お盆と関係無いのですが閑話のテーマはドド〜んと「邪馬台国」です。邪馬台国についての研究はそれこそ山のようにあるので、今日書く説も、もう誰かが唱えているかもしれませんが、そうであれば御容赦頂きたいと思います。膨大な邪馬台国研究をすべて知るには程遠い知識しかありませんから、閑話と言う事でお流し下さい。
邪馬台国といえば魏志倭人伝です。これしか資料が無いので私もこれについての分析になります。魏志倭人伝は三国志のうちの魏志の東夷伝の一部で、作者は陳寿(233年 - 297年)という事もはっきりしています。ここで当たり前の事ですが、作者の陳寿は日本に来ていません。何かのソースを基に東夷伝とそれに含まれる魏志倭人伝を書いたと考えるのが妥当です。
魏志倭人伝だけなら邪馬台国への訪問経験者の話を聞いた可能性もありますが、東夷伝まであるとなると、陳寿は何らかの伝手で魏王朝の公式記録文書を入手して書いたと考えます。魏の使いが邪馬台国に行ったのは事実でしょうし、魏の公式の使いが邪馬台国や他の東夷諸国に使わされたのであれば、その報告書が魏の政府に保管されているはずだからです。
陳寿は西晋の人ですが、魏から西晋への政権交代は比較的穏やかに行なわれています。穏やかとは西晋が魏を滅ぼすときに、魏の都を灰にするような政権奪取を行なっていないという意味です。可能性として魏の公式文書のかなりの部分が燃えずに西晋に伝えられた可能性があり、陳寿が何らかの方法で入手したのだろうと言う事です。そうでもなければ書けるはずがない内容です。
ただ公式文書をソースにしたはずなのに、魏志倭人伝では邪馬台国の場所が特定できないのもまたあまりにも有名です。まともに解釈すれば、はるか太平洋上に邪馬台国が存在する事になってしまいます。そこで距離と方角の解釈を様々に変えて、現在の二大学説である九州説と畿内説や、その他諸々の「ここが邪馬台国だ」が乱立しています。
どこが邪馬台国を考える前に、魏の使いが本当に邪馬台国まで行ったのかどうかに私は疑問を抱いています。今日の前半の仮説は
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魏の使いは邪馬台国まで行っていない
魏に限らず中国歴代王朝の周辺諸国に対する外交姿勢は朝貢外交です。周辺諸国は中国の形式的支配権を認め、中国王朝に対して貢物を捧げます。中国王朝は貢物の返礼にその数倍のお返しをすると言うのが朝貢外交です。見ようによっては金で友好を買うみたいな外交ですが、周辺諸国は実質的な統治権は握りながら、形式だけ従えば莫大な実利が入手できる旨みがあると言うものです。
周辺諸国と言っても、魏にとっての重みは変わるのですが、当時の日本と言うか邪馬台国は非常に軽かったと考えてよいと思います。そんな国にまで朝貢外交をやったのが中国外交の特徴ですが、そういう国への使いは外交上の重要な役割を担うというより、未開の国々の風物を報告する方に重点が置かれると考えます。今なら秘境探検レポートみたいなものでしょうか。
先ほど仮説として魏の使いは邪馬台国に行っていないとしましたが、日本には来ていると考えます。しかし邪馬台国までは多分行っていないと言うのが仮説になります。魏の使いの邪馬台国までのルートは、
このうちどこまで本当に行ったかです。邪馬台国の特定でネックになるのは奴国以降で、とくに「不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国」は水路も使われ非常に遠方であるような印象となっています。具体的には「不弥国 → 投馬国」へは、南のかた投馬國に至る。水行二十日
さらに「投馬国 → 邪馬台国」は、
南、邪馬壱國(邪馬台國)に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月
ただそれだけでない特徴も魏志倭人伝の記述に認められます。魏の使いにとって邪馬台国訪問は秘境探検みたいなものとしましたが、邪馬台国までに経由した国々の描写に格段の差がある事がわかります。これをまとめてみると、
国名 | 描写 |
対馬國 | 居る所絶島にして、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路はきんろくのこみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食いて自活し、船に乗りて南北に市てきす。 |
一大國 | 方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市てきす。 |
