タイトルに引かれて来た方はガッカリして下さい。マニュアルではありません。
当ブログは論理的な方だと言われてはいます。別に意識して論理的にしようとしているのではなく、単に私の地の文章がそうなだけです。だから説明の仕様がないのですが、みんなに納得してもらえる「論理的」とは!に判りやすい解説がありました。この解説によると、論理的に考え書くためには4つの要素があるとなっています。
- 原因→結果(因果の関係)
因果関係を正しく見極めないと
- 想定した結果を得られない
- 正しい状況分析ができない
- 目的→手段(手段の選択)
手段の選択を間違うと
- 期待した成果が得られない
- 成果に向かう行動ができない
- 全体→部分(構成の把握)
構成を正しく把握できないと
- 間違った部分を入れてしまう
- 必要な部分が抜け落ちる
- 要素→属性(要素の分析)
要素を正しく分析できないと
- 間違った属性をいれてしまう
- 必要な属性が抜け落ちる
たったこれだけを守ると論理的な文章になるとしています。実に簡単だと思うのですが、どうも難しいものとされているようです。こんなものは習うより慣れろですから、例題を挙げて考えて見ます。例題はタブロイド紙の1/28付社説で、この社説を論理的に考えると言うテーマです。
社説:イレッサ 誰のための医療情報
肺がん治療薬のイレッサの副作用で死亡した患者の遺族らが国と販売元のアストラゼネカ社を提訴した損害賠償請求訴訟で、同社は「副作用の警告は十分しており適切に対応してきた」として和解勧告を拒否する方針を裁判所に回答した。国も拒否する方向で調整している。たしかに添付文書に副作用の間質性肺炎は記載されている。しかし、患者や現場の医師に危険性が十分伝わるものだったのか。医療における情報提供のあり方が問われているのだ。
訴訟の焦点は(1)承認審査(2)販売時の情報提供(3)副作用が多発した後の対策−−が適切だったかどうかだ。裁判所は(2)について「添付文書や説明文書に副作用に関する十分な記載がなされていたとはいえない」と指摘した。現在のイレッサの添付文書は冒頭に「警告」で致死的な間質性肺炎の副作用を赤字で目立つように囲ってある。だが、販売開始直後は2枚目の目立たないところに黒字で記され、「致死的」の記述はなかった。ほかの肺がん治療薬では化学療法に十分経験のある医師や緊急時の措置ができる医療機関に使用が限定されているが、それもなかった。
一方、販売前からイレッサは「副作用の少ない新薬」と宣伝され、ほかに治療方法がない患者や現場の医師には「夢の新薬」の期待感が高まっていた。同社はそうした状況を作ることに関与しながら、重大な危険性に関する情報提供をこの程度で果たしたとはいえない、というのが裁判所の判断なのである。
この和解勧告に対して日本肺癌(がん)学会など医療側からは「不可避的な副作用の責任を問う判断は医療の根本を否定する」「医療崩壊を招く」などの批判が起きている。一方、承認審査や使用ガイドラインの作成に携わった医師や、訴訟の中で被告側の証人に立った医師の中に、同社から寄付や講演料などの金銭を受けている人が何人もいると原告側は主張する。企業との経済的関係が医薬品の評価をゆがめるおそれがあることは国内外の各種指針で指摘されている。厚生労働省や医療関係団体が肺癌学会に対して同社との経済的関係について公表するよう何度も求めているが、いまだに公表していない。
新薬に関しては製薬企業や審査する専門医らには膨大な情報があるが、患者側には審査や安全対策が適切だったかどうかを検証しようにも情報が少ない。結果的にイレッサは800人を超える副作用死を出した。同社や肺癌学会には自らに都合が悪い情報についても詳しく公表する責務があるのではないか。被害者救済を求める裁判所に対し「副作用は不可避」「医療崩壊を招く」と批判するだけでは通らないだろう。
まずこの社説を見て必要なまず情報を考えます。何が必要かは誰でもわかりますね。そうですイレッサの添付文書です。この社説が主張しているのはイレッサの副作用情報の伝達の不備を訴えているからです。添付文書は変遷があります。2002年7月に第1版が出てから、2010年11月までに21版を重ねています。これだけの改訂を重ねているのは、新薬として販売後に新たな情報が見つかり、随時盛り込んだためと考えるのが妥当です。
初期の副作用情報は販売前の治験に基くものです。そこで発見された副作用情報を盛り込むのですが、副作用は治験段階で出尽くすわけではありません。治験段階と実際に市販されて使われるのでは、対象とする患者の数が桁がかなり違うからです。そのため市販後に思わぬ副作用が出現し、販売中止に追い込まれた薬剤もありますし、新たに発見された副作用により用途が非常に狭くなってしまうことも多々あります。
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販売開始直後は2枚目の目立たないところに黒字で記され、「致死的」の記述はなかった。
間質性肺炎(頻度不明 注1):間質性肺炎があらわれる事があるので、観察を十分に行い、異常が認められた場合には、投与を中止し、適切な処置を行うこと
ここの注1ですが、
第2相国際共同臨床試験及び米国第2相臨床試験(いずれも本剤250mg/日投与群)以外でのみ認められた副作用は頻度不明とした
治験段階では間質性肺炎は確認できなかったようで、その他の情報の中に頻度は少ないが存在したと解釈できるところです。頻度が少なくとも抗がん剤治療中の間質性肺炎の併発は腫瘍医にとって悪夢みたいなものですから、重大な副作用として列挙してあると考えられます。では、
