日曜閑話31

今日のお題は「輪湖時代」です。「輪湖ってなんじゃ?」との質問もとんできそうですが、大相撲の思い出と言えばわかって頂けるでしょうか。とりあえず相撲と言えば、子供心にまず記憶の残っているのは大鵬です。大鵬も晩年の頃ですが、人気は絶大で当時に残されている言葉として、

子供が大好きなものの3つの内に数えられているほどの国民的英雄であったとしても過言ではありません。祖父が相撲好きであった事もあり、なんと大鵬の時代から家にはカラーテレビがあり、これを見ていた記憶がおぼろげながらあります。大鵬といえば柏戸になり柏鵬時代という事になりますが、柏戸の記憶はありません。柏戸の引退は1969年の7月場所となっていますから、見た事ぐらいはあるはずなのですが残念ながら見事に抜け落ちています。

一方で大鵬の45連勝が途絶えたのは何となく記憶にあり、これが1969年の3月場所となっていますから、子供の記憶とはそんなものかと思っています。そんな大鵬も衰えは来ます。当時の新鋭横綱として北の富士玉の海が台頭し、北玉時代到来かとも書かれていましたが、依然大鵬は強く、ある程度の期間は鼎立状態であったと思っています。

貴ノ花に敗れて引退した相撲も記憶の端に残っています。その後に北の富士玉の海の北玉時代が到来しなかったのは周知の通りです。将来を嘱望された玉の海の急死により、やってきたのは北の富士時代になります。ただ北の富士は「時代」と言うほど圧倒的な強さを見せつけず、やがて輪島、さらには北の湖の時代に移ります。大相撲史に残る輪湖時代です。

これも当初は貴ノ花、輪島の貴輪時代の到来が喧伝されたのですが、大関昇進こそ同時でしたが、輪島がサラッと横綱に昇進したのに対し、貴ノ花は結局横綱に昇進できなったばかりか、北の湖に蹴散らされる様に追い越されて、名大関と言う脇役に甘んじる事になります。この輪湖時代が今のところ最後の二強時代とされています。

二強時代は相撲人気を非常に高めます。古くは栃若時代、柏鵬時代とありましたが、柏鵬時代は柏戸の怪我の多さにより実質二強とは必ずしも言いにくく、栃若時代はさすがに知りませんが、輪湖時代が見た中で典型的な二強時代と言っても良いと考えています。現在の朝青龍白鵬も好敵手ですが、朝青龍がもうちょっと頑張らないと朝白時代にならず、単に白鵬時代になってしまいます。

「蔵前の星」「黄金の左」とも呼ばれた輪島は学生横綱出身で1970年1月場所初土俵、1970年5月場所には十両昇進、1971年の1月場所には幕内昇進、1972年11月場所には大関、1973年7月場所には横綱と超スピードで出世し、史上初の学生横綱からの横綱となっています。本名で横綱になった唯一の関取だったと記憶しています。

一方「北の怪童」北の湖は1967年1月場所初土俵で、1971年5月場所で十両昇進、1971年1月場所に入幕、1974年3月場所に大関、1974年9月場所に横綱です。輪島の半年から1年ぐらいい後を猛スピードで追っかけているのがわかります。北の湖の昇進速度は猛烈で、当時の最年少記録をかなり書き換えています。後に貴乃花がかなり書き換えましたが、現在でも横綱昇進の最年少記録は保持しています。

北の湖横綱になったときが21歳の時であり、この時輪島は26歳です。相撲で5歳の年の差は大きいですが、円熟の輪島と、新進気鋭の北の湖が鎬を削る事になります。北の湖と輪島の覇権争いは1974年に北の湖横綱に驀進している頃からあり、

場所 輪島 北の湖 参考
1974 1月場所 12勝3敗 14勝1敗 *
3月場所 12勝3敗 10勝5敗 *
5月場所 10勝5敗 13勝2敗 *
7月場所 13勝2敗 13勝2敗 北の湖との優勝決定戦を制す。
9月場所 14勝1敗 11勝4敗 *
11月場所 9勝6敗 12勝3敗 魁傑が12勝3敗で優勝。


北の湖1月場所が関脇、3月場所で大関になり、9月場所には横綱になっています。北の湖横綱昇進前からこれだけ火花を散らしているのですから、両者が横綱に並び立てば、相撲ファン待望の二強時代がすぐにも実現すと思われていました。ところがギッチョン、先輩横綱の輪島1974年の11月場所から極度のスランプに陥ります。

