院に搬送。入院して手足が動かせない状況のため、2011年1月2日より開幕する予定の明治座初春特別公演への出演は取り止めとなった。

2011年3月10日に脳梗塞により死去。76歳没

享年76。昭和の爆笑王がまた1人世を去りました。子供の時からのファンとして、謹んで御冥福をお祈りします。そしてコント55号は永遠になったとさせて頂きます。