悪筆

私は悪筆です。それもすこぶる付の悪筆です。あんまり悪筆なもので、ワープロ(古い!)が発売された時には飛びつきました。悪筆のコンプレックスから少しでも開放されたかったからです。医師になって嬉しかった事の一つは、医師の字が一般的に汚い事でした。もちろん惚れ惚れするほど上手な方も少なからずおられましたが、一方で私も顔負けみたいなものすごい字を書かれる先輩方もいっぱいおられて、字に関してだけはコンプレックスの無い世界で仕事が出来る気分でした。

悪筆のエピソードを今日は幾つか拾ってみたいのですが、wikipediaより、

一般に字を書くのは自分のための記録と、他人が読むことを前提とする場合がある。自分のためであれば、自分が読めればよいから、悪筆であっても何ら問題はない。ただし、そのときは読めても、あとになると読めないという話もある。また、本人にとっては自分用であっても、後に他人が読みたい、という場合もある。たとえば有名人の日記はその対象になり得る。南方熊楠の日記の解読は現在も努力が続けられている。

南方熊楠の字も相当だったみたいです。これって不思議なもので、悪筆だから筆不精とは限らないと言うのがあります。もう一つですが、字以外は経験や年数を重ねると、それなりにでも上手になるものですが、字に関しては殆んど進歩が見られないというのがあります。

うちの診療所のカルテは紙であり、1ヶ月に書く文字量はかなりのもののはずですが、年々悪筆の程度は増している様な気がしています。つうか、忙しい時ほど字が汚くなり、記号化し、ミミズののたくりになり、ついに意味不明の曲線と点のつながりと化します。後で自分が読んでも、その部分が日本語なのか、それとも英語のスペルであるかの判別さえ困難な時がしばしばあります。

カルテ開示が話題になっていますが、私は内容についてはさして問題を感じませんが、あの字を見てもらうのは少々抵抗があります。もう少し言えば、「なんと書いてあるか」と問われれば立ち往生しかねないので嫌だと思っています。このブログも直筆なら、きっと誰も読めないと思っています。


これもwikipediaからですが、

悪筆四天王という呼称もあり、石原慎太郎黒岩重吾田中小実昌川上宗薫だそうである。石原の場合、まともに読みこなせる人は数少なく、そのために印刷屋の植字工に慎太郎係というのが存在したという話があるほどである。

どこかのブログか雑誌のコラムだったと思うのですが、ある医師が診察中に指示内容の問い合わせが妙に多い日があったそうです。その医師も、カルテが戻ってきても時間が経つと「自分の字が読めない」程度の悪筆だったそうです。自分の字が読めないので「なんでもっと早く持って来ないのか」と怒ったそうです。つまりは自分が書いた記憶のある時間のうちでないと読めないと言う事です。

さらに「今日に限って、なぜにこれほど問合せが多い」と尋ねたそうです。そうすると職員が「今日は○○さんがお休みなもので、残りの職員ではちょっと・・・」と返答され、非常に恥じ入ったと言うお話です。

私も似たような経験があり、開業以来の事務職員が都合により退職されたことがあります。非常に優秀な職員で、字が読めないなどはまず無い程だったのですが、後任に同じレベルを要求したら、一遍に外来が動かなくなりました。字に慣れてもらうまで、しばらくの間、可能な限り「判読可能な字」を書く努力をしましたが、非常に肩が凝ったのを覚えています。


これは天漢日乗様「鴎外の字は読みにくい」からですが、

 鴎外の稿本
を読むことになる。しかも
 鴎外が書いたものと、鴎外が取材したりどこかで手に入れた文書が混在
している資料もあって、こちらは
 墨書とペン書きが混在して綴じられている。
のである。
この時代の人は、手習いはまずは御家流だから、候文が出てくると、とたんに御家流で書く。
水茎麗しいのは結構なんだが、固有名詞が入っているもので、解読に難儀する。
 活版印刷で、字体が統一可能になり、学校教育で統一字体に準拠した識字教育が行われた時代
以降に生まれた人間にとっては、
 一文字を表現するのに、いくつもの表現法があって、しかも書き手の好みで違ってたりする
のは、なかなか難儀だ。

