日曜閑話36

7/21付神戸新聞より、

三木合戦で大量殺りくか 秀吉の助命説覆す報告書

 三木城主・別所長治の自害によって羽柴(豊臣)秀吉が城兵たちの命を助けたとされてきた「三木合戦」は、実は長治の命ごいがかなわず、大量殺りくがあった可能性が高いとの見解を、大手前大学(西宮市)の小林基伸准教授(56)が発表した。三木市教委刊行の「三木城跡及び付城跡群総合調査報告書」で明らかにしたもので、長治の自害と秀吉による城兵の助命は地元で美談として伝えられてきただけに、新説は波紋を広げそうだ。(藤森恵一郎)

 小林准教授によると、これまでの定説は史料「播州御征伐之事」などの記述に基づくもの。しかし、「播州‐」は秀吉の徳を顕彰・美化するため後代に書かれたとみられ、疑問が残る部分があるという。

 小林准教授は、秀吉本人が書状で三木城の落城後、ことごとく首をはねたと述べていることと、織田方の武将宇喜多直家が秀吉の使者から「切腹した者以外を一所に追い寄せ、番を付け置いて悉(ことごと)く殺す」との報告を受けていることに注目。秀吉の誇張を差し引いても「通説的理解とはほど遠い」とみた。

 さらに天正8(1580)年4月に、織田勢と敵対する石山本願寺の僧顕如が「(織田方への)抵抗を続ければ、最後には有岡や三木同然になることはあきらか」と述べ、敗戦で六百数十人が処刑された有岡城伊丹市)の例を三木城と同列に扱っており、「ほかの全員が助命されたのであれば、三木城の結末は有岡城に匹敵するほどの凄惨(せいさん)なものとして記憶されたか」と疑問視。三木合戦の最終段階で「大量殺りくがあった可能性が高い」と結論付けた。

 三木市教委文化スポーツ振興課は「市民にとってはショッキングな報告だが、これまでの三木合戦像の再検討を進める必要がある」としている。報告書は市教委で販売中。3千円。市教委文化スポーツ振興課TEL0794・82・2000(三木市役所代表)

【三木合戦】1578(天正6)年〜1580年、織田信長から毛利氏討伐を命ぜられた秀吉軍と三木城主・別所長治軍が争った合戦。秀吉は「干殺し」とも称される兵糧攻めで、籠城(ろうじょう)した別所方を苦しめた。秀吉は長治の自害によって城兵の命を助けたと伝えられる。

本当は三千円也の報告書を手に入れ、熟読してから反論しなければならないのですが、販売拠点の性質からして休日は休みでしょうし、この猛暑の中、仕事を休んでまで出かける気になりません。電話で郵送と言う手段もあるかもしれませんが、とりあえず手許に無いので、この記事の情報のみで考えます。ですから報告書の中で既に検証されているかもしれませんが、閑話ですので勝手にヨシとします。


反論1 口碑がない

今でこそ三木は寂れたローカルタウンですが、三木合戦当時は東播磨の中心地でした。領主である別所氏の版図は地元の伝承では27万石と伝えられ、これは播磨の半分ぐらいを占めます。別所氏の治世が飛び切りの善政であったかどうかの証拠はとくにありませんが、苛烈な暴政を敷いてはいなかったぐらいは言えると考えています。

それと小勢力が乱立していた播磨の中では別所氏は飛びぬけて大きく、別所氏が毛利についた時点で、版図の東播磨だけではなく、西播磨の諸勢力も呼応する状態になっています。三木合戦の位置付けとしては、秀吉率いる織田軍と播磨連合軍の一大決戦であったとも見ることは出来ます。当然の様に最終的に籠城した兵力も1万弱ぐらいになったようですし、落城後に離散した城兵も播磨各地に散らばっています。

もう一つ三木合戦の特徴に総籠り体制であったと伝えられます。つまり戦闘員だけではなく城下の住民も広く籠城に参加しています。総籠りのお蔭で兵糧の涸渇問題が生じ「三木の干殺し」にはなりましたが、非戦闘員も数多く三木合戦を直接見ています。簡単に言えば当時どころか、後世に長く語り伝えられる一大イベントであったわけです。

これだけの人数が落城時の様子を見聞しているのですから、大虐殺があれば文書に残らずとも口碑として伝わるはずです。実際に三木合戦の口碑は今でも地元三木だけではなく、播磨一円に散在していますが、私の知る限り大虐殺の伝承は聞いたことがありません。故郷に帰る時に落ち武者狩りに出会ったり、気が昂ぶった織田方に追い回された話は残っていますが、集団大虐殺は聞いたことがありません。


