山田至康先生を悼む

昨日は告別式があり、参列させて頂き、最後のお別れをさせて頂きました。山田先生の事は私より書くのが相応しい先生方が沢山おられます。たとえば私の指導医だった先生などは「ヤマダ、ヤマダ」と呼んでいた御関係でしたから、書いてもらえれば良いのですが、匿名ブログである関係上、本当に役不足ですが書かせて頂きます。もっとも今の状況では頼んでもとても書けないかもしれません。

実は山田先生とは常に近い位置にいながら、残念な事に個人的な交流が殆んどありません。常に近いとは、山田先生が六甲アイランド病院時代はもちろんの事、その前の公文病院時代も常に患者を送らせて頂く関係でした。勉強会で顔を会わせて頂いた事もありますが、とにかく先輩の先生であるのと、私も人見知りが強い方なので、質疑のやり取りぐらいが関の山です。

本当に恥ずかしながらなんですが、山田先生の経歴もよく存じ上げなくて、とりあえずwikipediaからですが、

笑われそうなんですが、山田先生が順天堂大御出身である事も葬儀に参列して初めて知りました。六甲アイランド病院の院長職から「なぜに順天堂大」と疑問に思っていたのですが、母校だったんですね。ついでに言えば、告別式に六甲学院の同窓会の旗が飾られてましたから、六甲中・六甲高の御出身だろう事も付け加えておいても良いかもしれません。

それぐらい存じ上げない山田先生ですが、初めて名前をお聞きしたのは六甲アイランド病院の前の公文病院時代です。その前がどうであったかトンと存じ上げないのですが、公文病院で事実上の24時間356日の小児救急を始められました。24時間小児救急をやっているお蔭で公文病院は小児科の世界で神戸中にその名を轟かしたと言っても良いと考えています。

公文病院の高名をその小児救急の活躍ぶりと聞いて、よほど物凄い病院だと勝手に想像していたのですが、実際に見ると場末の中小病院で、かなり驚かされた記憶があります。よくまあこんなところでと言う実感です。公文病院の理解と協力もあったのでしょうが、何より山田先生の馬力で支えられていたと思っています。

そんな山田先生が次に赴任されたのが六甲アイランド病院です。外野としては公文の功績が認められたのか、それとも公文ではこれ以上の小児救急の充実は不可能と判断されたのかは知る由もありませんが、新天地で新たに小児救急を展開されました。

山田先生時代の六甲アイランド病院は、神戸の小児救急の牙城の様相があったと思っています。神戸も御多分に漏れず小児救急と言うか、小児が入院できる病院はドンドン先細りになっています。そういう中で24時間の救急体制で受け入れてくれる六甲アイランドは、最後の頼みの綱と言う感じはありました。

山田先生が六甲アイランド病院に移られたのがいつなのかもまた確認出来ないのですが、2000年に副院長の肩書きが見られ、2002年には院長の肩書きが見られます。あくまでも送る側から見た六甲アイランド病院小児科なんですが、山田先生が院長職になられた頃より変化がありました。ちょうど私が開業する頃に重なりますから覚えています。

あくまでも風の噂で聞いた話なんですが、六甲アイランド病院の経営母体である医療法人の経営がその頃から傾きだしたとされています。どこかの国立病院を買収したそうですが、どうにもこれが資金繰りを苦しくしたと聞いています。どうもそれに連動するように六甲アイランド病院小児科の力が変質してきた印象を持っています。

当たり前ですが、院長職は小児科だけではなく全診療科の管理を行わなければなりません。そこに経営難が加われば、医師と言うより経営者と言うか管理職としての重圧がかかります。どうしても自分のライフワークである小児救急の指揮を十分に取れなくなっていたように勝手に思っています。送る側としたら山田先生がいるから安心と思っていても、実際は殆んど医療にタッチできていなかったんじゃないかと言う事です。

本当のところは知りませんが、チョットと思うような診療が目に付いてしまったのは正直なところです。それでも貴重な二次救急ですから頼りにはしていたのですが、小児救急の体制が徐々に縮小され始めます。医師不足、小児科医不足があるのは神戸も例外ではありませんが、あの山田先生が率いながらの感があったのは確かです。

そうこう感じているうちに順天堂の教授就任の葉書が舞い込みました。正直なところ「嫌になったんじゃないか」とか「経営不振の詰め腹を切らされたのではないか」と勝手に憶測しています。良くは知らないとは言え、山田先生は医療手腕こそ優れているものの、経営手腕においては医療ほどではないと思うからです。

浦安での活躍ぶりはまったく存じません。ただ式場に山田先生が着用されていたというユニフォームが飾られていました。遺族の挨拶の中で時間が許せば今でも当直をされていたとの一節がありましたから、山田先生にすれば六甲アイランド病院より医師としてのヤリガイはあったんじゃないかと思っています。あの先生は院長室に籠って帳簿とにらめっこするより、陣頭指揮で外来や病室を駆け巡る方が適任としか思えないからです。



最後に遭難の話をしなければなりません。通常と言う表現が適切かどうかわかりませんが、告別式の最後当たりに遺族の方の挨拶があります。もちろん今回もあったのですが、山田先生の御実弟と奥様の二部構成になっていました。お二人に分担されたのは、遭難と言う突然の死であった為、遭難の経過を説明しておく必要性を判断されたようです。今日紹介するのは御実弟のお話です。

山田先生は山岳部出身だそうです。まあ趣味が登山とマラソンとテニスだそうで、その中でも登山は非常に好まれていたそうです。今回の遭難は冬の西アルプスと言う事で、高齢者の無謀な冬山登山と言う声もありましたが、登山自体は非常に年季の入ったベテランであったのは間違いないようです。

もっともそれぐらいベテランでなければ、いくら山が好きと言っても冬のアルプスなんてそうそう登りません。山田先生が目指していたのは西穂高の本峰ではなく、そのかなり手前の独標です。偉そうに書いていますが、アルプスなんて登った事はないので受け売りですが、独標までは比較的容易な登山路だそうです。独標から本峰までは夏でも素人では難しいそうですが、独標までならさしてらしいです。

もちろん夏山と冬山では難度の桁がかなり違いますから、独標までと言ってもそれなりの経験と天候に恵まれないと到達できませんが、計画としては山田先生クラスなら「冬山を楽しむ」ぐらいのものであったとされます。山田先生は帰路に滑落されています。山は登るより下る方が難しいところがありますが、それほどのベテランの山田先生でも遭難されるのが冬山の怖さです。生前最後の写真が式場に展示されていました。

遺族の方にお断りをしていませんから、抗議があれば速やかに取り下げますが、山田先生を偲ぶ者としてあえて掲載したいと思います。

この時の服や靴などが式場に展示されており、さすがに涙が零れました。もう一つエピソードを紹介しておきます。山田先生遭難の報を知らされた順天堂は、「発見されれば、とにかくヘリで搬送してくれ、必ず助けてみせる」と万全の準備をしていたそうです。テレビドラマでありそうなエピソードですが、ドラマとは違い奇跡の救出劇は遂に起こりませんでした。


外からなぞる話ばっかりになってしまい、真の山田先生の実像を示すには甚だ物足りないものになったのは遺憾ですが、私が知っている範囲はこの程度なので、どうか御容赦下さい。

享年61。これからの時代にもっと活躍して欲しい先生でした。謹んで御冥福をお祈りします