科学はホメオパシーを否定できない

私が独自に唱えたのではなく情報学ブログ様の科学はホメオパシーを否定できない からです。主張の内容についてはリンク先を是非確認してください。今日はちょっと違う視点から考えてみます。


ホメオパシー創始者であるハーネマンの理論は、現代医学における血清療法に通じる部分はあると考えます。もちろん現在の血清療法とは異なりますが、正常に発展していれば、先駆者の1人として医学史に名を残したかもしれないぐらいの意味合いです。しかしホメオパシーは正常には発達しなかったと考えています。発達と言うより、そこで止まってしまったとする方が良さそうです。

ハーネマンオルガノンを出版した時代はナポレオンがロシア遠征を行なっている時です。当時の医療は解剖学こそ発達していましたが、とくに内科的治療については原始的な時代です。日本でも同じ頃に西洋医学への関心が高まり、シーボルトやポンペが伝えましたが、医療者にとってもっとも即物的に欲しい内科的治療法については、期待したほどのものはなかったのが現実です。

時代劇でしばしば登場する小道具である「南蛮渡来の妙薬」は世界中、どこを探してもなかったとも言えます。

19世紀の内科的治療がどんなものかと言えば、瀉血とか、水銀療法とか、アヘンとかとです。これだけではないにしろ、まだ病原菌の考え方までたどりつくにはコッホやパスツールの誕生を待たねばならず、正直なところ治療しない方がマシと言えるケースも多く、漢方の方がまだ薬効的には遥かに有効であったとしても良いかもしれません。

当時の治療水準が「かえって悪くする」レベルでしたから、むしろ何もしない砂糖粒のレメディの方が効果があったのかもしれません。ですから当時の治療薬によって悪化していた患者が、ホメオパシーのレメディに頼る事により、治療薬による悪化から救われ、本来の自然治癒力で回復したケースも少なくなかったじゃないかと推測します。

一時的であるにせよ、患者を悪化させる当時の医療より、何もしないホメオパシーの方が効果としては優れていると見なされても不思議ありませんし、ホメオパシー自体もそう自負していたとしても、これもまた不思議ありません。さらに言えば、この時の記憶が今に続くホメオパシーの現代医学の否定、自らの優越性の誇示の元なのかもしれません。


しかし医療は19世紀後半から、さらに20世紀にかけて飛躍的な進歩を遂げます。たとえればライト兄弟1903年に初飛行してから、わずか66年後に月に人類が着陸するぐらいの進化です。一方でホメオパシーは19世紀から動かない事になります。動かない理由は創始者ハーネマンの理論が絶対視され、これが教典化し、教条化したからだと考えています。

科学の進歩は一面では、既成の理論への挑戦と言う部分があります。ある理論が確立した様にみえても、どこかに矛盾や不都合な点があるとすれば、徹底的に検証され、より合理的な新たな理論が確立していきます。どんな理論であっても鵜呑みにしないと言うのが基本的な科学者の態度です。そこに切磋琢磨が生まれ、進歩が生まれるのですが、一つの理論が教典化され教条化されると発達は理論内に留まる畸形的なものになります。

象徴的なのがレメディで、おそらく当初は

    本来の毒性がなくなるまで十分に薄める
こうであったと考えています。ところが後継者たちは薄める理論のみを畸形的に発達させ、
    薄めれば薄めるほど効果が上る
こう変化したと考えます。これは変化なんですが、ホメオパシー的には教典の修正が伴っていますから、「薄めた方が効果がある」は否定してはならない教条になります。そこについての議論や思考は禁忌となるとすれば良いでしょうか。

ここでなんですが、ホメオパシーは現代科学に妙に気を使います。どう言えば良いのでしょうか、現代科学のお墨付をなんとかして取り付けたいの生理的な欲求です。あくまでも「たぶん」なんですが、ホメオパシーに取って不幸な事に、希釈も度が過ぎれば原液の成分は存在しない事が明らかになります。そしてさらに不幸な事にホメオパシーの希釈は、原液が存在しないレベルのさらに10の30乗倍程度以上は希釈しています。

ホメオパシーとして何が困るかですが、

  1. 薄めるほど効く理論は教条化され否定してはならない
  2. しかし薄めた希釈液には原液は何も残っていない
この何も残っていない希釈液が「効果がある」と言う理論を構築しなければなりません。そこで注目されたのがこれも「たぶん」ですが、
    希釈する時には良く振る
この「良く振る」部分の理論化です。振る事により何かが起こるを理論付けたと考えています。ここで過度の希釈により原液は存在しなくなるの否定に走らなかった理由は不明ですが、ここは現代科学の裏付けが欲しい性質だと理解する事にします。

希釈過程で振る事の理論付けは、

  1. 原液はホメオパシー理論から不要であり、ゼロにする事により毒物であっても安全性が確保される
  2. 一方で振る事により、その原液のパターンのみが水に記憶され効果を発揮する
この「パターン」と言う表現が理解し難いのですが、ホメオパシーでは何の疑いも無く力説されます。現代科学で言う抽出物とは別の概念と推測しますが、とにかく理論化され教典は修正され教条化され絶対化されます。



上記したお話はあくまでも推測ですが、肝心なのは思考過程ではなく理論化され、さらにそれが教典となり、教条化され批判を許さない点になる事です。科学でレメディを否定するのは容易で、

  • 10のマイナス60乗倍の希釈では原液は残らず薬理学効果は無である
  • いくら振ったところで水は何も記憶せず、タダの水である
ただの水がなんらかの独自作用を持ってしまえば、現代科学は根こそぎ否定されます。ですから二重盲検法以前の問題で終了です。ところがホメオパシーに取っては、水の記憶は理屈でなく教典であり教条であり、誰もこれを否定してはならないものになります。つうか、否定してしまえば現代のホメオパシー体系は跡形もなくなります。

