Risfax記事はどこかで引用されている方がおられたのを見た事があります。そういう意味で気になっていたので、調べてみると医薬経済社と言うところが発行している情報誌のようです。謳い文句として、
「RISFAX」は弊社で発行している情報紙です。主な内容は、医薬品に関する行政・制度、企業、流通、国際などをテーマに独自取材による情報を掲載。
「RISFAX」はこれらの情報をA4紙6〜7枚に編集して、土日、祝祭日を除く毎朝8時〜8時半頃までに一斉同報網を使いファクシミリに送信しています。
Faxと言うぐらいですから基本はファックスで平日に送られてくるようです。無料なら読んでみたいと思いましたが有料で、有料でも価格次第と思ったら少々驚かされました。
年間: 168,000円 (税抜価格 160,000円)
半年: 94,500円 (税抜価格 90,000円)
う〜ん、高いというのが感想です。Web版もあるようなのでそちらは安いかと思えば、
年間: 195,300円 (税抜価格 186,000円)
半年: 103,950円 (税抜価格 99,000円)
ふぇ〜、Web版の方がさらに高いことが確認できます。Fax版で年間16万8000円ですが、平日はおおよそ250日ぐらいですから、1日当たり670円ぐらいで、A4にして1枚あたり100円程度と考えればよいようです。高いか安いかは情報の質と読むものの情報価値の評価になるのでしょうが、ちょっと手が出にくい価格です。それでも、そこそこ続いているようにも思いますから、きっと読者はそれなりにおられるのでしょう。
そんなRisfaxの記事の一つをたまたま入手しました。これがまた魂消るような内容で、手際よく解説するのが非常に困難と言う代物です。質の悪い文章と言うのは一般に
- 文章を構成しているパーツの内容が悪い
- パーツは悪くなくとも全体構成が悪い
- パーツも構成も悪くなくとも、結論を導き出す理論が悪い
記事は記者コラム「「異伝子のつぶやき」より☆」とされ、タイトルを読む限り連載もののようにも思えます。もちろんRisfax記事を有料購読している訳ではありませんから、連載かどうかを確認する術はありませんし、連載としても他の記事がどうかはわかりません。ただ他の記事がどうであれ、この記事一つで記者の質が骨の髄まで理解できるとしても大げさではありません。
とりあえずこの記者コラムの紹介時の題名は、
信頼関係
それでもってこれからご紹介するのですが、上述する様に難解な文章なのでパーツ編と全体編に分けさせて頂きます。
記事9つの段落構成になっていますから、それにそって解説します。なお手打ち引用なのでその点は御了承下さい。
先週、ある医師が「医療不信が渦巻いている。悪いのはマスコミだ」と言っていました。マスコミが一役かっているところもありますが、このことについてちょっと呟いてみたいと思います。
ここは記事の導入部であり、どんな趣旨の記事を書くかを示しているところですが、どう読んでも医療不信に対し、
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マスコミが一役かっている
例えば、あなたが信頼している人を「信頼できない」という人がいたとします。あなたはその人を信頼できるでしょうか?できないでしょうね。信頼できないとする場合、その人自身が人を信用することができないことと関係していることが少なくありません。
いきなり難しいのですが、とある人物、たとえばA氏がいて、そのA氏を信頼できる人物と仮定するようです。ここでA氏を「信用できない」とするB氏がいるとしています。つまり、
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A氏:信頼している人物
B氏:A氏を信頼していない人物
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あなたが信頼している舛添大臣を「信頼できない」という人がいたとします。あなたはその人を信頼できるでしょうか?できないでしょうね。
どうもこの記者の交友の持ち方は、新興宗教の信者のような思考法みたいに感じます。教祖を信頼している人間は認めるが、そうでない人間は認めないみたいな感じです。設定の最初から少々無理があると感じてしまいます。好意的に解釈しても「そういうケースも世の中にありうる」だけで、世の中の交友関係、信頼関係がすべてそういうものであるとするのはかなりの無理があります。
信じれば裏切られることも少ないということですが、もちろんやみくもに信じればいいわけではなく相手を見て信じることができると思う場合に限るわけで、、、それができるなら騙されることもないという当たり前の話になってしまう、「だから安易に他人を信用してはいけない」と言われそうだが、やはりそうではなく人を信じる効用はあるんだ、ということなんです。