どうでも良い事なんですが、天漢日乗様の改行も独特のクセがあります。読む分には何の支障も無いのですが、これをhatenaの引用形式で引用しようとすると、ちょっと手間がかかります。hatenaユーザーなら理由はわかると思います。

鴎外の字は悪筆ではなく、むしろ達筆のようです。ただ達筆と言うのも時に悪筆と同じぐらい読みにくい事があります。医師でも惚れ惚れするぐらい綺麗な字の方がいるとしましたが、達筆すぎて逆に読めない方もおられました。流麗に万年筆で書かれているのですが、見事に崩してあり(決して悪筆ではありません)、断片的にどうしても読めないのです。

これが他科の、かつお偉い先生で、かつちょっと強面の先生だったのです。つまりは安易に「ここが読みにくい」とは聞けない雰囲気の先生と言う事です。悪筆の医師は自分が悪筆であるの自意識が普通はありますから、「読めない」と聞いても、そんなに嫌な顔をせずに読み方を教えてくれた事が多かったと思っています。もちろん「なんて書いてあるのだろう」と真剣に悩みこむ先生もいましたけどね。

逆に達筆の先生に対しては、まず基本的に自分に悪筆コンプレックスがあり、そのうえ強面ですから、研修医であった私は、とりあえず指導医に振りました。まあ。ここは診療依頼の指示を出したのが指導医と言うのもあります。指導医の先生も「ウンウン」唸りましたが、二人がかりで、そうですね、7割程度の解読には成功しました。

それでも3割ぐらいは解読不能なので困ると言えば困るのですが、指導医も私に安易に「聞きに行ってこい」とは申しません。そういう先生だったと理解してください。指導医と二人が出した結論は、「読めないところはあるが、たぶん問題ないだろう」で治療を進めても差し支えは少ないだろうです。しかし、それでは不安がやや残るので、結局のところ、私が最終的に矢面に立たざるを得なくなりました。研修医の方が当たりが柔らかい可能性があるとのご命令でした。

直接「読めない」と聞くのは余りにも畏れ多いので、読めたところをつなぎ合わせて、「たぶんこういう結論だろう」の話を考え、研修医である私が教えを乞う形で「こういう風に考えさせてよろしいでしょうか」と質問する形です。本当に怖かったのですが、その日は機嫌が良かったのか、それとも噂で聞くほど怖くなかったのか、この作戦は大成功で、不明部分の殆んどが判明しました。治療に支障が生じなかったのはもちろんです。


うちはまだ紙カルテですが、時代の流れとして電子カルテになるのは時間の問題と思っています。うちではなくて、医療の大勢がです。病院レベルではかなり電子化は進んでいると思いますし、診療所レベルでもそうだと思います。これがどういう形で統合されていくかはさておき、手書き文書は医療現場からドンドン減っていくと思っています。

会社レベルならもっと先行していると思います。医療文書より遥かに電子化しやすいですからね。社会がドンドン電子化と言うか、機械文字に置き換えられていくと、教育現場はどうなるんだろうと思うことがあります。日本の貧弱な教育予算では、生徒の机一つ一つにオンラインのPCを配布するまでには、相当時間がかかりそうな気もしますが、いつかそうなっても不思議は無いでしょう。

そこまで行けば、字を書く、とくに綺麗な字を書くという技術自体が特殊技術になる可能性もあるんじゃないかと思ったりしています。そこまでなるのは極端ですが、悪筆にとってはそうなってくれる方が嬉しいと言うのは本音です。

未だに字を綺麗にしたいという願望だけはあるのですが、知り合いの習字の先生に朗らかに「はははは」と笑い飛ばされたのが、今年の正月でもありました。見果てぬ夢のようです。