教典の護持は絶対命題ですから、例の反論が出てきます。

    研究もせずに、自分の持つ価値観、自分が学んだ範囲でのみ考えて結論を出し、頭から否定するというのは、科学者として頭が固すぎるといわざるを得ません。
もっと簡単に言えば「現代科学では水の記憶は証明できない」ぐらいでしょうか。それなら「いくら希釈しても残る」の主張も行なっていたら良さそうなものですが、おそらく歴史的な経緯の中でそれは受け入れてしまったのだろうと推測しています。現代科学では証明できないの補強には、現代科学の異端意見を援用したり、結果として有効な経験例が多数あるとの主張を行います。

そこまで言うのならと二重盲検法を持ち出すのは無駄です。どんな結果が出ようが、実験モデル自体に問題があるとの難癖は無限につけられますし、条件をホメオパシー有利に設定した検証結果が出れば、これは速やかに教典として取り入れます。一種のチェリーピッキングですが、検証結果を受け入れる気が全く無い相手に無駄と言う事です。

もう少し言えば、二重盲検法では真のホメオパシーの効果は測定できないぐらいの主張は幾らでも積み上げられます。上述した様に、二重盲検法であっても、設定を恣意的に行なえばホメオパシー有効の結論を出すのは不可能ではありませんし、一つでも出れば、他の二重盲検法の検証は「間違いである」「陰謀である」との主張は無限に続けられると言う事です。

科学的見地で言えば、タダの水であると立証できた時点で証明は終っており、これを二重盲検法を使って検証する事自体が無駄です。科学としては「タタの水に、現代科学では証明できない『何か』がある」と言う主張は聞く必要がそもそも無いという事です。


私に言わせれば科学はホメオパシーを否定できないのではなく、

    科学は宗教を否定できない
たとえれば、お札や御神水の効果は科学で否定できないのと同じです。いくら祈ろうが、謂れがあろうと、ただの紙なり、水に過ぎないのは科学として証明は容易ですが、「効果があった経験談はテンコモリある」と主張されれば、これを否定するのは非常に困難であるのと同じと考えています。ですから科学は宗教の否定なんて分野には手を出しません。宗教と科学が相容れないのは説明は不要と存じます。

ホメオパシーの扱いが厄介なのは自らを科学であるとしているところです。19世紀に出来た頃は十分に科学であったかもしれませんが、その後200年の間に宗教に変質していると考えるのが妥当です。宗教に変わった何よりの証拠が、科学の検証を受け入れられなくなった事だと考えています。受け入れるとは、科学的検証で否定された部分を認めると言う事です。

科学で否定された「何者」かに価値を見出し、これを無批判に信仰するのは宗教です。宗教であれば科学は口出ししませんし、信教の自由は尊びます。ホメオパシーに対する最大の違和感は、科学と自称しているにも関らず、科学の検証を受け入れない体質と言っても良いでしょう。


それでも宗教でない可能性も残ってはいます。現代科学は世界中を覆い尽くしているような巨大な体系ではありますが、これとは別系統の科学理論を立て、信奉している方々も少なくありません。そういう方々も現代科学の検証を受け付けません。ただ受け付けない代わりに無視されますし、現代科学の体系には入る事もできません。

なぜ現代科学の体系に入れないかと言うと、別系統であるため整合性を保てないからです。別系統の科学は現代科学の特定の部分を否定して成立しているため、否定された部分の運用で混乱が生じるからです。ホメオパシーで端的に言えば、水が記憶されては現代科学の体系が保てないため、水が記憶しない事で体系が成り立っていると言う事です。

異端の科学が主流の科学に取って代わるためには、これを打ち負かすだけの成果と実績が必要です。科学史を紐解けば、当時は異端と見なされた科学が主流となった事実は確かにあります。ただその殆んどは、当時の主流の科学が過去の教典を絶対化し、思想が固陋化し、教条化していたのを打ち負かしたもので、その逆は記憶にありません。ホメオパシーにそんな瑞々しい発展性があるかと言われれば、「さあ?」としか思えません。


結論と言うほどのものではありませんが、科学がホメオパシーを否定できないのは、

  1. ホメオパシーは科学でなく宗教である
  2. ホメオパシーは科学であっても異端の科学(それも相当なぐらい)である

どちらも共通性がありまして、宗教なら教典、異端の科学なら理論・原理の経典化、教条化、絶対化があり、無条件の確信で理論体系の基礎に置いています。否定されてはならないものの位置付けですから、科学で否定しても「それは科学が間違っている」の論法を持ち出されますから、否定はできない事になります。

科学が否定できるのは、科学に親和性があるものに限られ、少なくとも科学の土俵の上に乗ることが可能な物になります。科学の土俵に乗るとは、科学の検証結果を受け入れると言う事であり、受け入れる気がない者を相手に、いくら科学が頑張ってもこれを否定することはできないと言う事と私は考えます。

しょせんは科学の否定と言っても、あくまでも科学常識・科学知識を前提にしての理屈ですから、その前提を否定する者には通用するはずがないとしても良いと考えます。

ここで誤解を招かない様に言っておきますが、科学がホメオパシーを否定できないのは、あくまでもホメオパシーを強く信仰している方々に対してのみです。ホメオパシーを信じている方々とは、ホメオパシー理論を無批判に受け入れ、絶対化されている方たちです。それ以外の方々は、手品の種がばれたのと同じで、正体がタダの水とわかれば話は終わりです。

ホメオパシーを否定したいのなら、もう少し他のアプローチが必要です。そのヒントみたいなものは明日書く予定ですが、これは予定であって決定ではありませんから、そこのところはよろしくお願いします。