場所 輪島
1975 1月場所 10勝5敗
3月場所 0勝4敗11休
5月場所 0勝3敗12休
7月場所 休場
9月場所 10勝5敗
11月場所 11勝4敗


とくに3月場所から7月場所にかけてはひどく、引退危機まで真剣に囁かれる始末になります。そいじゃ北の湖の独走かと言えばそうでもなく、

場所 北の湖 参考
1975 1月場所 12勝3敗 *
3月場所 13勝2敗 貴ノ花が13勝2敗で優勝。北の湖、優勝決定戦で敗退。
5月場所 13勝2敗 *
7月場所 9勝6敗 金剛が13勝2敗で優勝。
9月場所 12勝3敗 貴ノ花が12勝3敗で優勝。北の湖、優勝決定戦で敗退。
11月場所 12勝3敗 三重ノ海が13勝2敗で優勝。


成績自体は優勝2回、優勝決定戦2回出場(2度とも敗退)で、7月場所を除いて横綱の責任を十分に果たす活躍をしていますが、北の湖時代といえるほどの圧倒的な強さではなく、むしろ「プリンス」貴ノ花横綱昇進への期待に揺れた年と言っても良いかと思います。思えば、この年が貴ノ花横綱にもっとも近づいた年であったと思います。以後は輪湖二強のために遠い夢となります。

引退まで囁かれた輪島ですが、休場後から復活の兆しを見せます。そして典型的な二強時代とも言える1976年、1977年が訪れます。

場所 輪島 北の湖 参考
1976 1月場所 12勝3敗 13勝2敗 輪島との千秋楽横綱相星決戦を制す。
3月場所 13勝2敗 10勝5敗 旭國との優勝決定戦を制す。
5月場所 13勝2敗 13勝2敗 輪島との優勝決定戦を制す。
7月場所 14勝1敗 12勝3敗
9月場所 12勝3敗 10勝5敗 魁傑14勝1敗で優勝
11月場所 13勝2敗 14勝1敗 輪島との千秋楽横綱相星決戦を制す。
1977 1月場所 13勝2敗 12勝3敗 北の湖との千秋楽横綱相星決戦を制す。
3月場所 12勝3敗 15勝0敗
5月場所 11勝4敗 12勝3敗 若三杉13勝2敗で優勝
7月場所 15勝0敗 13勝2敗
9月場所 10勝5敗 15勝0敗
11月場所 14勝1敗 13勝2敗 北の湖との千秋楽横綱相星決戦を制す。


12場所のうち5場所づつを輪島と北の湖が制し、残りは魁傑と若三杉が優勝しています。また輪島、北の湖の10回の優勝のうち
  1. 優勝決定戦が1回
  2. 千秋楽相星決戦が4回
優勝回数でも掛け値無しの二強だったのですが、その取り組み内容もまさに二強対決に相応しいものでした。二人の取り口ですが、輪島は左四つからの左下手投げを得意とし、その威力は「黄金の左」の異名を取っています。北の湖は左四つからの相手を吹き飛ばすような右上手投げに強烈な破壊力を持っていました。

左四つ同士の取り組みですが、輪島は右を浅く差して、北の湖に左下手を与えず、右から搾り上げていき、北の湖が焦れて強引に右上手投げを打ったところに、「黄金の左」からの左下手投げを打ち返して崩すというのが勝ちパターンです。一方の北の湖は左下手を引いてガップリになれば万全で、こうなれば輪島とて歯が立たない状態になります。

輪島の相撲のセンスはまさに天才で、この二強時代には北の湖に容易にガップリ四つを許さず、全盛期に登りつめようとする北の湖の前に大きな壁として立ちはだかる事になります。しかし1978年になると北の湖の実力はさらにパワーアップするのに対して、輪島に衰えが現れる事になります。怪我もあったのですが、北の湖戦で勝てるだけの持久力に欠けてくることになります。

持久力とは対北の湖戦の勝ちパターンであった、北の湖に左の下手を与えず右から搾り上げる持久力のことです。輪島−北の湖戦は輪島のうまさにより、殆んどが北の湖に左下手を与えない展開になりましたが、輪島が北の湖を右から搾りきれなくなり、輪島の持久力が切れかけた頃に北の湖が左の差し手を引いてガップリになり、そなまま北の湖が押しきる展開になってしまったと言う事です。