末盧國 | 四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚ふくを捕うるに、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 |
伊都国 | 千余戸有り。世王有るも皆女王國に統属す。郡の使の往来して常に駐る所なり。 |
奴国 | 二萬余戸有り |
不彌國 | 千余の家有り |
投馬國 | 五萬余戸ばかり有り |
邪馬台国 | 七萬余戸ばかり有り |
「対馬国 → 一支国 → 末盧国 → 伊都国」までは簡潔ながらその国の様子を描写しています。魏志倭人伝の構成は中盤の方で邪馬台国の風俗を別に記しているとは言え、伊都国までと奴国以降では描写が段違いである事がわかってもらえるかと思います。では奴国以降が描写に足りない小国であるかといえば、戸数に注目してピックアップすると、
国名 | 国の規模 |
対馬国 | 千余戸 |
一支国 | 三千(戸) |
末盧国 | 四千余戸 |
伊都国 | 千余戸 |
奴国 | 二万余戸 |
不弥国 | 千余戸 |
投馬国 | 五万余戸 |
邪馬台国 | 七万戸 |
伊都国から後の「奴国 → 不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国」この4つの国々は、不弥国以外は格段の大国である事がわかります。これだけの大国なのになんに描写していないのは極めて不自然です。さらにになりますが、経由諸国中で最小の伊都国に注目されます。この国は非常に重要な地位を占めているのが魏志倭人伝から読み取れます。
魏志倭人伝に「一大率」と言う記述があります。この一大率が昔から日本語の訓みが下らず人名説と官名説があるみたいですが、その権限とか機能の描写はかなり詳しくあります。まずですが、
女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。
一大卒が伊都国にいるにはわかります。その権威の強さは「諸國これを畏憚す」ですから、北九州一帯の支配者の様に魏の使いに見えたと考えて良いと思います。しかし伊都国の規模は最小の「千余戸」です。お隣の奴国は「二万余戸」で規模にして20倍ですし、地理的関係も、
東南のかた奴國に至ること百里
この一里が何メートルかも議論があって難しいところですが、「末盧国 → 伊都国」の距離が、
東南のかた陸行五百里にして、伊都國に至る
末盧国より近いイメージで書かれています。かなり近い国なのに邪馬台国の中では、
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伊都国 >> 奴国
さらに伊都国での一大率の仕事が注目されます。
王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、および郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず。
ここの「王」は伊都国の王であり、邪馬台国の一大率であると考えます。ここで一大率は魏に使いを出していますし、魏の使いを迎えている様子がわかります。とくに注目するのは、
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文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ
郡使往来常所駐
こう伊都国だけにわざわざ書いているのに意味があると考えます。ここの読み訓しは「郡の使の往来して常に駐る所なり」ですが、これは魏の使いが伊都国までしか行かずに「駐る所なり」と解釈するのが良いと考えます。魏の使いが伊都国までしか行っていないのなら、奴国以降の描写は魏の使いが伊都国で聞いた話であると解釈すれば話が分かりやすくなります。
魏の使いの本来の目的地は邪馬台国ですから、伊都国までしか行っていないにしろ邪馬台国までの道筋は聞いておく必要があります。ただ実際には行っていないので、通訳を介しての聞き取りになります。当時の通訳のレベル、日本語の表現力なんて想像するしかないのですが、かなりpoorなものが想定できますし、魏の使いにしても実際に行くわけでは無いので、それなりに書き記したのが魏志倭人伝はないかと考えます。
もうひとつ現実的な側面があります。魏の使いは帯方郡から末盧国まで魏の船で来たのはまず間違いありません。末盧国から邪馬台国までの道程は単純計算でも片道3ヶ月、往復6ヶ月以上必要です。これに歓迎儀式が追加されると1年ぐらい必要かもしれません。そんなに長い間、帯方郡から乗ってきた船を末盧国に置いておけるかの問題があります。
