年忘れ歴史閑話

これで今年もブログ納めにします。今年は何度か休載を余儀なくされましたが、それでも何とか1年続いたと自分で自分を褒めています。先日も書きましたが、医療ブログの中でも医療崩壊系と言われるブログに勢いがなくなっているように感じています。これは少々の事では医師が既に驚かなくなった事、前提の常識が少なくともネット内には定着した事、論客の一部が主戦場をツイッターに移した事も影響していると考えています。

うちも医療崩壊系に分類される事が多いので、これからのブログの運用方針はどうするかについては課題です。実は今年の初めからの課題でもあったわけですが、結局のところ適当な解決策を見出せず、今年も暮れようとしています。ブログなんて最終的には書きたい事を書くのが一番だと思ってはいるのですが、少々アクセス数が増えたのが逆に枷になっている部分もあるとは感じています。

来年の事を言うと鬼に笑われますから、このブログをどうするかはここは忘れて、歴史閑話を年末の最後に書かせていただきます。テーマは「何故に平安奠都」でサブタイトルは「なぜ奈良は捨てられたか」です。年末最後に歴史閑話とは言えなぜ奈良がテーマなのかに、様々な関連性を考える方もおられるかも知れませんが、とにかく話を進めていきます。


第一部 政治説


日本書紀に従えば神武東征以来が始まりになりますが、考古学的には未だに諸説紛々です。当時の日本の文字記録が古事記日本書紀しか事実上なく、この両書も大和王権の始まりについては神話と化しています。これは不比等の創作説もありますが、当時の日本で文字を記録できる階級が非常に限定されており、日本書紀古事記が編纂された時代でも、神話や伝説となっていたと考えられます。

それでも現在の研究では2〜3世紀ぐらいには大和に有力勢力が台頭していたらしいぐらいは言えそうです。これも説なんですが、日本の巨大古墳は河内に多くあり、大和王権はまず河内に成立し、そこから大和に移ったのではないかの考え方もあるそうです。仁徳天皇陵も見たことがありますが、あれだけの大古墳を作るだけの勢力と言うか王権があった事だけは確かですから、「河内 → 大和」移動説もうなづけます。

仮に「河内 → 大和」移動説が正しいとして、何故に河内から大和に移動する必要があったかですが、なんとなく大和川の氾濫に手を焼いての移動の気がします。大和王権を特徴付けるものとして、稲作文化こそが王化みたいな面があります。河内平野は稲作に適してはいたかもしれませんが、一方で氾濫も多く、川の氾濫の少ない地を渇望したのが理由とも考えます。

河内のお隣の奈良は盆地であり、なおかつ奈良盆地の特徴は大きな川があんまり無い事があげられます。もちろん川が無いわけではありませんが、当時の土木技術で適当に制御しやすい川であり、大きな氾濫の危険性が少ない点を高く評価した様な気がしています。とにかく大和に王権が移ったのは、奈良時代の人間でさえ、遥か神代の昔からであったとしても良いと考えます。


日本の古代史の複雑なところは、天智天皇の政権掌握のあたりの記述が実に微妙なところがあると考えています。教科書的には藤原鎌足と組んで、蘇我入鹿の首を宮中で刎ね、蘇我氏を滅亡させて政権を掌握したとなっています。これも教科書的には引き続いて大化の改新を覚えておけば完璧だとも言えますが、天智天皇とは誰だの問題は付いて回ります。

実は蘇我氏を滅ぼした後の天智天皇の行動が個人的には「?」なのです。クーデターのヒーローですし、血統的にも、実力的にも申し分がないと思われるのですが、すぐには天皇位についていません。やったのは斉明天皇の弟の孝徳天皇を立て、自らは皇太子として実権を握るスタイルです。当時の天皇位は今と違い強大な権限を有していましたから、わざわざ傀儡を擁したのは何故だろうです。

様々な推測は成り立つのですが、ここはシンプルに孝徳天皇を立てざるを得なかったと考えます。クーデターの力の誇示として斉明天皇に譲位させるのは可能であっても、天智が即位するには大きな抵抗があったと見ます。反天智勢力を宥めるためには孝徳を天皇としておかざるを得なかったと考えています。

