大原綜合病院の興亡

この病院は福島県福島市にある病院ですが、勤務した事はもちろんの事、見た事もありませんのでその点は御了解下さい。


栄光の歴史

同院の「あゆみ」によると大原一・原有隣の両氏が明治25年(1892年)に共同開業するところまで遡ります。現在の「大原」の名前は1896年で大原一氏が独立して大原医院を創設してからのようです。医業の方は順調だったようで1902年には今に続くともいえる大原病院になっています。

これも調べて初めて知ったのですが、二代目院長の大原八郎氏は日本医学史に残るような業績を残しています。これはwikipediaからの引用にしますが、

1911年に、ユタ州でアブに刺されたヒトに原因不明の熱性疾患が発生し、医師のR. A. Pearseが「アブ熱 deer-fly fever」と名付けている。報告当時は原因は不明であったが、後にこれが野兎病と同じものであることが判明した。これがアメリカでの最初の発生報告であったとされる。

1911年、アメリカのカリフォルニア州ツラレ郡で、野生のハタリス(地上に生息するリスの一種)にペスト様の疾患が集団発生し、翌1912年にMcCoyとChapinが原因菌として分離、Bacterium tularensisと命名した。その後、1914年にWherryらがヒトへの感染例を報告した。その後、アメリカ公衆衛生局の医官であったフランシス(Francis)は1919年から野兎病菌の詳細な研究を行った。先のアブ熱だけでなく、アメリカ各地で多くの疾患名で呼ばれていたが、1921年にフランシスは"tularemia"(ツラレミア)という名称に統一することを提唱した。

1925年、アメリカでの研究とは独立に、福島市で開業していた外科医の大原八郎が、地域的に流行していた感染症の原因を解明する過程で、感染源と思われるノウサギから菌を分離した。大原は、軍医であり細菌学の知識を持っていた芳賀竹四郎と共同研究でその解析を行い、自分の妻である大原リキの腕に分離した菌を塗抹して実験的に感染させることで、本菌が病原体であることを証明して、「大原・芳賀菌」と名付けた。

その後、大原とフランシスはそれぞれ、お互いが研究している野兎病とツラレミアが同じ病原体による同じ疾患ではないかと考えて共同研究を行い、その結果、1929年に「B. tularensis」と「大原・芳賀菌」が同一であることが明らかにされた。1947年、Dorofe'evがフランシスの名に因んでフランシセラ属という新しい属を提案し、学名をFrancisella tularensisに改めた。

国際病名に名を残せませんでしたが、野兎病研究において大きな役割を果たしていた事がわかります。どうでも良いことですが、大原八郎氏は大原一氏の実子ではない様で、kotobankに、

明治15年生まれ。東北帝大外科学助教授をへて,福島市の大原病院院長となる。大正14年ノウサギからヒトに感染する野兎(やと)病の病原菌を発見。のちツラレミアと同一疾患と判明。昭和18年6月25日死去。62歳。福島県出身。京都帝大卒。旧姓は阿部。

京都帝大から東北帝大の助教授になり、どうも見込まれて大原家の婿養子に迎え入れられたようです。そうなるとwikipediaにあるエピソードの

    自分の妻である大原リキの腕に分離した菌を塗抹して実験的に感染
かなり思い切りが必要な実験だったかもしれません。ただここは考えようで、大原家に見込まれて、大原家の資産をバックに研究を重ねる事ができたとも言え、妻の献身もそのあたりに原因があるのかもしれません。とにもかくにも日本医学の黎明期の功労者の一人と言えます。


病院の発展

同じく「あゆみ」からですが、

事柄
1950 附属乙種看護婦養成所設置
1951 大原綜合病院と改称
1953 財団法人大原綜合病院設立
1958 金谷川診療所開設(平成4年廃止)
1960 清水分院開設
1968 附属エンゼル保育所開設
1972 清水分院を清水病院と改称
1973 大原高等看護学院設置
財団法人大原綜合病院内に大原研究所設置
1977 大原高等看護学院を大原看護専門学校に改称