邪馬台国も魏に使いを送るぐらいですから、それなりの航海技術はあったでしょうが、当時の魏と日本の技術力、文明の度合いは隔絶しています。文明国から来た魏の使いが、帰りの船を日本の船に頼ろうとするかです。たぶんしないと思います。やはり帰りも信頼できる魏の船で帰ろうとするはずです。そのために半年から1年も船を末盧国に置いておくのはリスクが高すぎると思います。これが末盧国から伊都国への往復だけなら1ヶ月もあれば十分ではないでしょうか。
それと非常に気になるのが「伊都国」の名付けです。古代中国王朝が周辺の蛮国、蛮族を名付ける時は、音は取りますが卑しい字を当てます。邪馬台国はそうですし、卑弥呼もそうです。魏志倭人伝に記されている国々もその例に外れません。ところが伊都国だけは非常にまともと言うか、綺麗な当て字を使っています。
伊都は「イト」として訓まれていますが、別に「亥徒」でも良いわけです。「伊」の原義はよく知りませんが、旁に「尹」が入っており、夏商戦争の立役者である伊尹もいますから良い字と思います。「都」はもともと公室の廟があった邑に付けられたとされますが、それは元もとであり、魏志倭人伝でも魏の首都の事を「京都」としています。
魏の使者の感覚でも「都」の文字を使うほどの重要な国であったと考える事が出来ます。もう少し考えると、伊都国の一大率は魏に使者を度々送っています。形式的には邪馬台国からの使者になっていますが、実質は伊都国の一大率からの使者と考えても良いと思います。そのため伊都国の人間は文字を知っている者が少なからずいた可能性があるとも考えます。
文字を知るという事は文化も入ってくる事ですから、魏の使いから見れば野蛮国なりに「文化的」な国と見えたのかもしれません。文字を知る相手に卑しい国名を付け難いというのもありますし、もう一歩進んで考えれば、伊都国の人間が自ら字を当てた可能性もあります。魏の使いは何度も伊都国を訪れているのですから、国名の文字で不快感を与えるのも外交上宜しくないの感覚もあったかもしれません。
そうなると興味深いのは伊都国の宗主国とも言うべき邪馬台国です。これは見ただけで卑しい文字を当てていますが、伊都国の一大率は許容しています。もう少し言えば、宗主国の女王が卑弥呼であるのに、伊都国の王は「一大率」であり、これも悪い字ではありません。魏の使いが見た伊都国はそれぐらい立派と感じた可能性を考えます。
ここは妄想の領域になりますが、魏の使いが伊都国とし一大率と名付けた背景に、その勢威からやがて宗主国の邪馬台国に取って代わる予感と言うか期待もあったかもしれません。見知らぬ謎の宗主国である邪馬台国よりも、親交のある伊都国が倭の政権を握って欲しいと考えても別におかしくないからです。伊都国の一大率が「邪馬台国」も「卑弥呼」も容認した点に、そういう気配を感じ取った可能性も考えます。
とりあえずの結論ですが、
- 奴国以降の国々の描写の粗雑さ
- 伊都国での一大率の権限の大きさ
- 伊都国での魏の使いの扱い
- 伊都国と言う漢字の使い方
- 魏の使いの交通手段
さてと、そうなれば後半の仮説は、
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邪馬台国はどこ
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、使を遣わし、将って送りて京都に詣らしむ。 その年十二月、詔書して倭の女王に報じていわく、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方の太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝がある所遥かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し、装封して帯方の太守に付し仮綬せしむ。汝、それ種人を綏撫し、勉めて孝順をなせ。
景初二年は景初三年の誤りであるという説が一般的ですが、西暦238年から239年ごろのお話、つまり3世紀前半が卑弥呼の活躍時代です。日本史的にわかっているのは、3世紀の後半頃から古墳時代に入り、そこから引き続いてヤマト王権が成立したとされています。紆余曲折は山ほどあるにせよ、このヤマト王権の末裔が現在の天皇家にあたると古事記や日本書紀ではなっています。
現在の天皇家がどのあたりのヤマト王権から続いているかなんて記録の闇の彼方なんですが、どうも3世紀後半ぐらいから奈良にあるヤマト王権が日本の中心になって動く様になっていると考えられます。邪馬台国畿内説の一つでは、邪馬台国が畿内にあり、ヤマト王権の母体になったしています。確かに魏志倭人伝に書いてある邪馬台国の勢力の大きさからすると、うなづけない事はありません。