そうなると大化の改新はなんであったかになります。これは親天智勢力の拡大と、反天智勢力の弱体化を狙ったものとするのが良いでしょう。つまり反天智勢力の孝徳を傀儡天皇にしながら、大化の改新により親天智勢力の増強に努めたのが天智の政治であったように考えます。

でもってなのですが、親天智勢力、反天智勢力はどこにいたかです。天智が滅ぼした蘇我氏は大和の土着勢力と見ます。つまり反天智勢力とは大和系豪族であったと私は考えます。では親天智勢力はどこにいたかです。これを考える時に天智のその後の経歴を注目する必要があると思います。天智のターニングポイントは、白村江の敗戦じゃないでしょうか。

おそらく強権でもって政治を断行していた天智の権威が白村江の敗戦で揺らいだと考えています。権威が揺らぐと大和系豪族によるクーデターの危険性が高まります。なんと言っても天智もクーデターにより権力を奪取しているのですから、いつやり返されても不思議ありません。身の危険を感じた天智が都を遷したのは近江です。

つまり近江系豪族が親天智勢力の基盤であったと考えるのが妥当と見ます。


この人物も非常に謎の多い人物なのですが、私の見解ではクローズアップされたのは都が近江に遷ってからだと考えています。天智が天武に細心の気遣いを見せた記録は残っていますが、これは皇太弟であったからだと言うより、政治的に気を使わなければならない人物であったからだと見ています。

白村江の敗戦の影響は想像以上に大きく、天智は近江に逃げただけではまだ足らず、王権を保持するためには、それまで敵対姿勢で対処していた大和系豪族との妥協が必要になったと考えています。そのために大和系豪族の代表である天武を後継者にしたと考えます。天武のバックには大和系豪族がついていますから、天智にとっては取るに取れない目の上のタンコブ的な存在であったと思われます。

近江時代は親天智勢力の失地回復と、反天智勢力の政権奪回の思惑が交錯した時代と見ています。最終的には天智暗殺、壬申の乱と展開し、天武は大和に王権を再び移動させます。


奈良朝と桓武天皇

天武から九代を奈良朝と称しますが、これが変則の皇位継承の歴史になります。様々な理由があったにせよ、皇位継承は持統−草壁ラインの死守が奈良朝の歴史になります。つまり持統−草壁ライン以外の皇位継承を阻止し、阻止するために持統−草壁ラインの皇族と言うか皇位継承資格者を圧迫していく歴史です。

持統−草壁ラインの問題は男性天皇がそろいもそろってひ弱であった事です。このラインの男は

    草壁 → 文武 → 聖武
この3人になりますが、なんと聖武で男系が途絶えてしまう事になります。聖武の後は現在歴史上唯一の皇太女から天皇に即位した孝謙天皇になります。この人物も善悪定かならざるところがありますが、相当な女傑じゃなかったかと個人的には見ています。しかしいかに女傑であっても、夫が存在できない欠点がありました。天皇につり合う男性など日本に存在しなかったとしても良いかもしれませんし、諸豪族が牽制しすぎた結果もあると考えています。

とにもかくにも持統−草壁ラインどころか天武系皇族が死滅する事態に奈良朝は直面する事になります。そこで聖武天皇の娘を奥さんにしていた天智系の光仁天皇が即位する事になります。それでもって光仁天皇の次が桓武になるのですが、ここも微妙な綾があります。

光仁が天智系でありながら天皇に選ばれたのは妻が聖武天皇の娘の井上内親王であり、その子供である他戸親王光仁の次であると言う期待からです。ところが光仁井上内親王に即位後に嫌疑をかけて追いやり、井上内親王の子供も変死させています。つまり完全に天武系を抹殺して、天武系の血を引いていない桓武皇位に就く事になります。


この桓武が平安奠都を断行したのはあまりに有名ですが、ここまで長々と書いてきた天智天武の抗争説を考えるとチト妙なところがあります。とりあえず桓武は天武系皇族の巻き返しを心配する必要は乏しい事になります。理由は単純明快で、ライバルの天武系は自滅して消滅しています。それだけでなく、おそらくですが他の天智系も非常に衰退していたと考えます。それが奈良朝の政治の側面です。