二代目院長の大原八郎氏は1943年に死去されていますから、これらの事業は三代目以後の方々が展開されたものと推測されます。病院を法人化し、附属の看護学校を作り、分院も設置するなど、典型的な医療ビジネスを展開しています。誤解無い様にお願いしたいのですが、医療ビジネスと評してもマイナスの意味ではなく、当時的には地域医療に必須なものであり、また自力で作らないと無かったものと考えて良さそうです。


存亡の危機

内実は知る由もありませんが、大原グループの危機が訪れます。財団法人大原綜合病院に対する支援決定についてから引用します。

 対象事業者は、1990年に本院から一部の診療科を切り離し、センターを開設したことで、有利子負債が97億円(1993年3月期)まで拡大し、医業利益も▲9億円(1991年3月期)まで大きく落ち込んだ。

 東邦銀行は1991年に、当法人に対し、収益確保と組織強化の検討を要請し、その結果、創業家一族が理事を退任し、東邦銀行から理事及び財団運営幹部を派遣した。

危機の最終引き金になったのは1990年の大原医療センター(一般195床)建設(ちなみに本院は一般429床で、清水病院は精神病床182床です)であったようです。ただそれだけではないようなところがあります。センターは1990年開設ですから、今から31年前の話ですが、その前に本院の増改築も行っているようです。

一方で、対象事業者の基幹施設である本院は築37年以上であり(一部の建物は築56年経過)

これが37年前となっていますから、この二つの投資による負債でグループ経営が一遍に行き詰ったと見て良さそうです。

結果論になってしまうのでしょうが、経営的には本院とセンターによる相乗効果を狙っていたはずです。ところが実際に始まってみると、さほどの効果が無かったと言うか、むしろマイナス材料が目立ったようです。ここも内実はもっと複雑そうで、センターが開設された1年後にはメインバンクの東邦銀行が経営を支配したようで、

    東邦銀行は1991年に、当法人に対し、収益確保と組織強化の検討を要請し、その結果、創業家一族が理事を退任し、東邦銀行から理事及び財団運営幹部を派遣した。
ステレオタイプの解釈になってしまいますが、1990年頃と言えばバブル景気真っ盛りで、銀行もジャンジャン貸します(要らなくても貸します)時代です。病院経営者と銀行の融資担当者が適当な業績予想で大きな融資を行ったら焦げ付きそうになり、慌てて経営介入を行ったとも見れなくありません。時間的にセンター建設の結果で行き詰ったというより、センター建設の債務のために行き詰ったと見た方が妥当の様な気がします。

訂正

私の勘違いがありました。通りすがり様から

    センター建築:31年前 → 21年前
本院の増改築は37年前ですから、センター新設の16年前のお話でした。それであれば、本院の増改築は経営危機とは関係が薄かったとする方が妥当です。

新理事長の登場

病院再建のために創業者一族に代わって経営を託されたのが、

1994年高田厚生病院から新理事長が招聘され現在に至っている。この体制で、医業利益は最大2億円まで回復し、最大97億円あった借入金も2006には75億円まで圧縮した。

かの有名な有我氏のようです。有我氏が理事長(正確には1994年に院長、1999年から理事長のようです)になった1994年には負債は97億円まで膨れ上がっていましたが、2006年にはこれを75億円まで圧縮する事に成功します。有我氏は積極的な投資も行っていたようで、

事柄
1995 附属大原健康クリニック開設
1997 大原訪問看護ステーション開設
附属清水病院デイケア棟解説
1999 大原指定居宅介護支援事業開設
大原在宅看護支援センター開設
大原デイサービスセンター開設
2000 開放型病院開設
地域医療連携室開設
2001 臨床研修施設指定
2002 6月:病院機能評価機構認定取得(大原綜合病院)
7月:病院機能評価機構認定取得(附属大原医療センター)