ここなんですが間質性肺炎はイレッサだけに起こりうる合併症ではありません。極論すればどんな抗がん剤でも起こりうる合併症です。治験段階で確認されない程度の頻度のものを、最初から赤字で囲んで冒頭に記す方が不自然と考えられます。それでも市販後の情報によりいつ変わったかです。「冒頭」になったのは2002年10月の第3版からです。リンク先がモノクロなので赤字がどうかは確認できませんが、色調から赤字の可能性が高いと考えられます。2002年7月に販売してから3ヶ月での対応です。
これにもう一つの要素の致死的ですが、抗がん治療中の間質性肺炎はそもそも致死的になる可能性が高いものです。この辺は小児抗がん治療と成人の抗がん治療では間質性肺炎の症状の様相がやや違うところもありますが、がん治療に従事する医師なら十分に心得ている常識と考えます。それでも書いて悪いものでは無いのですが、「致命的」とか「致死的」の記述が入ったのはいつかになります。
これも確認すると2002年12月の第4版には「致命的」も「致死的」も冒頭に赤字で記載されています。もう一つの社説の力説点ですが、
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ほかの肺がん治療薬では化学療法に十分経験のある医師や緊急時の措置ができる医療機関に使用が限定されているが、それもなかった。
年月 | 版 | 冒頭に赤字 | 致死的の記述 | 経験のある医師 | 適切な医療機関 |
2002年7月 | 第1版 | × | × | × | × |
2002年10月 | 第3版 | ○ | × | × | × |
2002年12月 | 第4版 | ○ | ○ | × | × |
2003年3月 | 第5版 | ○ | ○ | ○ | ○ |
社説だけ読むと添付文書の改訂がかなり遅かったような印象を受けますが、実際は当初より間質性肺炎は「重大な副作用」として記載され、3ヶ月で冒頭に赤字で強調され、5ヶ月で「致死的」の記述が加えられ、8ヶ月で医師と医療機関の注意が追加されています。添付文書の問題を論理的に考えるのであれば、この2点の情報を確認しなければなりません。1.については治験段階では間質性肺炎にさほど懸念される情報が乏しかった事が推測可能です。ここで間質性肺炎についての情報を故意に伏せているのであれば、これは隠蔽になり、問題の程度はこの程度で済んでいないのは明白ですから、認可段階で「重大な副作用」として列挙しているのであれば、情報提供として十分ではないかの推理は成立します。
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販売前からイレッサは「副作用の少ない新薬」と宣伝され、ほかに治療方法がない患者や現場の医師には「夢の新薬」の期待感が高まっていた
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同社はそうした状況を作ることに関与しながら、重大な危険性に関する情報提供をこの程度で果たしたとはいえない
適切に対応された事例に較べて遅かったと判断されるのであれば、これは販売サイドに責任が生じます。副作用情報は市販後に集められ分析され、国の許可を経て対応されます。1例報告に瞬時に対応できる性質のものではなく、ある程度の数が集まらないと難しいところがあります。そこを踏まえての評価がなされていないと感じます。
社説の論拠は和解勧告の内容を決定事項のように扱っていますが、まだ判決は下されていません。さらに言えば、まだ一審段階です。三審制で判断が変わる事はありうる事であり、さらに判決には時に誤審が生じます。裁判所判断が正しいかどうかは、判決内容だけではなく、判決内容が合理的に判断されているかどうかの考察も欠かせないものと考えます。これについての論理的考察が社説には決定的に欠けています。
社説にあるのは、とにかく患者が死んだのだから誰かが責任を問われなければならないの感情的思考のみです。人の死はもちろん重大な事であり、原告がこれに責任を求めるのは理解できます。しかし論評する者は、原告の感情と一線を引いて考える必要があります。原告の感情が論理的にも支持出来るものなのか、それとも感情は感情として、論理的に本当に責任が問われるものなのかです。
論理的に考えるとは、感情論を極力排したところから始まります。今回であれば人の死と言う大きな感情論にいかに流されずに考察できるかです。この社説は死んでいるから責任論の思い込みから一歩も出ていません。思い込みは仮説と言い換えることも出来ますが、仮説を結論としてしまうと既に論理的考察から外れている事になります。
もう一つ、この社説の感覚的な個所は、
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一方、承認審査や使用ガイドラインの作成に携わった医師や、訴訟の中で被告側の証人に立った医師の中に、同社から寄付や講演料などの金銭を受けている人が何人もいると原告側は主張する。
論理的な文章を書くのは、このようにさして難しいものではありません。ネットの常識であるソースを確認するのが基本です。ソースから確認できる事を一段々々積み重ねる事が論理的な文章になるコツだと思います。また感情で論理を飛躍させてしまうのを自制するのも重要なポイントです。基本は可能な限り材料を集め、読み手に素材を提供する気持ちで書けば論理的になります。
感情に逸って、感覚のみで結論を出そうとすれば、どうしても論理に破綻を来たします。たとえ感覚的に「どうも、こうだ」と思っても、その直感が本当に正しいかどうかを検証する作業が論理的考察になるわけです。
今日の例題はあまりにも典型的だったので判りやすかったと思いますが、論理的に文章を書こうと思えば、手間ひまを惜しんではならないと考えています。手間を惜しんだ分が感覚部分の肥大を招き、単なる感情の垂れ流しの駄文と化します。ちょっとは参考になったでしょうか。