桓武が平安奠都を決意した理由は教科書的には有名で、これはwikipediaからですが、

桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京を造営して遷都したが、これは天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図があったといわれる。

学校の試験のためならこれだけ覚えれば必要にして十分ですが、今日は閑話ですから飛躍します。

    天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力
本当に桓武はこの勢力を恐れたのでしょうか。いやもっと具体的に「貴族」とは誰かになるのも気になります。


奈良朝の豪族勢力の変遷を考える時に藤原氏を考える必要があります。藤原氏不比等が持統とタッグを組むことで台頭したと言っても良いと思います。藤原氏の奈良朝での仕事は持統−草壁ラインの保持です。保持のためには天智系皇族やその他の天武系皇族の圧迫ももちろんですが、ライン以外の皇族を担いでクーデターを起しそうな豪族の勢力削減も含まれていたはずです。

藤原氏以外の豪族の衰退は、藤原氏の肥大に直結し、後の平安朝ほどでは無いにしろ、桓武の時代には押しも押されぬ大勢力になっていたはずです。藤原氏の勢力がそれほどで無ければ、藤原氏こそが「天武天皇系の政権を支えてきた貴族」そのものですから、真っ先に叩き潰されなければならないはずです。藤原氏が潰されなかったのは、桓武が潰そうとしても逆にひねり潰せる勢力があったためと考えるのが妥当です。

桓武が気にする勢力は漠然たる諸豪族ではなく、藤原氏そのものであったと考えるべきだと思います。当時も非藤原氏勢力はいたとは思いますが、勢力的に比較にならず、藤原氏桓武打倒に立ち上がれば、その他も大勢力である藤原氏に流れてしまうだろうの観測は容易に立てられたと考えています。桓武が権力を揮うには、巨大な藤原氏をどう扱うかがテーマのすべてだったような気がします。

当時にどれほど分析されていたかは知る由もありませんが、藤原氏の政治姿勢には特徴があります。

  1. 自らが形式的なトップに立つ気が無い
  2. 欲しいのはNo.2で実質的な権力を持てればよい
藤原氏の権力志向は傀儡の権威あるトップの下のNo.2であるとすれば良いでしょうか。その上で、藤原氏と言っても一枚岩ではありません。内部に大きく4流があり、さらに枝分かれした勢力の連合体です。藤原氏全体への挑戦であれば団結して対抗しますが、そうでなければ血を見る同族抗争さえまったく厭わないところがあります。

桓武藤原氏対策は分断と統治であったように考えています。藤原氏にすれば長年担いで来た天武御輿が無くなった状態です。新しい天智御輿が藤原氏をどう扱うかに注目していたと考えます。桓武藤原氏に挑戦するようなら団結して対抗したでしょうが、桓武は微妙な秋波を送ったと想像しています。つまりこれからも藤原氏を重用するが、どの藤原氏を重用するかは検討中みたいな感じです。

そうなると藤原氏桓武への忠誠競争になります。早く桓武に取り入ったものがNo.2の地位を占められますし、逆に取り入れられなかったら、取り入った他の藤原氏から蹴落とされます。この辺の政治的呼吸を見切って、藤原氏への巧妙な等距離外交を行ったんじゃないかと考えています。結果的にどの藤原氏も際立って重用しなかったために、藤原氏同士は牽制しあって権力奪取まで動けなかったと考えています。


でもっての平安奠都

正確にはまず長岡京への遷都ですが、藤原氏を巧妙に政治的に丸め込んだ桓武の次のデモンストレーションであった気がします。遷都するには莫大な費用が必要です。また当時の人間にとっても、神代の時代から王権があった大和から離れるのは抵抗があったはずです。そういう抵抗のある政治課題を故意に提示し、桓武の意向にどれだけ藤原氏が賛同するかの踏み絵政策と見ることは出来ないでしょうか。

