3つ目もお付き合い下さい

8/27付読売社説ですが、前半部は放送と通信の規制の変更について語られています。正直なところ畑違いも良いとこの分野なのですが、方向性は悪くなさそうな印象を持ちました。引用したいのは後半部分で、おそらく規制の変更によるメディアサイドのデメリット部分に対する懸念かと思われます。

 新たな規制の枠組みに対しては、国が番組内容に口出ししやすくなり、放送局の自立性が脅かされるとの指摘もある。

 答申は、インターネット上の情報には新たな規制は設けず、放送番組の編集の自由は法律に明記するとしている。今後の法案化作業で、表現の自由に対する十分な配慮は不可欠だろう。

 民主党衆院選に向けた政策集で、放送への国の介入を排除するため、放送・通信行政を総務省から分離させるとしている。

 米国の連邦通信委員会(FCC)をモデルにした独立行政委員会を新設し、権限を移管する案だ。規制の見直しと同時に、行政組織のあり方についても再検討するということだろう。

 しかし、米国型の移植だけで放送・通信行政は円滑に進むまい。総務省経済産業省、IT(情報技術)担当大臣が並立する今の行政の見直しが先決ではないか。

個人的に失笑したのは、

    しかし、米国型の移植だけで放送・通信行政は円滑に進むまい
思考認識として正しいと思いますが、これまで他の業界に言ってきた事と少々矛盾する様に感じてしまいました。医療業界にもさんざん「○○国では・・・」とチェリーピッキングで都合の良いことだけ「導入せよ」の論陣を張っていたかと思います。しかし自分のところへの制度直輸入は賛成しないと言うことのようです。

もちろん「表現の自由」はマスコミ業界だけではなく、ネットでの情報発信者にも関心が深いものですから、政府の自己利益だけに偏った規制や制度の導入は好ましいと思いません。ただし2009 VOL.35 NO.7 P74 選択「経済情報カプセル」には、

こうしたテコ入れを先導するのが、新たに新聞協会会長に就任した内山斉読売新聞グループ本社社長。就任を控えた今春には自らの発案で、「広告対策特別委員会」を設置、これが発端となり、「政府支援プラン」の検討が加速したと見られる。

現在の新聞協会会長は

この内山氏が「補助金クレクレ」運動の中心人物のようですから、補助金とのバーターにどこまで対抗できるか楽しみです。「選択」と言う雑誌だけではソースとして根拠が薄弱ですから、新聞の業界紙である「新聞通信」の5/28付記事(ソース元は新聞労連)も根拠として補強しておくと、

政府への働きかけ

これを「今後新聞業界として取り組むべき方策」として自らまとめられており、そういうスタンスの読売社説と考えると味わい深い内容です。補助金の要求額は、新聞協会の代弁者である原寿雄氏によると「500億円」なんですが、これに関しては新政権と既に他の材料とのバーターが成立しているなんて憶測もありますから、おもしろいところです。


ちょっと寄り道しましたが、

てな事を言われても、門外漢にはよくわからないところです。読売社説ではこの方式に賛意を表していないのは確かですが、その理由の説明が殆んど書かれていません。ここまで来ると同じ穴のムジナと考えて、昨日はもう触れまいと思った8/24付タブロイド紙(魚拓)の音好宏・上智大教授の提言を参考にしてみます。3日続きで食傷気味と思いますが、ここまで来たら一種の記録として御了承下さい。

 民主党が参考にするというFCC(米連邦通信委員会)の場合、5人の委員は、委員長を含む3人は与党系、2人は野党系の人物が選ばれる。5人が合議制で政策を進めるが、委員を助ける専属スタッフは、約2000人の職員ではなく、外部の弁護士らから登用される。FCCは90年代に規制緩和政策を導入するが、背景には、実務に影響力が大きい専属スタッフへの経済界の強いロビー活動があったとされる。政治的に公正に映るFCCだが実際には政権によっては政治色や業界との結びつきは強かったという。そのFCCを米議会も厳しくチェックしている。一方で、FTC(連邦取引委員会)も合併など業界の動きを監視する。日本版を作ると言うが、こうした問題点に関する民主党の回答は見えてこない。

少々読みにくかったのですが、ここの部分はアメリカのFCCの解説です。まず、

    5人の委員は、委員長を含む3人は与党系、2人は野党系の人物が選ばれる
ここなんですがwikipediaによると、

FCCアメリカ合衆国大統領によって任命され、任期満了に満たさない者を除き、5年ごとにアメリカ合衆国上院によって承認される5人の委員によって管理されている。大統領は議長たる委員を指名する。5人中3人までは同じ政党の所属であってもよい。