年代的に医療経営の動向に敏感に動いての設備投資を断続的に行っていたように見えます。経営危機を招いたセンター建設とは違い、これらの投資には銀行サイドも十分に回収の計算を審査して融資したはずですし、こういう状況で融資させ成功させた有我氏の経営手腕もかなりのものであったと推測されます。


ふたたびの危機

しかし、この頃から、本院およびセンターの病床稼働低下等を理由に医業利益が急速に落ち始め、2008年、2009年には資金繰りに窮するようになった。

「この頃」とは負債が75億円に圧縮された頃です。有我理事長の奮闘にも関らず、2006年頃から病床稼働率の低下に悩まされるようになったようです。病院経営では「病床稼働率低下 ≒ 医業収益低下」の関係が成立しやすいですから、事態は深刻です。有我氏の存在を一躍全国区にした名セリフ、

    「今回1番の大きな問題は『患者を診なかったこと』。満床などと言うのは言い訳にすぎない」
これは2007.11.21付朝日新聞に掲載されていますから、病床稼働率の低下に悩む有我氏が、救急からの入院患者の増加を図り、院内でも実際に号令していた事をそのまま発言していたのかもしれません。この危機は有我氏の手ではついに克服できなかったようで、

 この危機に際し、2009年に、福島県会津総合病院の病院長を務めていた医師を本院の院長に招聘したところ、2006年以降低迷した収益を改善し、2011年3月期の医業利益は約1億円を見込めるまで回復した。

ちなみに2010年度の財務状況もあり、

(9) 財務状況(2010年3月期)

 医業収入 8,599百万円 医業利益 15百万円 有利子負債 7,585百万円

2009年に招聘された新院長は2009年度決算で少額とは言え単年度黒字を計上した模様で、2010年度にはこれが1億円程度にまで拡大するのに成功しています。どんな手腕を発揮されたのかは、この新院長も、また有我氏も不明ですが、あえて想像すれば坂出の元カリスマ院長の手法の様に思っています。医療経営と言っても、そんなに腰を抜かすような奇抜な方法がそうそうあるわけでは無いからです。


再生への道程

新院長の手腕により経営状態の改善に成功していますし、2006年頃から続いた経営不振もよくよく見れば、負債額が著増している訳ではありません。負債は2009年度で75億8500万円、2010年度決算では75億円を割り込む可能性も出てきています。ほいじゃ現在の負債額は一体いくらかになりますが、債権の取立不能又は取立遅延のおそれに関するお知らせ(2011-02-10)に、

当該取引先に対する債権の種類及び金額(平成23年2月9日現在)貸出金

 7,254百万円

ただなんですが、これはあくまでもメインバンクの分であって、他の負債も合わせると、2/11付読売新聞に、

同法人は現在、74億円の有利子負債を抱え、41億円の債務超過となっている

それでも病院経営が再び軌道に乗れば、97億円の負債があった時代のように返済していくのもありそうな気がしますが、大原グループに大きな問題が出ています。

 一方で、対象事業者の基幹施設である本院は築37年以上であり(一部の建物は築56年経過)、老朽化が相当進んでおり、建替えが喫緊の課題となっている。また、構造が古いため新しい大型医療機器が導入できず、対象事業者が本来担うべき医療を提供できない状況にある。

 さらに、急性期病院としての診療機能が、本院とセンターに分断されており、総合病院、救急医療機関としての機能を十分に有しているとはいえない。

 かかる事情から、対象事業者は5年後を目途に本院とセンターを統合し、新病院を建設する構想を有している。しかしながら、対象事業者は、依然74億円の借入金と41億円の表面債務超過を有するなど財務面の毀損が大きいことから、現状、新たな投資を行なうことは困難な状況にある。そこで、対象事業者は、将来の新病院建設も見据え、機構の支援を得て再生を図ることとしたものである。

本院の老朽化による建て替え問題が出ています。また1990年の失敗とされるセンターをどうするかの問題もあり、方針として本院とセンターを合体させた新病院建設が必要と判断されているようです。まあ、現状ではなんとか単年度黒字を維持するのが目一杯ぐらいの状態ですから、起死回生の新病院建設みたいな方針と理解すれば良いでしょうか。