会議で桓武が遷都を諮った時に、藤原諸氏として内心は「嫌だ」と考える者がいても不思議ありません。ただ問題は他の有力藤原氏です。桓武の意向に反対意見を表明した時に他の藤原氏が賛同してくれれば良いですが、逆に桓武の意向を支持されてしまえば、政治的に追い落とされる危険性が高くなります。むしろ積極的に桓武の意向を支持したほうが政治的得点を稼げる計算も成立します。

かくして桓武独裁の完成の象徴として平安奠都が断行されたと私は考えます。


第二部 技術説


古代の都市建設


政治説だけで平安奠都を説明するには実は無理があります。現実として遷都しなければならない理由もきっとあったと考えています。第二部はそちらの検証です。日本の古代都市建設のモデルは言うまでも無く長安です。唐の時代の中国は、史上でも最盛期とする人も多い時代です。当時の日本の感覚でも、文化・文明と言えば中国しかなく、中国から文明を必死になって輸入していた時代です。

遣唐使は当たり前ですが、唐の首都長安を訪れます。当時の長安は100万の大都会であったとされ、中国史上でも稀なぐらい国際交流が盛んな時代でした。当時の長安の華やかさは文書や詩に数え切れないぐらい記録されていますが、これを見た日本人は驚嘆の思いであったと考えられます。

大和王権時代の日本の首都はとりあえず宮殿はあったようです。宮殿と言っても、飛鳥板蓋宮の言葉で象徴されるように、屋根を厚めの板で葺いた事が立派だと言うぐらいですから、壮大な甍の長安の大宮殿を見た人物にはやりきれなかったかもしれません。また宮はあっても、周囲の都市は自然発生的なものであったと推測されます。

政府たる宮殿の周囲に、宮殿に仕える者の家や、宮殿や役人に必要な物品を供給する商店風のものが集積する程度でなかったかと思われます。想像すれば、宮殿を中心とした1万人程度の雑多な集落みたいな感じと言えばよいでしょうか。

それでも実際に長安を見た者、また長安について書かれた文物を見れば、日本でも長安風の都市を建設してみたいと言う野望が出てきてもおかしくありません。どうやら当時は宮殿や豪族の邸宅より寺院建設の方が先行していたようで、基本的な建設技術はあったと考えても良さそうです。そしてついに日本でも長安風の都市建設が行われることになります。



日本最初の条坊制による都市建設は太宰府であるという説もあるそうですが、首都として建設されたのは藤原京が最初として良いでしょう。藤原京も近年まで、平城京を一回りぐらい小さくした規模と考えられえいましたが、最近の発掘調査により、平城京どころか平安京さえ上回る巨大な都市建設であった事が判ってきています。

都市の規模と言う事になると、私は漠然と

こう思っていましたが、都市部の面積だけで言えばこうなるそうです。もう一つ、平城京平安京では大極殿の位置が都の北にありますが、藤原京では真ん中に位置しています。長安は北に位置していますが、何か思想的なものでもあったのかもしれませんし、それまでの宮がそういう位置づけであったので、藤原京では日本式を採用したのかもしれません。

それだけ壮大な藤原京ですが16年ほどで平城京に遷都しています。素直に何故だろうと思ってしまうのですが、一つは当時の建築物の寿命の関係もあったとされます。藤原京以前の宮の基本的な考え方は、どうやら一代限りのものがあったような気配があります。伊勢神宮遷宮みたいなもので、20年もすれば宮は古びますから、修理するより新たに新築する方針があったような気がしています。

藤原京の場合は、それまでの宮に較べたら遥かに本格的な建築物であったと推測はしています。本格的な分だけ費用もかかっているはずですから、16年で放棄するのはチト不可解です。ここは藤原京を放棄したというより、放棄せざるを得ない技術的な問題が発生したと考えます。

藤原京の人口は諸説ありますが3万人程度であったとされます。もう少し多いと言う説もありますが、その程度でも日本最初の人口密集都市であったと考えます。藤原京は日本初と言っても良い都市建設なんですが、しょせんは見よう見まねであったがために、都市計画上の不備が露呈したんじゃないかと考えています。