FCC委員は大統領の任命で、上院の承認を必要とするようです。大統領には人選と、委員長を指名する権限がある一方で、委員の配分として政権与党は3人までにすると考えたらよさそうです。ただこれはアメリカがほぼ完全な二大政党制であるから「5人中3人までは同じ政党の所属」で与野党の配分が出来ますが、このままの規定で日本で運用されたら自民3人、公明2人みたいな構成になるので修正は必要でしょう。

実務の構成が微妙で、5人の委員だけでFCCの業務(by wikipedia)である

ラジオスペクトル(ラジオ及びテレビジョン放送を含む)を使用するすべての非政府組織、並びにすべての州間電気通信(wire人工衛星)同じくアメリカ合衆国内で発信または着信するすべての国際通信を規定して管理を行っている

これをこなすのは不可能ですから、これに専属スタッフがつくようです。この専属スタッフはいわゆる官僚ではなく、外部からの弁護士とか「有識者」みたいなもので編成されると音教授はしています。つまりと言うほどではありませんが、FCCの職員構成は、

  • 大統領が任命し、上院が承認した5人の委員
  • おそらく5人の委員が任命した専属スタッフ
  • FCC職員として、その他約2000人
こういう構成の場合、専属スタッフが実務に大きな影響力を持つのは組織上の必然です。日本の各種御用委員会でもそうで、舞台回しをする官僚が実質として会議を主導しています。この専属スタッフがどういう過程で選ばれ、承認されるかが不明なんですが、音教授は専属スタッフの弊害として、
    実務に影響力が大きい専属スタッフへの経済界の強いロビー活動があったとされる
おそらく委員本人へのロビー活動は制約がそれなりにあるのかもしれませんが、専属スタッフにはかなり広範にロビー活動を行なえる余地があると思えます。このロビー活動ですが、本来は買収・癒着みたいなものと一線が引かれるものであるとされますが、実態としてはピンキリで買収に近いロビー活動もあるとされます。そういう事があったので、
    政治的に公正に映るFCCだが実際には政権によっては政治色や業界との結びつきは強かったという
政治家も業界も監督機関であるFCCに影響力を持てば有利ですから、それぐらいの事はするでしょう。おそらくですが、そういう事が問題視されたので、
    そのFCCを米議会も厳しくチェックしている。一方で、FTC(連邦取引委員会)も合併など業界の動きを監視する。
たぶんこういう事は幾度も繰り返されたのではないかと思います。人間が作る組織であり、利権を扱っていれば、これを何とか利用しようとする人間や勢力は必ず生まれます。問題が起こるたびに問題点を修正し、チェック機構の構築を繰り返していると考えるのが良いんじゃないでしょうか。ただし音教授の結論は性急です。
    こうした問題点に関する民主党の回答は見えてこない
ごく普通に考えて、FCCと同様のチェック機構を日本でも作ろうとするかと思います。それこそお手本があり、問題点もある程度把握しているのですから、「類似の組織構成にする」が回答でしょうし、現時点ではそれ以上の回答は難しいでしょうし、さらに言えばする必要も無いと考えます。FCCと同様の組織と言えば、本体だけではなくチェックシステムもまた同様にするとの意味と考えるからです。

もちろんFCCと言われても泥縄でちょこっと調べただけですから、もっと深刻な制度上の欠点や、日本の風土に決定的に合わない問題があっての上で、導入への不同意かもしれませんが、読む限り否定への説得力にやや欠ける気がします。

 一方、これまでの放送政策の決定は、総務省が与党の党内手続きを尊重し、手厚く対応する形で進められてきた。しかし、新政権は、こうした不透明な政策決定プロセスを改めるべきだ。予算の承認を国会で得る必要があるNHKにとっては、こうしたシステムが、政府・与党に太い人脈を持つ政治部記者が幹部に起用されるという慣例を支えてきた。NHKと政治との関係、緊張性や透明性をどう確保するかが問われる。英国の公共放送BBCの政権との距離の取り方が評価されるが、政権が交代する政治風土ゆえに生まれた。

    不透明な政策決定プロセスを改めるべきだ
ここも思考停止を招くマジックワードである「透明性」が使われています。政治用語としての「透明性」は玉虫色で多様な意味に使われると感じていますが、とくに否定するときの解説の根拠に使うと「なんとなく」格好が付くという言葉です。良く分からないが、高尚そうな理由で根拠がありそうみたいな感じです。

政治のごく簡単な仕組みですが、多数決の原則があります。それに日本では議院内閣制を取っています。国会での多数派が与党として行政府である内閣も握る政治形態です。つまり立法府である国会内の多数派が行政府としての内閣も支配すると言う事になります。