ただ問題は卑弥呼にしろ、卑弥呼の後を継いだ壱与にしろ女性です。これは魏の使いにしても奇異な風景であったのでしっかり記録しています。それがヤマト王権の記録である古事記にしろ、日本書紀にしろ反映されていない点があります。さらに伝説の初代天皇である神武天皇は九州から遠征して、畿内を征服した建国神話が記録されています。
神武東征神話は何事かを象徴していると考えたいところです。神武天皇はなぜわざわざ九州を捨てて、畿内を征服しなければならなかったかです。神武神話は天孫降臨から始まるのですが、地名が妙に具体的で、現在の宮崎県あたりが本拠地であったと考えられます。後から創作したと言い出せばキリが無いのですが、完全に創作するのなら地名も創作でよいはずです。
もう少し言えば創作なら天孫降臨神話も別に奈良であってもよいはずです。わざわざ九州の宮崎に天孫降臨神話を作り、さらに神武東征神話が残されたのは、実際に宮崎から畿内に神武勢力が攻め込んだ事を現しているとは考えても良さそうに思います。
神武天皇が宮崎勢力であるなら、これが邪馬台国の母体と考えるのも一つです。魏志倭人伝の「不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国」はひたすら南に行っています。日程をまともに取れば九州を越えてしまうというのが定説ですが、書いてある旅程はあくまでも日数であって距離ではありません。「不弥国 → 投馬国 → 邪馬台国」の間に経由すべき国がまったくなかったと考えるのが不自然で、これを省略したと考える事は可能です。
不弥国が北九州なりの一地方であったとして、そこから九州の東岸沿いに南下し、宮崎までの途中で経由する国々の実日数を魏の使いは伊都国で聞き記録したとも考えられます。場合によってはかなり煩雑な説明を伊都国の人間が行ったので、通訳が訳しきれず、かなり大雑把に省略して魏の使いに伝えた可能性は大です。当時の日本の人間に九州の概略図みたいなあったかどうかも疑問だからです。
それでも疑問は同じところに留まっています。なぜ神武は東征しなければならなかったかです。この辺は日本人の祖先は南方系の血も濃厚に混じっており、常に新天地を求めるからみたいなロマン的な解釈も可能ですが、「宮崎 = 邪馬台国」説なら、相当大きな国であった邪馬台国を捨てての遠征になります。やはりロマンだけでは無理があります。
やはりもっと現実的な解釈が欲しいところです。ここで思い出して欲しいのは伊都国の一大率です。一大率が大きな権力を握っているのは魏志倭人伝の記録の通りです。実質として北九州の王です。一方で宮崎邪馬台国説なら、卑弥呼は南九州の王です。卑弥呼、壱与の時代は一大率は邪馬台国に服していたようですが、壱与の死後はどうだと言うことです。
卑弥呼も壱与もシャーマン的な女王であったのは魏志倭人伝に記されています。古代における呪術は非常に怖れられ、神聖権威として諸国が畏服したとしてもおかしくありません。ただ呪術的権威は個人の力に依存し、卑弥呼の死後に、
男王を立てしも、國中服せず。更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。
これは卑弥呼の死によって呪術的権威が衰え諸国が反乱した様子に取れないこともありません。壱与が卑弥呼の後を継いで女王になって収まったとありますが、壱与が死ねば再び騒乱があるのも予想できます。壱与が死に適切な呪術の神聖権威の後継者が得られなかったら、北九州の王たる一大率が南九州に攻め込んでも不思議ありません。それぐらいの軍事力は一大率にあると考えられます。
この一大率に攻め込まれた壱与の後継者が神武ではないかと考えます。北から攻め寄せる一大率軍に劣勢を悟った神武は宮崎を余力あるうちに脱出し、畿内に新天地を求めたのではないかと考えます。新天地なら畿内の奈良まで行かなくとも、途中の広島なり、岡山あたりでも良さそうなものですが、その辺は一大率の勢力圏であったか、神武勢力ではとても勝てないと判断したかのどちらかだと思います。
ここはもう少し想像の翼を広げられるところで、常識的に当時の先進地帯は北九州のはずです。文化も高く人口も多かったのは一大率支配下の北九州であったかと思います。それに対し南九州の邪馬台国は呪術による神聖権威で支配していた構図かと考えます。古代であればあるほど、そういう事は可能になるかと思います。
神聖王国である邪馬台国ですから、魏の使者も行かなかったのもありますが、行かせなかったのもあるかと思います。魏志倭人伝の伊都国から邪馬台国の道程が説明不能なほど日数がかかっているのは、道程を伝えた伊都国の人間が、神聖王国に北九州の人間が入国するのに必要な数々の儀式のための日数を加えていた可能性も考えます。