3万人であっても集積すれば、ゴミ問題一つとっても深刻になりますし、下水関係も考慮しておかないと悪臭漂う都市になります。飲料水の確保も重要になります。つまり作ってはみたものの、都市に相応しい人口が集まり始めると、ニッチもサッチもいかなくなる現実に直面したと考えます。この藤原京の問題解決のために平城京に遷都したと考えます。



平城京は74年間続きます。藤原京の教訓を活かした成果だと思うのですが、それでも問題は噴出してきたとされます。平城京の人口はこれも諸説ありますが、10万人を越えたとされます。これに周辺人口も合わせると15万人程度になったと言う説もあります。藤原京の3倍以上の大都市になったのは良いのですが、そのためか新たな問題が出てきたようです。

どこが平城京の弱点になったかですが、次に遷都を試みた長岡京を見れば問題点がわかるとされます。長岡京は正直なところ狭隘の地にあり、何故に平城京から遷都しないといけないかの疑問が素直に湧くところです。それでも長岡を選んだ最大のメリットは水利と水運にあったとされます。

奈良県は上述した通り、とくに北部では大きな川がないところです。川は飲料水の供給源にもなり、下水にもなりますが、もう一つ水運の機能も担っています。この水利と水運機能の利便性を長岡は高く評価され、都として選定されたとなっています。よほど平城京では水利と水運が有効に機能しないことに困り果てていた状況が推測されます。

日常生活的には水不足が深刻化していたとされます。水不足は飲料水もですが下水機能としても不足し、悪臭もそうでしょうが、衛生上の問題としても大きかったとの説があります。水は衛生にもつながり、個人の健康が個人の体力にほぼ依存している古代では、都市での疫病対策として深刻化していたとも言われています。

奈良時代の人々が衛生と水について現在ほどの知識が無かったとしても、悪臭と疫病は直感的に連動するでしょうし、とりあえず臭い都に辟易するだけでも新都建設のキッカケになってもおかしくありません。

水運ですが、大和の米の取れ高は平安時代で10万石程度となっています。奈良時代はもう少し少なかったかもしれませんが、10万石の米とは、単純には10万人の人口を養う量の米と考えて良いかと思います。平城京に住む人間のかなりの部分が、農民ではなく、他の職業により米を食う人であったと考えます。米以外の食糧も含めて、大和以外からかなり運び込まなければならなかったとするのが自然です。

当時の運搬手段としては、陸路の輸送量は限界があり、大量輸送を行うには水運が重視されています。都市機能を維持するための物品の輸送が、平城京では限界に達していた可能性があります。平城京で困り果てていた桓武が、他の点をすべて目を瞑ってまで水利・水運機能のメリット重視で長岡を選んだぐらいの大問題であったかもしれません。



長岡京の面積はまだ調査中のようですが、山と川に挟まれた地で藤原京の様に「実は大きかった」みたいな事はなさそうです。それでもかなりの規模はあったようです。配置的には北に宮殿を置き、宮殿から朱雀大路が真南に作られ、左右に都市が作られる形式です。平城京平安京との大きな違いは、都市の中に自然の川が流れるところです。都市の中だけではなく、すぐ近傍にも大きな川があり、いかに水利・水運を重視していたかが窺えます。

これはまだ説になるようですが、豊富な水利を活かして、かなり清潔な都市設計であったとされます。ここまで水にこだわった土地を選定した理由の裏返しが、平城京の欠点であったと容易に推測できます。とにかく水が豊富なところを新しい都の絶対条件にしたと考えられます。

しかし水が豊富である事が長岡京の重大な欠点になりました。当時の土木技術は藤原京平城京と経験を積んでいますが、基本的に水利に関してはそれほど配慮を払う土地ではありませんでした。ここで言う水利とは河川管理の技術です。水さえ豊富ならOKとして選定された長岡京は、水のメリットの裏返しとして洪水に悩まされる事になったと言われています。

都のど真ん中を流れる川の制御がどうにも出来なかったようです。平城京で不足していた事に困り抜いていた水が、今度は洪水問題として当時の技術では解決困難な問題として立ち塞がる事になったと考えられます。それでも10年ほどは工事が行われていましたし、宮殿建築に関しては難波京から移築が積極的に行われ、相当規模まで整備されたともされています。