放送政策に限らず、国会の承認が必要とされるすべての政策は、国会内の多数の賛同を必要とします。多数の承認と言っても、実質的に国会では議員個人の意志は無いに等しく、党議拘束されます。そういう実情から政策は多数を握る与党の承認が必要になります。与党が承認し、党議拘束をかければ成立すると言う事です。そうなれば実質的な議論は与党内で行われる事になります。

    これまでの放送政策の決定は、総務省が与党の党内手続きを尊重
悪の権化みたいに書かれていますが、実態としての政策決定メカニズムは、
  1. 与党内の議論で政策を決める
  2. 与党の決定を内閣が法案として提出する
  3. 国会の多数派である与党が承認する
もちろんこんな単純ではなく、与党と内閣の力関係、国会内の与野党の力関係、世論の動向が複雑に影響はしますが、基本的にはこうであると言ってよいと考えています。総務省と言っても官庁ですから、政策決定になると与党の決定を尊重せざるを得ないわけです。総務省が与党の意向と関係なく動きたくても、総務大臣が勝手に動けば内閣不一致として叩かれますし、総務官僚が独走しても国会承認は程遠いという事になります。
    しかし、新政権は、こうした不透明な政策決定プロセスを改めるべきだ
どこを改めるかを書くべきでしょう。政治の意思決定過程の中で、一番影響力の大きい党内議論は公表されません。これを公開せよと言う事でしょうか。党内議論と言っても、さらに公式と非公式に分けられます。党の担当部会レベルに上る前に、有力議員同士の根回しも行なわれているはずです。党内であっても多数決の原則はあり、党内支持者が多くないと党内決定も出来ないからです。

党内の非公式の根回し部分になると絶対に公開されませんし、公開しようもありません。政治には公開される部分と公開されない部分で政治家の態度は変り、公開される部分に持っていくまでに薄汚い部分の処理を済まそうとします。たとえ党の公式部分を公開しても、必ずそれに先行する非公開部分が発生し、一番重要な意思決定過程は見えないというのも宿命かと思います。

悪い事をしているように感じられる方も多いかもしれませんが、誰でも公開する意見を世に問う前に、その意見の検討を非公開で行ないます。それをすべて「透明性」として公開することは出来ないと思います。公開される前の非公開部分と言うのを消し去る事は事実上不可能ではないかと考えます。その現実を踏まえた上で、どの時点から公開するかの具体的な提案が必要なところと考えます。

とりあえず、読売社説も音教授も日本版FCCに否定的です。否定意見は構わないのですが、自分の業界に直接関係することであり、音教授も「教授」なんですから、それに代わる提案を合わせて行なうのが筋ではないでしょうか。否定だけして代案を提示しないと言うのは、余計な詮索や痛くも無い腹を探られる結果を招きかねません。

    政府・与党に太い人脈を持つ政治部記者が幹部に起用されるという慣例を支えてきた
これはNHKのお話としてあがっていますが、解釈として政策決定過程で与党内議論の比重が高いため、そこに少しでも影響力の高い人材を折衝役として送り込んでいると見ます。ではNHK以外の放送業界であっても、このプロセスは基本的に類似しているかと考えます。NHKほどでなくとも、放送業界も政策決定への影響力確保を考えるのは当然です。そういう時の影響力行使は様々な手法がありますが、NHK以外であっても非公開部分で折衝できる現在の方式が有利であるとの考え方です。

非常に大雑把な理解ですが、FCC方式の方が従来より公開部分つまり透明性は高まるかと考えています。FCC方式に反対するのは、透明性の拡大により、従来の手法が通用しなくなる懸念が大きいのじゃないかとの解釈です。次期政権与党として有力である民主党提案のFCC方式を今の時点で否定しているのは、現行方式の保持方針の裏返しとさえ見ることは出来ます。

 総務省が放送事業者に対する関与を強めたのは、93年に誕生した細川政権下。テレビ朝日の椿貞良報道局長の日本民間放送連盟の会合での発言が自民党から問題視され、放送人として初めて国会に証人喚問され、強い放送規制に道を開いた。放送の自由への未熟な理解が原因だ。新政権はそうした経験を踏まえて放送行政と向き合ってほしい。

この個所も話題になったところです。ここはいわゆる椿事件についての説明です。椿事件への音教授の見解は、

    放送の自由への未熟な理解が原因だ
こう結ばれると、椿事件はマスコミ業界にとって言語道断の不当な弾圧であったと感じます。では椿事件とはどんなものであったかですが、リンク先のwikipediaを参考にしてもらえれば良いのですが、一部引用します。1993年の総選挙では、自民党が分裂した挙句に過半数を割り、史上初めて下野し、細川連立政権が誕生するという結果になっています。

