日曜閑話39

今日のお題は「木綿」です。天然繊維の代表格なんですが、まずはwikipediaより、

Foods and Nutrition Encyclopedia によれば、現在までに見つかっている木綿栽培の最古の証拠はメキシコで見つかっており、約8000年前に遡る。その種類はアメリカ栽培綿 Gossypium hirsutum で、現在世界で栽培されている木綿の89.9%がこの種である。野生の木綿の種はメキシコで最も多様であり、それにオーストラリアとアフリカが次いでいる。

旧世界で最も古い木綿栽培の痕跡は約7000年前(紀元前5千年紀から紀元前4千年紀)のもので、インド亜大陸の北西の広大な領域(現在の東パキスタンと北西インドの一部)で発達したインダス文明の住民によるものである。インダス川流域の木綿産業はかなり発展し、そこで生まれた紡績や機織りの技法はインドで比較的最近まで使われ続けていた。西暦が始まる以前に木綿の布はインドから地中海、さらにその先へと広まっていた。

ギリシャ人はアレクサンドロス3世のころまで木綿を知らず、ほぼ同時代のメガステネスが『インド誌』の中でセレウコス1世に「(インドには)羊毛が生える木がある」と教えている。

メキシコの話はともかく、インダス文明の頃から栽培されているほど起源は古い繊維である事が確認できます。ただ面白いのは、古代インドで大々的に栽培され生産されていたにも関らず、木綿栽培の拡がりはユックリしていたようです。これもwikipediaですが、

イラン(ペルシャ)での木綿の歴史はアケメネス朝(紀元前5世紀ごろ)まで遡る。しかし、イスラム化する以前のイランでの木綿栽培に関する文献は非常に少ない。13世紀のマルコ・ポーロペルシャの主要産品として木綿も挙げている。17世紀フランスの旅行家ジョン・カルダンはサファヴィー朝を訪れ、その広大な綿花農場を紹介している。

インドで紀元前5000年前から栽培されていたものが、ペルシャに伝播したのがようやく紀元前5世紀ぐらいだったようです。これが西欧に伝わるのはさらに遅くて、

The Columbia Encyclopedia, Sixth Edition[5] によれば、紀元1世紀にアラブ人商人がモスリン(本来は綿織物)やキャラコをイタリアやスペインにもたらした。ムーア人がスペインに木綿栽培法をもたらしたのは9世紀のことである。ファスチャン織りやディミティ織りは14世紀にヴェネツィアやミラノで織られていたが、当初は縦糸にリンネルを使っていた。イングランドに15世紀以前に輸入された木綿布はごくわずかだが、その一部はろうそくの芯に使われた。17世紀にはイギリス東インド会社がインドから珍しい綿織物をもたらした。

スペインに伝わったのがやっとこさ9世紀であったようです。では東アジアはどうだったかです。

中国への伝来は晩唐とも北宋とも言われている。朝鮮半島へは1364年に文益漸が国禁を犯して元から伝えたという記録が残されている。

晩唐から北宋と言えば、紀元10世紀頃になります。スペインに伝わるのより1世紀程度後だったようです。朝鮮半島への伝来を少し補足しておきますと、これは戦国日本の津々浦々からですが、

朝鮮の木綿生産は14世紀後半、高麗・恭愍王の十三年、中国・元朝に送られた使者が木綿の種子を持ち帰ったことに始まるという。李氏朝鮮王朝が成立する同世紀末期には「綿紬」とともに「綿布」が「布貨」として用いられるまでに木綿が普及し始めていた。

朝鮮半島には14世紀に木綿栽培が持ち込まれたら、たちまち普及したとしても良さそうです。これでやっと朝鮮半島まで来ましたが、日本はどうかになります。これはいせ木綿 からですが、

 延歴18年(799)天竺船・インドの崑崙人が三河に漂着し綿の種子を伝えた,というのが記録として最も古い。799年は平安遷都まもない頃である。これは『日本後記』に書かれており,インド人がもたらしたとある。愛知県西尾市天竹町に天竹神社があり伝説を伝えている。

 品種が日本の土地には適さなかったのだろうか,その後,盛んにならず衰退したという。

木綿栽培の伝来自体は下手すると中国並みか、それより早かった可能性もありますが、残念ながら根付かなかったようです。ここでなんですが、木綿栽培は根付かなかったようですが、木綿布の需要は旺盛であり、日本は中国なり朝鮮半島からの輸入に頼る事になります。これは戦国日本の津々浦々からですが、