反論2 首塚がない

攻め手の大将は言うまでも無く秀吉ですが、秀吉が歴史上でも稀な器量人であることは説明の必要はないでしょう。一説には秀吉は武将にしては血を見るのが好きでなかったとも言われていますが、秀吉だって必要があれば大虐殺ぐらいはやるでしょう。ただ秀吉は凡人ではありません。すべての事を巧みに計算して行ないます。

三木落城時に大虐殺を政治的宣伝として行なう必要があれば、ためらわず断行するでしょうが、これは感情で行なうのではなく、当然ですが計算づくで行なうはずです。わざわざ大虐殺を行なう目的は、敵対勢力の士気を削ぐと言う事になりますから、やるからにはセットで虐殺の効果が最大に活かせる様なアピールがセットで必要です。

そうなれば虐殺の証としてデッカイ首塚ぐらい作るはずです。首塚は供養の意味もありますが、もう一つは「逆らえばこうなる」のアピールの意味がありますから、政治的目的で虐殺を行なったのなら必ず作ると考えるのが妥当です。そうでなくとも大虐殺を行なえば首の処理が必要ですから、どこかに穴を掘って埋めなければなりませんから、地元の伝承にこれも必ず残るはずです。


反論3 播磨の戦略的位置づけ

秀吉率いる織田軍の目的は三木攻略でも播磨平定でもありません。播磨はあくまでも中国の毛利攻めの前哨戦に過ぎません。毛利本体を攻めるには播磨を攻略しないと次に進めないと言う位置付けがあります。では播磨がただの通路かと言えばそうではありません。播磨を集中にて対毛利戦の前線基地にするのも重要ですが、もっと大事な目的があります。

播磨を迅速に平定して補給基地にする必要もあります。簡単に言えば播磨から年貢を取り立てて軍資金にする目的です。秀吉の身代は北近江長浜に20万石ぐらいでしたから、播磨の50万石は貴重な資金源になります。もちろん織田本国からの援助もありますが、秀吉にすれば播磨を資金源として直轄兵団を膨らます必要があったと考えられます。

軍事的にも播磨をしっかりと掌握しておかないと、中国に攻め込んだときに補給路に不安を抱える事になります。迅速に掌握するには強権的にやるか、宥和的にやるかの二つの手法がありますが、三木落城後に強権の上塗りをする戦略的必然性があったかです。別所方の結束は落城時まで崩れていませんでしたから、遺臣団の「お家復興」を恐れては成立しますが、計算に優れた秀吉がそこまでやるかです。

現在通説として伝えられる戦死者の供養を手厚く行なったり、戦乱で荒廃した三木の整備に力を入れたは、素直に宥和策と見れます。状況判断として、別所氏は手強い存在ではありましたが、落城とともにその勢力は砕け散り復旧の可能性は非常に低いと判断できます。反攻勢力が出てくるとすれば、落城後に秀吉が圧政を敷いたときであり、そんな愚策は秀吉は決して行なうと考えられません。

結果としては黒田官兵衛の進言により姫路を播磨の根拠地にしましたが、三木攻城中も、落城後もある一定の時期までは秀吉は三木を根拠にしようと真剣に構想していたのは幾多の傍証があります。根拠地にしようとする地で、わざわざ反感を買うような大虐殺を行なうのはどう考えても愚策です。

三木落城時にはまだ西播磨を中心に毛利方の諸勢力は残っており、これに対するアピールとして大虐殺をアピールするはないとは言えませんが、これも諸刃の劔で、虐殺されるから必死で抗戦する危険性も出てきます。むしろ三木落城でも寛仁な処置を行なった事を示した方が、反攻勢力の収拾に有利と見えると思います。

これは伝承なので、どこまでの信憑性があるかわかりませんが、長治の領主としての名望は非常に高く、秀吉の判断としてこれを貶めて改めるというより、これを利用して自分の治世に利用する戦略を取ったと考える方が無難ですし、いかにも秀吉流儀です。敗者を称えるのは当時であっても美しい行為であり、その辺の人情の機微を秀吉が鈍感とはとても思えません。


反論4 有岡の大虐殺の考え方

信長に暴虐の性質があった事は否定しません。ただ暴虐一方の人物ではもちろんありません。そんな人物では天下統一にあそこまで近づけません。信長が虐殺を行なう時には、信長なりの合理的理由が成立した時に行なわれると考えるべきでしょう。気の向くままに虐殺ばかりを繰り返していたらあれだけの領土をとても維持できません。

信長の大虐殺で有名なのは、長嶋と比叡山ですが、どちらも執拗に反抗を繰り返すのと、信長からすれば理でもって対応できない敵対勢力だったからだと考えています。「坊主嫌い」もあったでしょうが、それでも理をもって対処できる相手であれば虐殺は行なっていません。石山本願寺が典型で、あれほど信長が手こずらされましたが、紀州鷺森に本願寺勢力が撤退した後に追い討ちをかけていないのが一つの証拠です。