選挙があったのが7/18ですが、その2ヵ月後に当時のテレビ朝日報道局長の椿貞良氏は重大発言を行ないます。

9月21日、民間放送連盟の放送番組調査会の会合が開かれ、その中でテレビ朝日報道局長の椿貞良は選挙時の局の報道姿勢に関して、

    小沢一郎氏のけじめをことさらに追及する必要はない。今は自民党政権の存続を絶対に阻止して、なんでもよいから反自民連立政権を成立させる手助けになるような報道をしようではないか」
    共産党に意見表明の機会を与えることは、かえってフェアネスではない」
との方針で局内をまとめた、という趣旨の発言を行った。

これが表面化して大問題になり、

10月25日、衆議院が椿貞良を証人喚問。その中で椿は民放連会合での軽率な発言を陳謝したが、社内への報道内容の具体的な指示については否定、一方で放送法で禁止されている偏向報道を行った事実は認めた。

申し訳ありませんが、椿氏に同情する余地は非常に乏しいかと感じます。結果として総務省による放送への監視が強まったともされますが、はっきり言って椿氏のチョンボでしょう。言わなくても良い事をノウノウと公式の場で話し、それが問題視されるなんて夢にも思わなかったのなら、お目出度すぎる人物です。

この椿事件

    放送の自由への未熟な理解が原因だ
つまり椿発言を問題にしたのは「放送の自由の未熟な理解」であると音教授はしています。つう事は、椿事件は放置されて然るべきものであったと言う事になります。そうなるとテレビの政治的偏向は放送局の自由であるとの趣旨になります。政治的偏向の番組を放送局の自由意志で放映できる事こそが、「放送の自由」であると音教授は主張しています。

しかしそうなると

04年夏に発覚した受信料着服問題に端を発し、受信料支払い拒否が広がった。その背景には、05年に表面化したNHK特集番組改変問題を含めて、政権与党との距離が近いのではないかというNHK不信があったと思う。

この部分の解釈は、政治家の意志の元で偏向報道やその是正は許されないが、NHKが自分の意志で政治的偏向番組を放映するのは「放送の自由」という事になり、これを止める事は誰にもできない事になります。



えらく音教授の提言の解説が長くなりましたが、どうやらテレビは政治的であれ、なんであれ偏向番組をテレビ局の勝手で放映する事が「放送の自由」であり、これに制約を加えようとするものは「未熟な理解」であると考えれば良さそうです。

人間誰であれ権力を握るものには監視が必要です。人間がすべて聖人君子であれば良いのですが、現実はそうでなく、制限無しに権力を持たせれば高い確率で暴走します。この世で偉人と称えられる政治家の多くは、権力を持っても暴走しなかった点を称えられている部分が多いと思っています。そのため権力を持つ者へは、制度としてのチェック機構、ブレーキ機構を配置します。

マスコミは第4の権力とも呼ばれ、テレビもその権力の大きな一角を占めています。それだけの権力を国民がマスコミに容認しているのは、政治と言う権力へのチェック機構の役割です。ですからマスコミが権力監視機構の役割を忠実に果たしているうちは、政治がマスコミに容喙するのは国民的合意として忌避します。

しかしマスコミがその役割を放棄し、自らが権力を揮う、自己の権益を守るためだけに権力を揮えば、国民は誰も支持しません。マスコミ権力は国民の暗黙の支持があってこそ成立するものであり、国民の支持を失えば瓦解します。それとマスコミとは既製マスコミだけを指すのではありません。国民が支持し権力を認めるマスコミは、国民が認めたマスコミだけであると言う事です。マスコミと言う権力の座は、既製マスコミの指定席では決してありません。

国民はマスコミを必要としますが、国民の期待とかけ離れたマスコミは退場になり、退場した席には新たな的確性が認められたマスコミが座るのが当たり前の事です。マスコミを誰が監視するのかの議論は前からありましたが、答えはやはり国民でしょう。これまで国民の声はどこにも反映されず、情報としてはマスコミの厳重な統制の下に置かれていました。

しかしネットの発達普及は国民によるマスコミの監視を可能にしています。放送業界とその代弁者である音教授は、

    放送局に好き勝手に放送する自由を与えよ、それこそが「放送の自由」である
こうしています。これが現在の既製マスコミの宣言であるなら、これを監視する国民は応えなければなりません。支持するか、拒否するかです。私は「放送の自由」とは、あくまでも政治的中立性を担保としたいので支持しません。もちろん音教授の「放送の自由」の大義に共鳴して支持賛同するのも個人の自由です。

こういう意見をブログと言う場で表明するのは「表現の自由」と考えますし、そういう自由が許されているのが日本です。