奈良の白昼夢

ある仕事を行うのに必要な人員はシチュエーションによっては比較的単純に割り出されます。たとえば24時間365日の営業が必要になり、現場には常に1人ずつの人員が必要であるならどうかを考えてみます。労基法的要素を考慮に入れないといけませんから、1日の労働時間の上限は8時間になり、3交代が必要になります。細かい例外規定の適用は煩雑なので置いておきます。

そうなれば8時間のコマ毎に1人で合計3人で足りるかといえばそうはいきません。労働者には休日が必要です。さらに1日の上限は8時間ですが、1週間の上限は40時間です。8時間ずつ働けば1人につき週に5回、つまり5日しか働かす事は出来ません。ここも単純に考えると土日を担当するスタッフが3人では足りなくなります。

土日には8時間コマが6回ありますから、これをさらなる人員で埋めなければなりません。1人の週間のコマ数の上限が5コマですから、1人チョット必要になります。人間は小数点以下で割れませんから、2人は必要です。これに祝日の要素も入りますから、最低5人はやはり必要となります。


ここでパート毎に人数の必要性に差が出ればどうかです。夜間や土日は1人ずつで良いとしても、平日日勤は5人欲しい場合です。この場合の算数は単純で、平日日勤だけの増加ですから、1人増やすのに必要なスタッフ数は、平日日勤の5コマをカバーすればよいわけですから、1人でOKになります。5人体制で昼間に既に1人配備していますから、平日日勤5人体制のためにはあと4人、つまり9人いれば可能になります。

計算が大雑把な部分があるのは御容赦頂くとして、9人のスタッフを確保してようやく、

  • 平日日勤5人体制
  • 夜間・休日2人体制
これが可能になるわけです。人数計算の細かい誤差はあるかもしれませんが、日本の労働基準ではだいたいそうなります。


さてですが、この計算ですが、夜間休日は1人体制であっても、実質として殆んどはヒマな場合の特例があります。労基法の勤務はおおまかに言って二つの概念があります。

  • 通常勤務
  • 宿直勤務
用語の正確性についてもお目こぼし頂きたいのですが、通常勤務とは普通の勤務体制と言うか、出勤してバリバリ働いてもらう時間です。では宿直勤務とは何かと言えば、通常勤務ではなく留守番程度の勤務を指します。業務形態により、通常勤務は不要だが、留守番程度は常に置いておく必要性がある職種が存在するからです。

この宿直勤務は労基法上の一種の特例になっており、労基署に申請の上で許可をもらう必要があります。当たり前ですが、労働量の前提は、

    宿直勤務 << 通常勤務
この前提を守ってもらうために、許可された宿直勤務では、
  1. 原則として通常勤務は行わない。原則外も通達により細かく規定
  2. 手当は通常勤務の1/3以上であればOK
  3. いわゆる労働時間にカウントされない
24時間365日体制の算数に戻りますが、日勤5人、夜間・休日1人体制で、平日日勤以外に宿直勤務を取り入れたらどうなるかです。本当は宿直回数の上限の問題がからむのですが、大雑把に言えば5人で可能になります。結果としてどうなるかですが、

人数 平日日勤 夜間休日
人数 勤務体制 人数 勤務体制
9人体制 5人 通常勤務 1人 通常勤務
5人体制 5人 通常勤務 1人 宿直勤務


通常勤務だけなら9人が必要であるのに、宿直勤務を取り入れるとなんと5人で済みます。9人体制であっても、5人体制であっても職場にいる人数は同じです。ただし
    宿直勤務では通常勤務を行わない
これが宿直時間帯の鉄則です。この条件の下に労基署から特例許可をもらっているからです。ここである経営者がこの宿直許可の悪用を考えました。この経営者も24時間365日体制の営業をしたいと考えたのですが、まともにやれば9人が必要です。人数をそろえる気も薄く、たとえそろっても人件費がかさむだけなので、宿直時間に通常勤務をやらせれば経費節減になるうまい方法と考えたわけです。

宿直勤務時間に通常勤務をやらせれば、

  1. 手当は通常勤務の1/3で済む
  2. 過労死云々の労働時間にカウントされない
経営者にとってこんな美味しい話はありません。経営者にとって美味しいですが、従業員にとっては過酷な職場になります。そしてついに従業員側がたまりかねて裁判に訴える事になります。訴訟の場に出てしまえば経営者側の悪行は一目瞭然となります。宿直勤務として値切っていた手当はすべて通常勤務として支払わなければならない判決が下ります。