ただ純粋の軍事力なら北九州の方が優勢で、なおかつ邪馬台国自体も卑弥呼の神聖権威による求心力で成立していたので、シャーマンとして優れた王が君臨しないとバラバラになる国でもあったと考えます。神武は卑弥呼の王族ではあったでしょうが、卑弥呼のように神聖権威としての支配力を北九州に及ぼせず、北九州の一大率軍に抵抗しきれなかったと見ます。
一大率の反乱理由は何になりますが、神聖支配とは言え古代の支配構造ですから基本的に収奪支配でしょうし、収奪がそれほどでもなくとも、魏の交易の旨みを独占したいとかの理由はあっても良いと思います。もっと単純に魏からの贈り物の財宝が欲しかったもあると思います。戦争の理由なんていくらでもありますからね。
神武が故郷宮崎を逃げ出さざるを得ない理由はそうするにしろ、神武神話に卑弥呼も壱与もいない理由は何かになります。邪馬台国は呪術的権威が必要な国ですが、神武は卑弥呼や壱与に及ばなかったと仮定しています。それでも神武東征軍には呪術的権威による統率が必要であったと考えます。呪術的才能に劣る神武が神聖権威を持つには、卑弥呼と壱与を神に仕立て上げ、自分を神の子の一族としたんじゃないと考えます。
神武が本拠地宮崎から逃げ出すにしろ、一族には理由を説明しなければなりません。故郷の地を捨てる決断ですから、合理的な戦略論を説いたところで始まりません。自分に呪術的権威がないので、かつての大呪術者であり女王であった卑弥呼や壱与の神聖権威を借りる必要があります。そのため最初は死後に神になった卑弥呼や壱与のお告げとして説得し、これが変形して卑弥呼や壱与は神話の中で天照大神になったと考えればどうでしょうか。
神武の東征も神話では短期間ですが、実際は下手すると世代をまたいでの抗争となり、そういう戦争状態の中で卑弥呼や壱与は天照大神に祀り上げられ、神武一族の結束の象徴になったとしても良いかもしれません。
ここで卑弥呼と壱与は二人なのに、天照大神は1人ではないかの指摘はあると思います。その通りなのですが、そもそも卑弥呼は「日御子」と考えています。つまり尊称であって人名で無いという事です。魏志倭人伝の卑弥呼も尊称名であって他に本名はあり、従って壱与も「日御子」であるわけです。神武東征軍の神話形成の中で二人の日御子は一人になっても別に不都合はありません。
それでもって卑弥呼と壱与の「日御子」は神となりましたが、神武は「日御子」になったと考えます。古代天皇が太陽に例えられ、皇太子の事を「日継皇子」とされています。これは現在でも受け継がれ、これは通信用語の基礎知識様からですが、
皇太子また、将来天皇の位を継ぐ皇子のことを「皇太子」と呼ぶが、かつては、皇太子殿下を「東宮」または「日継皇子(ひつぎのみこ)」と呼んでいた。
東宮は東宮御所に名残りがあり、日継皇子は古式ゆかしい皇室行事の際に今でも使われている。皇太子妃は「日継皇子妃(ひつぎのみこのひめ)」。
皇太子が「日継皇子」であるなら、天皇が「日御子」であっても不思議ないわけです。もうちょっと付け加えると宮崎の旧国名は日向です。つまり「日の向くところ」であり、日に因む国名であると同時に、かつての日向の領域は現在の宮崎県だけではなく鹿児島県も加えたものです。まさに南九州の王に相応しい広さです。
後から後から思いつく事を書き足しているのでまとまりが悪いのは御容赦頂きたいのですが、神武一族が日向を捨てた理由は、一大率との抗争のほかに、もう一つ考えられます。日向の邪馬台国も元は北九州からの進出の可能性が強いところです。邪馬台国はもともと伊都国からの遠征軍が立てた国ではないかと言う考え方です。
本来は本家が伊都国で、分家が邪馬台国であったのが、邪馬台国が神聖王国化し、伊都国がその下風に付いたと考える事は可能です。しかし神聖権威は個人的な才能に頼るものであり、壱与の死後、先住民族の反乱を招いた可能性です。反乱の鎮圧が難しくなった時点で、邪馬台国を捨てて新天地を神武一族が求めたとするのも自然です。
この説の信憑性と言うほどではありませんが、ヤマト王権成立後も北九州は基本的に従っています。反乱を起すのは南九州であり、北九州はかなり従順にヤマト王権に従っていると感じます。これは北九州の王とも呼べる伊都国と畿内のヤマト王権が同族であったためとも考える事は可能です。だから北九州勢力は従ったというより、当初は同盟ないし友好関係であったとも見れるかもしれません。
あくまでも今日のお話は知的ムックに過ぎませんので、その辺は十分にご斟酌下さい。皆様が楽しいお盆を過ごされる事を祈りながら、休題とさせて頂きます。