おそらくなんですが、有我氏も理事長に就任してからこの方針を温めていたとは思いますが、とりあえずは負債の返済に専念せざるを得なかったぐらいに考えています。また有我氏が理事長に就任したのが1994年ですから、あれから16年しても解消出来ない問題として横たわっていると考えても良さそうです。

そいでもって取られた方針が企業再生支援機構の利用です。これがまた良く分からないのですが、いわゆる会社更正法の中小企業版みたいなものを思い浮かべれば、そんなには間違っていないように思えます。制度は色々複雑なんですが、債務については読売記事より、

再生計画では、機構が東邦銀行の債権73億円の半分を買い取った上で、両者で60億円の債権を放棄。その上で東邦銀行が最大10億円を運転資金として融資する。

東邦銀行への債務が今年の2月時点で72億5400万円ですから、この半額と言いますから、36億2700万円は再生機構がまず買い取るようです。その上で60億円の債権放棄が両者均等であると仮定すれば、それぞれに残る債務は6億2700万円ずつの、12億5400万円になります。一挙に病院の債務は軽くなります。これは因みにですが、東邦銀行が運転資金ととして新たに融資する半分が再生機構の保証付きになるそうです。

これで身が軽くなった大原グループは新病院建設のための融資を受けられる余地ができたわけです。そいでもって

有我理事長は退任し、県立医大の平子健・前理事が理事長に就任する。理事や評議員は退任し、機構や同行から派遣する予定。

こうやって調べてみると、有我氏は大原グループの功労者だと感じるのですが、やはり理事長職を退任せざるを得なくなったようです。


有我由紀夫氏

前に書いた時にも調べていなかったのですが、私は有我氏をかなりの高齢と勝手に想像していました。イメージとして60歳ぐらいで大原綜合病院の理事長に就任し、現在75歳ぐらいの感じです。ところがかなり違うようです。御尊顔がありましたので見ていただきます。

う〜ん、お若い。写真ですから撮影した時期とか、写真映りで変わるとは言え、どっちかと言うと矍鑠としたイメージを勝手に持っていましたが、エネルギッシュなやり手を髣髴とさせてくれるような御容貌です。年齢は不明なんですが、経歴はありましたから御紹介しておきます。
卒後 事柄
1971 1 福島県立医科大学 卒業 福島県立医科大学 第三内科
1978 8 国立郡山病院 内科医長
1979 9 社会保険福島二本松病院 内科部長
1982 12 福島厚生連高田厚生病院 院長
1994 24 財団法人大原綜合病院 本院院長
1999 29 財団法人大原綜合病院 理事長

ついでに主な公職(現職と思いますが確認していません)ですが、
  1. 福島市医師会会長
  2. 福島県病院厚生年金基金理事長
  3. 福島県医師会副会長
  4. 日本病院会理事
  5. 社会保険診療支払基金副審査委員長
医師であれば気になるのは卒後12年目で院長に就任された福島厚生連高田厚生病院になります。これは現在の情報ですが、一般病床60床、療養病床48床、精神病床106床の計214床の規模です。有我理事長が院長時代はおそらく療養病床は無く一般病床が108床だった可能性が強いと考えられます。病院の規模的には中小病院になりますが、ここに卒後12年目で院長で就任するあたりに凄みを感じます。

年齢は推測ですが、高田厚生病院の院長に就任されたのが30歳代半ば、大原病院院長になられたのが40歳代の後半、理事長就任が50歳代の前半で、現在は60歳代半ばぐらいでしょうか。お写真はなんとなく理事長就任時か、下手すると大原病院院長時代にも見えますが、それでもまだまだお若い事が確認できます。

人間到る処青山ありとも申します。これだけの能力をお持ちであるなら、まだまだ活躍の場はあると思われます。これからの御健闘をお祈りします。