これで一件落着かと言えば、そうではありません。経営者はそれでも自分が正しいと言い張ります。従業員側がなんと言おうと「あれは宿直勤務だ」と最高裁まで頑張られます。それだけでなく屁理屈をひねり出してきます。

    うちの業界では宿直を置かなければならないと定められており、そのために宿直勤務をさせているのだから文句あっか!
経営者の業界の決まりに「たまたま」平日日勤以外の勤務の事を「宿直」と表現してありました。これをとらえて、「業界の宿直 = 労基法の宿直」という屁理屈を捏ね上げたわけです。これは曲解の極みであって、その業界の宿直を労基法の宿直で行わなければならない決まりはどこにも存在しません。名称は同じ「宿直」ですが、まったく違う概念であると言う事です。もちろん労基法の宿直勤務の規定内であるなら労基法の宿直でも構いませんが、実態が通常勤務であれば労基法の宿直は認められません。

その業界の規定では、日勤以外にも宿直を置くと定めているだけで、この宿直者に通常勤務をさせたいのなら交代勤務での通常勤務が必要になります。ちなみに交代勤務で通常勤務を行っても、その業界の規定では間違い無く宿直になります。上告するにあたり、その経営者は真顔で「労基法の宿直と、うちの業界の規定の宿直の概念が曖昧である」と力説されていましたが、笑止以外の何者でもありません。

さらに屁理屈は爆発します。

    うちの業界も人手不足だから、宿直勤務で通常勤務を行っても良い特例解釈を作れ!
自分が行なっている悪用を公式に認定せよと主張しておられます。ちなみにこの経営者は東大法学部卒業で、行政学修士を持っておられます。労基法は労働者全般の汎用法であり、細かい例外規定は存在するにしても全労働者に基本的に平等に存在します。例外規定も殆んどは、労働者保護の視点から定められており、経営者の都合で労働強化を容認させるものは非常に限定的に運用されています。

この経営者の楽しいところは、自分の従業員には安価な長時間労働の特例解釈を求める一方で、

労働時間の制約というのは、我々と同じように、何時間以上労働してはいけないとなっています

誰がどう読んでも「我々」にはこの経営者自身を含めています。自分は労基法の枠内にいる事を宣言した上で、

労働基準行政の分野では個別労働条件の確定というのは難しい分野だということは承知しています

自分の従業員の労働条件は別だと主張されているわけです。望まれる労働条件とは、

    疲れて仕事してはいけないとなれば、閉院とか休業とかということがどんどん出てくるわけです
自分の従業員は「たかが疲れている」ぐらいは、仕事が出来ない言い訳にもならないとしています。ここの「疲れている」は労基法の枠内の労働時間で疲れているのではなく、宿直時間を通常時間に悪用されての長時間・低賃金の労働に「疲れている」です。経営者に課せられている安全配慮義務はどこに行ったのだろうと思います。



実情と建前は必ずしも一致しない事はこの世の中に多々あります。労基法の完全施行が理想である事は誰も異論はありませんが、それが必ずしも履行されない現実は医療界だけでなく広く存在します。そのために経営者と従業員は職場を守るために現実的な妥協を行ないます。これは職場を守るという一点に置いての実情での妥協です。

ただ妥協とは労基法との乖離を意味します。重要な点は乖離している部分を経営者は丸め込む手腕が必要されるわけです。それぐらいの現実があるのは誰だって知っています。この経営者が真顔で主張する、

三六協定を締結していればいいのか、サービス残業と言われるようなものなのか、手当で済むのか、勤務時間だから時間外勤務手当を払うべきかというのはあらゆる職場であるものです

これは訴訟以前の経営者と労働者の現実的な妥協の部分で行なわれるものであり、それを訴訟と言う大建前の場で公然と主張する神経が理解不能です。労働法規は労働行政の基本精神として完全実施をひたすら行政としても推進しています。本気度については色々解釈があるものの、公式の場に立てば法の遵守しか求められません。

この経営者が司法に求めているのは、現実の場でやむなく行なわれている妥協を公式のものとして「認めるのが当然だ」になります。私は何回読んでも白昼夢を見ている気分になります。逃亡の恐れが低い、無罪を主張する者(結果としても無罪)を逮捕したら表彰される奥州のある県に引き続いて、禁足地がまた増えた印象です。奥州の県は遠いので、そうそうは訪れる必要はありませんが、この県は近いので少々不便になりそうです。