この段落の最後の「ということなんです」にスルッと納得される方は少ないだろうと思います。ここも読みにくい文章なのですが、とりあえずこの段落のテーマは、
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信じれば裏切られることも少ない
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相手を見て信じることができると思う場合に限る
また信用できる分野も細かくマネージメントしています。ある分野では大きな信頼を置いても、他の分野では相談すらしないというマネージメントです。人間関係でそうそう公私ともすべての分野において信頼できる人間を得られるものではありません。そんな人間は一生のうちで多くて数人、下手するとゼロでもさして不思議ありません。自分の人生のパートナーであっても、分野によっては必ずしも全幅の信頼を置いていません。
こういう社会常識を踏まえた上で、
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やはりそうではなく人を信じる効用はあるんだ
- 外見とは違い内面は信用できる人間であった
- 内面も信用できない人間であったが、信用を置いてもらう事で改心した
記者時代にいろんな広報担当者と取材交渉をした経験からですが、ある広報担当者Aさんが「異伝子さんには隠しごとはしません。あらいざらい話しましょう。なんでも聞いてください」と言われて、これでAさんと信頼関係ができたと思っていました。その後、周辺取材でAさんから聞いたことのない話が出てきました。すぐにAさんに問い合わせると、「そのような話はない」と否定しました。
Aさんからいろんな話をもらい、信頼関係もありましたから、それでもAさんの方を信じていました。ところがないはずの話が周辺取材で複数出てきたのです。で、Aさんに確認するとそれでも「ない」と言い張るのです。単なる噂であると。次第に語気は強くなり、「噂を信じるんじゃないよ」「記事にすると恥をかくよ」と言われたので、記事にしました。
皆様も辛いでしょうが、私も辛いので我慢してください。ここの段落は第二〜第三段落で展開した「人を信じる効用」の記者の体験談になります。体験談で主張を裏付ける手法自体はポピュラーですが、とりあえず、どういう事実関係であるのかを読み取らなければなりません。登場人物は2名で、
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広報担当者(A氏)
記者(異伝子)
もう一つ広報担当者のお仕事として、リスクコントロールがあります。企業にとって有利な情報は広く報道してもらい、逆に不利な情報は伏せてもらう、もしくは扱いを小さくしてダメージを最小限に食い止めてもらう関係です。こういう関係は恩の貸し借りに似てまして、記者の報道の扱いによって、広報担当者が記者の信頼度を評価し、その信頼度において情報提供の範囲を考慮していきます。
広報担当者はマスコミに敵を作るべきではないというのが原則ですから、どんな記者が訪れても基本的ににこやかに対応するかと思います。またそういう担当ですから、巧みに記者の心をくすぐるような言葉も用いると思います。しかし本音は違います。相手の信頼評価を一つ誤ると企業に損害を与えますから、情報提供の質・量・タイミングはシビアな計算尽くで行なわれます。
この記者は広報担当者の表面上の態度を信じて信頼関係ができたと考えたようです。信頼関係があるから、当然の事としてすべての情報が入手できるとも考えたようです。ここで記事内容からして、その企業のある不利な情報があったと推測されます。その情報を記者は広報担当者から入手できなかったようです。つまり広報担当者は記者に対しそこまでの信用を置く段階でないと判断したと考えられます。
記者は広報担当者とは別ルートでその情報を入手したようですが、広報担当者としてはあくまでもこの記者には伏せる情報であると判断したようです。つまりはこの記者に確定情報を与えるのは危険だという判断です。それでも振り切って記者は記事にしています。
Aさんとの関係やその後Aさんはどうなったかはみなさんの想像におまかせしますが、Aさんはなぜ私を信用させようとしたのでしょう?たぶん、私との信頼関係を築こうとしたのだと思います。実際、私はAさんと信頼関係があると思っていた時もありました。その後は次第に信頼関係が揺らいでいき、ついにはそんな信頼関係はいらないと思うようになり、つまりAさんにとって私は裏切り者にならざるを得なかったのです。
ここは第四段落の話の顛末です。本当に記者かと思いたいような認識ですが、ここは笑いどころでしょう。
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なぜ私を信用させようとしたのでしょう?