有岡の大虐殺は、信長が信頼していた部下が反逆を起したからです。案外なんですが、ある時期から織田家のあるレベル以上の武将が裏切るという言う事は珍しく、信長の判断として大きくなった織田家の統制のために見せしめのための大虐殺は必要と判断したと考えています。

つまり信長にとっても征服虐殺はセットと言うわけではなく、必要なときのみ大虐殺を冷徹な計算の下に行なったと考えるのが妥当です。信長の一番弟子とも言える秀吉がその辺の呼吸を察知していない訳は無く、さらに秀吉自身は計算に基いても信長の虐殺はやりすぎと批判しているフシが、その後の行動からも推測されますから、有岡で信長が虐殺をやったから、自分も真似して三木で虐殺やるみたいな方針を取らないと考えます。

ここも信長の難しいところで、自分の行なう虐殺は自分の中できっちり計算していますから、形だけ真似て歓心を買おうとする行為は思いっきり軽蔑します。そこの機微が一番良くわかっているのが秀吉ですから、有岡で信長が虐殺を行なったからと言って、すぐさま秀吉が呼応すると言うのはありえないと考えます。


反論5 宇喜田への文献資料

ここは報告書を読まないと拙いのですが、小林教授は

秀吉本人が書状で三木城の落城後、ことごとく首をはねたと述べていること

前後がわからないので何とも言えないのですが、小林教授の説では次の記録に連動するとしています。

織田方の武将宇喜多直家が秀吉の使者から「切腹した者以外を一所に追い寄せ、番を付け置いて悉(ことごと)く殺す」との報告を受けていることに注目

宇喜多直家も戦国期の英雄の1人ですが、颯爽とした英雄と言うより梟雄として名を馳せた武将です。岡山を中心として大きな勢力を一代で築き上げますが、毛利勢力とは微妙な友好関係で終始します。正面切って戦うには戦力が違いますから、無条件の服従関係でもないぐらいの関係です。服従関係になれば自らの勢力拡大ができなくなるぐらいのスタンスでしょうか。

そういう状態で織田家の播磨進攻があります。状況を見るのに敏な直家は、毛利の力が思ったほど強くないと判断し、織田家と組んでの勢力拡張を考えたと見られています。この辺は、播磨で毛利方が苦戦し、次に宇喜田になった時に毛利の支援がアテになりそうにないの判断も含まれているかと思います。内実的には宇喜田家内部の後継問題も微妙に絡んでいますが、とにかく宇喜田は織田に味方します。

ただ織田方、もちろん秀吉にとっても宇喜田の向背について信用は十分に置かれていない状況とも考えられます。秀吉の判断として、宇喜田は戦況次第で毛利にも織田にもいつでも寝返る可能性があるぐらいの判断です。この辺は当主であった直家の能力の評価も入ってくると思います。簡単に言えば宇喜田は油断がならないです。

そういう勢力には釘を刺す意味で脅迫的な態度を示す選択は十分にありめます。三木が落城すれば播磨は織田方に征服されるのは時間の問題です。播磨を秀吉が抑えれば、いつでも岡山の宇喜田に襲いかかれます。そういう状況に秀吉はなったので、宇喜田に脅迫的な書状を出したの可能性は十分ありえます。おそらく有岡の信長による虐殺は直家も知っているはずですから、秀吉が書状で「三木でやった」と言えば信じる可能性はあります。

思うに秀吉は三木落城の成果を十二分に活用したんじゃないかと考えています。つまり説得する相手によって、脅迫が有効と判断した相手には虐殺をアピールし、そうでない相手には虐殺を書かないみたいな判断です。当時の情報網ですから、落城時に本当に虐殺があったかどうかを確認するのは容易じゃないでしょうから、これをしっかり活用したです。


反論6 本願寺の文献資料

小林教授はもう一つ文献的資料を挙げておられます。

さらに天正8(1580)年4月に、織田勢と敵対する石山本願寺の僧顕如が「(織田方への)抵抗を続ければ、最後には有岡や三木同然になることはあきらか」と述べ、敗戦で六百数十人が処刑された有岡城伊丹市)の例を三木城と同列に扱っており

ここも見かたですが、有岡と三木を同列に扱っているから三木でも虐殺があったと小林教授は解釈していますが、当時の情勢を考えれば別の解釈も可能です。三木落城のもう少し前の情勢は、三木合戦の最中に荒木村重の謀反と言う事件があります。村重が有岡に籠城し、三木と連携するような情勢が出現しています。この時期に毛利が東に驀進していればとの「if」がつく局面ですが、本願寺側も力づいた時期でもあります。