  当初、朝鮮木綿は日本側の遣使に対する王朝の回賜品として日本に入ってきた。早い例では応永十三年(1407)、「日本国王」の使者への回賜品の中に「青木綿」をみることができる。15世紀中頃になると、朝鮮での木綿の本格的な増産と日本側の需要を背景にして、賜物の中心は綿布となっていく。

 宝徳三年(1451)、島津貴久への回賜品として「綿布二千三百九十四匹」が支給された事例をはじめとし、室町幕府・伊勢政親や山名氏、京極佐々木氏、大内氏ら有力守護大名が朝鮮に使者を派遣して数千匹の「綿布」を求めている。その理由として京極氏は戦乱による兵衣不足を挙げていたことが『李朝実録』成化九年(1473)三月条にみえる。このような状況で文明七年(1475)に京倭館貿易と慶尚道浦所貿易で支給された綿布は計二万七八〇〇疋、翌年には三万七四二一疋にのぼるとされており、日本側の輸入量は増加の一途をたどっていた。

輸入品ですから非常に高価なものであったのですが、幾らでも欲しいの需要があったのが推察されます。木綿が珍重された理由は色々あるでしょうが、一つは保温性といわれています。日本では事実上、毛織物がありませんでしたから、木綿が無ければ残された素材は、麻か絹かになります。絹は今でも高価ですから、麻が主体になると考えられますが、保温性に劣ります。

日本だって冬は寒いですから、保温性に優越する木綿重要は強かったと考えても良さそうです。そんなに木綿需要があるのなら、日本でも栽培すれば良さそうなものですが、これはいせ木綿 からですが、

我が国の気候風土に合う良質綿花の伝来は,応仁の乱終結の文明九年(1482)頃に中国から朝鮮半島を経て伝来した綿種である。

15世紀の後半になってようやく日本でも本格的な木綿栽培が可能になったようです。朝鮮半島で大量生産が可能になっていた木綿栽培が日本になかなか定着しなかったのは、まず木綿の特性があるとされます。

種でふえる作物でおもに1年生。アオイ科。栽培種にはアジア綿,陸地綿,海鳥綿等がある。 平均気温が25℃,降水量が1200mmの高温・多雨で,成熟期に多照となる地帯に適し,排水良好な砂壌土を好む。

当時の日本の農業事情に合わせると、

栽培はさほど難しくないようだが,八十八夜前後に畑に種を蒔き,肥料を施す。この五月初旬は,野良仕事・茶摘み・養蚕などで農家は忙しい。肥料も他の作物のような堆肥や米ぬかなど自給肥料でなく,干鰯や油粕等の金肥を与えなければ上等の綿花は咲かなかった。また,成熟期(九月ごろ)に雨天の多い日本では綿花の収穫の時と重なって困る。

木綿栽培を行うと他の農作業とガッチャンする事が多くて困ったのがまずあったようです。もう一つは木綿栽培にはしっかりした肥料が必要であったようで、これを入手するのが容易でなかったというのもあるようです。ただ個人的によく判らないのは、日本以外では肥料をどうしていたのだろうです。「干鰯や油粕等の金肥」となれば漁業がなければ入手できませんが、朝鮮半島もそうですし、ましてや中国となると「???」です。


朝鮮半島や中国の事はさておいて、日本で木綿栽培がなかなか広がらなかった理由をもう少し考えて見たいと思います。上記で示した日本の農業事情に割り込むのが当初問題があったはもちろんの理由でしょうが、木綿は商品作物であるというのも小さくなかったと考えています。食物と違い、木綿は布になって評価されます。

輸入品は綿花の質、布としての完成度が既に高かったと考えて良いと思います。さらに高級素材の地位も確立しています。これに対し、初期の国産品は量だけでなく質もかなり劣っていたとしても不思議ありません。栽培技術もこれは蓄積ですから、肥料の問題も含めて安定生産技術が確立するまで時間が必要です。それと綿花から糸を繰り、布に織る技術も必要です。

高級素材ですから、布であれば良いとか、安けりゃ買い手が付くという状況にならず、木綿を栽培しても商売として成立しない状況もあったんじゃないかと推測します。そういう状況ではなかなか木綿栽培が広がらなかったと考えています。