広報担当者にしてみれば、普通の記者に対する普通の対応をしたにも関らず、その常識を知らない記者に逆上されて心外だったかと思います。広報担当者にすれば「操作を失敗したな」と言うところでしょうか。それよりも「今どきの若い者は・・・」てな感想を抱いたかもしれません。第四段落、第五段落の記者の経験談は「信頼して裏切られた」つまり失敗談と総括しても良いと考えます。
また、別の会社の広報担当者Bさんとも信頼関係がありました。このBさんは記者のなかでもなぜか私にだけいろんな話をしてくれます。あまりに面白いので「記事にしちゃいますよ」というと、「じゃあ、俺はクビだな」と笑いながら言います。「記事にするな」とは一回も聞いたことがありません。Aさんから聞いた話でいい記事をたくさん書かせてもらいました。気をつけていたことは私の記事がもとでAさんをクビにしてはいけないということでした。それは最後まで守ったつもりです。
第六段落は別の体験談で、今度は成功談と解釈しなければならないようです。ここの広報担当者は失敗談の広報担当者より相当したたかである事がわかります。記者は信頼関係を築いた上で、記者しか知らされていない極秘情報を入手したと信じ込まされています。記者にはそれがリスクマネージメントされた情報であると最後まで気が付かなかったようです。
たまたま問題になるような大きなことが無かっただけかもしれませんが、広報担当者は記者を手玉にとって、企業のアピールの役割を十分果たせと考えています。記者にとって一番分かっていないのは、広報担当者が絶対の忠誠を置くのは所属する企業であり、記者ではないという一点です。個人的な信頼関係如きで、企業が不利になる情報など絶対に流さないのが理解できていません。
記者に企業に不利な情報を流したところで、記者にとってポイントになるだけで、広報担当者にとっては単なる失点だけでなく、その後の社内での扱いはもちろん、下手すると家族が路頭に迷う事がわかっていないと思います。この広報担当者にとって記者は「扱いやすい、甘ちゃん」以外の何者でもなかったでしょう。
インフォームドコンセントの言葉がなかった時代に患者は医療から自分の身を守る手立てとして「先生に私の命を預けているのですからすべてお任せします」というフレーズを祈りを込めるようにして言葉にしたのではないでしょうか。それしか選択肢がなかった時代だったという言い方もできるが、最善の態度であったことは確かです。そして、選択肢が増えたいまでも医師を信頼することは有効な手立てのような気がします。
「信じる効用」を補強したと思われる成功談と失敗談が並べられた後に、印象として唐突に医療の話に突入します。もちろん医療不信に「マスコミが一役かっている」をこの記事のテーマととして冒頭に掲げているわけですから、入ったら悪いわけではありませんが、入り方が脈絡もなく唐突の印象が拭えません。
ここでは一言で言えば「医療を信じろ」です。そのことに対し異論は無いのですが、巧みにトゲを含ませてあります。
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患者は医療から自分の身を守る手立てとして
病気と言う一点を挟んでの共闘関係が医療での信頼関係であり、記者が思い込んでいる「医療者 vs 患者」みたいな構図は余計な産物です。医療とは患者からの信頼がないとそもそも成立しないと言う前提をご存じないようです。医療は患者の信頼を受けて始まるものであり、信頼がないところには医療はありません。
インフォームド・コンセント(IC)もまたそうで、ICにより信頼関係が出来るというより、信頼関係があるからICが出来るというのが本筋です。なんの信頼関係もないところにICにより突然信頼関係が生まれる理解では少々困ります。
医師も患者も人間です。どこまでも信頼されていると思えば、信頼している人のために人はベストを尽くそうと思うものです。自分のためにウソをつかない人(医師)は大切にしたいとほとんどの人(患者)は思っているのではないでしょうか。なにか自然災害でも起こると異常気象の話になり、エルニーニョ、温暖化、そしてすべては人類の経済発展が原因という展開になって、わけのわからない話になる。これと同じように、医療崩壊は医療不信が原因で、それを招いたのはマスコミと医療費抑制にあるという言い方はやめてほしいなと思うのです。
ここの前半部には大きな異論はありませんが、今でさえ医師と患者の関係は信頼による契約関係です。現在の医療で問題になっているのは信頼関係の程度です。もっともそんな高尚な話を持ち出すのはこの記事の質からして不要ですので、この程度にしておきます。問題はその後です。
この記事全体の結論部が最後に来るのですが、ここの論法は二つの例えを並列に並べた上で、
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Aが否定されるからBも否定される