長岡京は水運・水利のメリットは高かったですが、一方で水害への弱点がありました。さらにこれに政治的陰謀も起こったようで、平安京にさらに遷都を行います。これはwikipediaからですが、桓武天皇の言葉として、

日本紀略には「葛野の地は山や川が麗しく四方の国の人が集まるのに交通や水運の便が良いところだ」

平安京の評価も水運を重視している事が判ります。さらにこれもwikipediaからですが、

都の傍の川沿いには、淀津や大井津などの港を整備した。これらの港を全国から物資を集める中継基地にして、そこから都に物資を運び込んだ。運ばれた物資は都の中にある大きな二つの市(東市、西市)に送り、人々に供給される。このように食料や物資を安定供給できる仕組みを整え、人口増加に対応できるようにした。

これは逆に言えば、平城京では機能しなかった点であると考える事が出来ます。平安京の人口も平安時代なら平城京とさほど変わりません。さほど変わらない人口ですが、平安京では基本的にこれを養う能力を保持しています。一方で平城京は増大した人口を「どうしようもない」状態であったと考えても良いと思われます。

平安京の建設には長岡京の教訓も活かされているようです。長岡京の弱点は水害なのですが、これもwikipediaからですが、

長岡京で住民を苦しめた洪水への対策も講じ、都の中に自然の川がない代わりに東西にそれぞれ、水量の調整ができる人工の「堀川」(現在の堀川と西堀川)をつくり、水の供給を確保しながら洪水を抑えようとした。

河川は都の外周を巡らすだけにし、都市の中には人口の川を流すだけにして水害対策とした様子が窺えます。平安京は、

  1. 平城京で苦しんだ水利・水運を解消した
  2. 長岡京で苦しめられた水害対策
平城京長岡京で経験した弱点を解消した新しい首都建設であったと見ることは可能です。


第三部 まとめ


桓武天皇
どうしても古代の遷都は政治的側面を重視しますし、実際にもそれは大きかったのでしょうが、地理的に奈良は京都にはなれなかった気がしています。平城京が抱えていた都市問題は、たとえ桓武でなくとも誰かが対応しなければならず、たまたま桓武が天智系天武系の皇統変更期に遷都したため、政治的側面ばかりが強調されますが、実は現実的側面が強かった気もしています。

ですから平城京の遷都問題も「どこに」は問題であったでしょうが、平城京では「これ以上は無理だ」の共通認識が既に共有されていた可能性はあります。もちろん桓武長岡京とか平安京を提案した事について、桓武桓武以外も天智系の勢力圏への遷都を政治的に頭に描いたとは思いますが、とはいえ平城京では行き詰っていますから、大反対するほどの理由が出てこなかったのかもしれません。

一つ不思議なのは、桓武の遷都候補に近江が上がらなかった事です。近江は先祖たる天智が都を置いたところであり、水運重視なら琵琶湖がドカンと控えています。瀬戸内海からの水運を考えても、淀川利用なら平安京とさほど変わらないとも言えますし、東海道や北国街道の交通の便も良いところです。もちろん当時でも有数の穀倉地帯であるのも魅力的なところです。

桓武が近江を選ばなかったのは、察するに2つあります。天智系のお膝元のイメージの強い近江はさすがに政治的に配慮したのと、先祖たる天智や大友皇子の敗亡の地ですから、縁起が悪いと考えたのかもしれません。縁起と言えば、平城京も天武系衰亡の地ですから、自らが天智系中興の祖の意識が高かったと伝えられる桓武は、新たな地で自分の王朝の栄を心に期したのかもしれません。

桓武の選んだ平城京平安京は曲折がありながらも現在も健在です。都が遷るのは遥か明治まで下る事になります。結果論かもしれませんが、それだけ確かな土地選定、都市設計であったと言えそうな気がします。藤原京も、平城京も、長岡京も、平安京もモデルにした唐の長安が滅んでも健在ですから、千年の都に相応しい王城の地であったとしても良さそうです。


今年はこれで休題です。皆様良いお年をお迎え下さい。