これは和泉木綿の歴史からですが、

永正7年(1510年)の三河の木綿が奈良の市場に現れると、やがて綿作の技術は和泉・河内などの畿内にも普及し始めました。天正・文禄・慶長期(1573〜1614年)には、木綿が庶民の衣料素材として麻にとってかわることになります。

ここの取り様ですが、国産木綿は当初、庶民に広がったと解釈することが出来ます。これは安価であったとも受け取れますが、高級品は輸入品、国産品は質が悪いので庶民に広がったとも受け取れない事はありません。もうひとつ、

元禄〜宝暦年間(1688〜1763年)には多くの絹織職人が木綿織りを始めるなどで木綿生産は急成長することになります。時代は下りますが、文化7年(1810年)には、泉州における木綿の年間総生産量は100万反に、さらに文久年間(1861〜1863年)には200万反にも達しています。

元禄以後の隆盛は、布の品質の向上もあるとは思いますが、鎖国の影響も大きいと見ています。朝鮮半島も中国も鎖国の対象ではありませんでしたが、鎖国時代以前と較べるとかなりの制限貿易になっています。貿易量が減ると、輸入品の減少も起こったと考えても良いんじゃないでしょうか。木綿需要自体は旺盛ですから、高級品の輸入品の供給が減れば、国産品での代用が決定的に行なわれたと見ます。


木綿栽培には金肥が必要としましたが、金肥とはなんじゃいになります。これは読んで字の如しで、金で買った肥料の事です。糞尿などからの自前で作れる肥料に対して、カネで買う肥料として金肥の言葉が出てきたようです。日本で主流を占めたのはまず干鰯(ほしか)であったようです。鰯は大量に取れるのですが、身は腐りやすいために、取っても食べきれない一面があります。そのためこれを干して保存食にしていたのですが、これを肥料に転じたようです。

干鰯は1反に付き二石七斗を必要とした記録もありますが、当時で金1分ほどもしたとされます。結構高額なもので、非常に粗い概算ですが、田1反とは米一石が取れる事になり、米一石は江戸時代を通じて、問屋価格でおおよそ一両であったとされます。4分で1両ですから、相当の肥料代です。それでも金肥の需要は高かったとされますから、金1分を肥料に投資しただけの効果があったのだと推測します。

干鰯は稲作にも使われましたが、木綿栽培にも使われます。ここでなんですが、木綿栽培の拡大がもたらしたとしてもよい、新たな高級金肥が登場する事になります。鰊の登場です。鰊は東北でも獲れるかもしれませんが、驚くほど獲れたのは北海道です。いくら獲れても腐らないうちに食べれる量は限界があるのですが、これを絞り粕にして肥料にするというが行われます。

とは言うものの北海道で鰊の肥料をいくら作ってもこれを運ばなければなりません。どこに運ぶかですが、これも当時の内国貿易の常識で、大阪に運び、そこで市を立てて売りさばく事になります。大阪以外でも販売可能なんですが、大阪に運ばないと大量の買い手が成立しないと言うのもありました。

北海道から大阪まで運ぶのが千石船です。千石船は建造費がおよそ千両とされる上に、寿命も10年ちょっとぐらいです。20年は無理であったと考えています。また北海道から大阪までの航海は、冬場は無理で、1年に1往復であったとされます。2往復するのはかなり大変だったようです。ただ1往復するだけで、新たな千石船を建造できるぐらいの収益があったともされます。

鰊の肥料効果は鰯をかなり上回ったとされますが、一方で輸送コストを考えると、その値段は非常に高かったと言えます。その高い鰊による金肥の需要が、当時の輸送力では無限にあったとされます。これは高価な鰊の肥料であっても、作物によっては鰯の肥料よりコスト・パフォーマンスが優れていたともされます。そういう代表格が木綿栽培であったようです。

つうか木綿栽培に鰊の肥料が非常に有効であったので、他の作物にも適用が広がったみたいな面もどうやらありそうです。

北海道と大阪の海上貿易を北前と呼び、北前航路に使用される千石船を北前船と呼びます。北前航路は大阪と江戸を結んだ菱垣廻船、樽廻船と並び、江戸期の海上交易の花形ですが、北前航路の主力商品が肥料であったと言うのも凄い話です。見方を変えれば、北海道から鰊を運び、鰊から木綿が生産され、木綿から衣服が作られて、今度は江戸に運ばれて売られる広域商業が形成されていたとも言えます。

最後は木綿からちょっと話が飛躍しそうになりましたが、今日は休題にさせて頂きます。