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わけのわからない話になる
それをわざわざ「わけのわからない話」を結論部の例えに持ち出し、並列否定の否定理由を「わけがわからない」からとは本当に畏れ入ります。それでもこんな理由で一方を否定して同時否定の医療の話の最終結論部に進みます。ここでも何の脈絡も無く「医療費抑制」が抱き合わせに出てきていますが、この程度でもう驚いてはいけないようです。
ここでなんですが「異常気象と地球温暖化」は一般論としての比喩とするのが妥当です。科学的検証に基づくものではないのは明らかです。そうなると記者は「わけのわからない話」を否定理由にしましたが、一般論としては通常は肯定されます。そうなると最後の結論部分は記者以外の解釈としては、
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Aが肯定されるからBが肯定される
この文章に構図と言うのがあればと言う話になりますが、あえて全体の構成から見直してみます。記者が主張したいことは冒頭部の医療不信に
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マスコミが一役かっている
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それを招いたのはマスコミと医療費抑制にあるという言い方はやめてほしいなと思うのです
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医療不信・医療崩壊にマスコミが一役かっているという言い方をやめてほしい
「人を信じる効用」について二つの体験談が提示されています。
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失敗談
成功談
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失敗談:マスコミにより医療不信が増幅した例え
成功談:マスコミが医療不信を増幅していない例え
しかし記者が提示したのは個人的な狭い体験談が2例で、それも並列に配置されています。並列におくという事は少なくとも同量である事を示唆します。同量であれば一役どころかダブル役満ぐらいの量と質があることにもつながります。
また経験談の内容ですが、価値判断の主役は記者です。失敗談では自ら「裏切った」と表現し、成功談でも記者の好意で広報担当者の信頼を裏切らなかったと自慢されていります。ここでパーツ編でも述べましたが、取材する記者側と取材される側は立ち位置が基本的に異なります。記者にとって評価されるのは記事のインパクトであり、その影響が大きいものほど社内的に評価されます。
一方で取材される側は記者の書きよう一つで社会的に破滅しかねない状態です。さらに取材される側が破滅しても記者にとって痛くも痒くもないのがマスコミの現実です。記者は社内的だけではなく、業界的にも「なんたら賞」を受賞して出世するのもよく存じています。それを防ぐ手段が記者を信じる事しかないのであれば、取材する側にとってリスクばかりを負う関係になります。
もし記者が「そうではない」と主張されるのならば、そうではない根拠を提示しなければなりません。全文を見回してもそんな根拠はどこにも見当たらず、ひたすら「記者を無条件に信じるべし」しか書かれていないとしか思えません。いや、たぶんそう書いているだろうと思うだけです。パーツを取っても全体を見渡してもそうですが、やっぱり、
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わけのわからない話
速効性と読み応え。情報戦略はお任せください!!
氾濫する情報を、いかに迅速かつ的確に把握するかが、知識集約型の医薬品および医療産業にとって日々の重要な業務となっています。いまや、ファクシミリ情報サービス"RISFAX(リスファクス)"は日々の活動に「不可欠なもの」との評価をいただくようになりました。
薬価、流通、医療、政治・行政、国際、企業、開発など、独自取材網による情報・解説記事を掲載。朝、短時間のうちに医薬関係情報が分かり、忙しい営業マン、開発・学術情報の収集担当者、医療関係者などに特に好評を博しています。
こんな記事が「氾濫する情報を、いかに迅速かつ的確に把握」だそうです。いくら埋め草と言っても限度があるでしょうし、記事に編集部によるチェックと言うのが存在するのかの疑問さえ生じます。たった一つの記事でRisfax全体の評価を決めてしまいのは宜しくありませんが、ここまで程度の低い記事を他の記事でリカバリーするのは容易な作業ではないように感じてなりません。
この記事一つで
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年間: 168,000円 (税抜価格 160,000円)