ところが結局有岡も三木も抵抗むなしく落城しています。ここで本願寺が同列に置いたのは小林教授の虐殺と言う見方も可能ですが、毛利が支援したにも関らずの見方もまた可能です。この時点で本願寺が一番頼った勢力は毛利であり、その毛利に加担した有岡や三木が結局落城したのだから、石山本願寺も同じように落城の憂き目を見ることを懸念したとの解釈もまた可能です。


反論7 秀吉のその後の戦略

三木攻城は秀吉の戦術に一つの型を学ばせたと言われています。堅固な城の攻略は多大な犠牲が必要ですから、これをしっかり包囲し、城方を絶望させて降伏させる手法です。時間はかかりますが、損害が少なく済むという特徴があります。この時代の合戦であっても、いかに兵力の損耗を少なくするかと言うのは、大きなテーマであったからです。

また秀吉は戦略的にも有利でした。畿内と言うか後方は信長が完全に支配しており、後方を心配しながら戦う必要がなかったからです。三木で城攻めのコツをつかんで秀吉は、鳥取、備中高松(チト事情がここは変わりますが・・・)、小田原と同様の戦術を展開します。三木式のポイントは安全な包囲戦もありますが、もう一つは降伏側との約束を守るがあります。

この秀吉が約束を守るの先例はやはり三木にあると考えてもよいと考えています。この先例があるからこそ、その後の城攻めがツボに入ったと考えられない事はありません。


ここでのまとめ

小林教授の検証通り、虐殺はあったかもしれません。22ヶ月もの攻防戦ですから降伏して開城したと言っても混乱は起こるからです。当時の合戦は略奪もセットになっている部分がありますから、伝承に伝えられるほど綺麗な開城ではなかった可能性も十分あるからです。その規模が百人程度になっても籠城規模からすると大きいともいえません。

ただしこの虐殺は秀吉の命令に基いての組織的なものではなく、混乱で生じた偶発的なものと考えます。もちろん秀吉もその事実を知っていたでしょうが、その程度のことで部下を罰していてはこの時代の武将は勤まりません。むしろそれぐらいの事は起こって当然ぐらいの感覚であると考えた方が自然です。

ただ起こって当然の小規模の虐殺ですが、秀吉はこれを存分に活用したと考えます。だから相手によって虐殺の事実を強調して脅迫すのに利用したと考えています。では口碑になぜ残らなかったかですが、領主切腹による城兵助命と言っても、本当にそうなるかは城兵さえ大きな心配があったとは思います。実際に一部に偶発的な虐殺があったとしても「この程度で済んだ」の思いの方が強かったと考えます。

秀吉は三木を根拠地にする気が満々ですから、後は人心収攬のための政略が行なわれます。つまり秀吉は長治との約束を守ったの宣伝です。落武者たちは通常の落城時の惨状も知っていますから、三木落城時にあった一部の虐殺は、秀吉の命ではなく部下が勝手にやった事と信じるでしょうし、だからこそあの程度の規模で済み、自分は生き残る事が出来たと感謝する寸法です。

その一つの傍証が播磨各地に三木落城後に増えた「三木」と名乗る地侍が増えた事実です。今でさえ、家系伝説で先祖が三木で籠城したという「三木さん」が三木を訪れると言います。ところが三木籠城者には1人も三木姓のものはいなかった事が確認されています。これは先祖が長くて苦しかった三木合戦に参加した事を名誉と考えて改姓したと言われてます。もし秀吉が大虐殺を組織的に行なっていたら、生き延びた城兵達は怖くて三木姓など名乗れないと考えます。

もう一つ傍証ですが、戦国期の著名な剛将に後藤又兵衛がいます。又兵衛は別所家の家老である後藤基国の息子です。又兵衛は黒田官兵衛に仕え、さらに官兵衛の息子長政に仕えますが、長政と喧嘩し、最後は大阪の陣に加わります。これは伝承になり、信憑性がどれほどあるかになりますが、一説では三木合戦中に竹中半兵衛に密かに預けられ、さらに黒田官兵衛に託されたとなっています。

いずれにしても幼少期の事ですが、後の又兵衛の性格からすれば、秀吉が長治との約束を反故にし、大虐殺を行なっていたとすれば、あれほど豊臣家に忠誠を尽くすかの謎があります。又兵衛が官兵衛に可愛がられ心服していたのは事実のようですが、晩年に大坂城に討ち死に覚悟で参戦したのはどうだろうぐらいです。まあ、又兵衛の話は証拠としてはかなり薄いですけどね。



やっぱり報告書を読まないといけませんねぇ。と言うところで今日は休題です。