場所 輪島 北の湖 参考
1978 1月場所 10勝5敗 15勝0敗 *
3月場所 1勝1敗13休 13勝2敗 *
5月場所 9勝6敗 14勝1敗 *
7月場所 14勝1敗 15勝0敗 *
9月場所 1勝3敗11休 14勝1敗 *
11月場所 13勝2敗 11勝4敗 2代目若乃花が14勝1敗で優勝。


この5連覇を飾った1978年から1979年あたりが北の湖の全盛時代でです。輪島も1978年には30歳になっており、時代は完全に北の湖の時代と考えられ、北の湖に勝てず、休場も増えた輪島の引退時期が囁かれる事になります。しかし輪島はもう一度技を磨いて存在感を示す事になります。輪島は左四つからの「黄金の左」の左下手投げが決め技でしたが、この頃より右四つに著しい進歩を見せることになります。

それまでの輪島は右四つがやや不得手で、右四つ組まれてしまうとやや脆いところがあったとされます。もちろん輪島のうまさは相手に右四つを組ませないところにあるのですが、それでも組まれてしまうと弱点といった所です。力の衰えを自覚した輪島は不得意であった右四つを自分の物にすることにより、とくに下位力士に対する抜群の安定感を得る事になります。

場所 輪島 北の湖 参考
1979 1月場所 10勝5敗 14勝1敗 *
3月場所 12勝3敗 15勝0敗 *
5月場所 12勝3敗 13勝2敗 2代目若乃花が14勝1敗で優勝。
7月場所 14勝1敗 12勝3敗
9月場所 10勝5敗 13勝2敗 *
11月場所 10勝6敗 10勝5敗 三重ノ海がが14勝1敗で優勝。


輪島が北の湖と互角以上に張り合っていた時代からするとやや寂しい成績とは言えますが、当時の印象として輪島の安定感は横綱としての風格を十分に保っていたと記憶しています。当時の北の湖は「不沈艦」とも「モンスター」とも呼ばれるぐらいの圧倒的な強さを見せつけていましたが、無茶苦茶強い一方で、思わぬところで下位力士に取りこぼす一面があり、輪島の安定感が際立っていたと言えばよいでしょうか。

さすがの輪島も以後は完全に下り坂になり、1980年11月場所に最後の優勝(14回目)を飾った後、1981年の3月場所に引退しています。北の湖も実は輪島引退頃から下降線に確実に入ります。1981年はまだまだ強くて2回の優勝と安定した成績を残しましたが、11月場所から休場が目立つようになり、1985年1月場所まで現役を続けましたが、1982年からは2回の優勝しか記録できなくなっています。


時に大鵬と並び称される昭和の大横綱北の湖ですが、優勝回数は24回です。当時は大鵬の32回に次ぐ2位の記録でしたが、その後に千代の富士が31回、貴乃花が23回、朝青龍も23回となっています。では北の湖千代の富士貴乃花朝青龍と同列の横綱かと言われれば、リアルタイムで見た人間からすると少し疑問符が付きます。ましてや千代の富士の優勝回数は31回だから「千代の富士 > 北の湖」かと言われれば正直どうだろうと思ってしまいます。

北の湖千代の富士貴乃花さらには朝青龍との違いは好敵手がいたかどうかの印象でかなり違うと思っています。千代の富士が強かったのもリアルタイムで知っていますが、ついに鎬を削る好敵手に恵まれなかったのは不運といえば不運なところです。好敵手がいない状態で強さを保つ事の難しさはよく言われますし、理解もできるのですが、見ているほうの印象としてどうしてもインパクトに欠けます。

貴乃花も曙や武蔵丸と言う好敵手はいましたが、印象としてはかなり薄く、事実上の一強時代を作ったと見ています。朝青龍もようやく白鵬が台頭して好敵手になっていますが、肝心の朝青龍に衰えが出てきています。朝青龍の優勝記録も一強時代にその殆んどが積み重ねられていると感じます。


一方で北の湖の好敵手の輪島は強大です。輪島の優勝回数14回のうち北の湖が台頭してからのものだけで10回を数えます。もちろん北の湖も輪島を相手に20回の優勝を記録していますが、当時の北の湖の頭抜けた実力からして輪島がいなければの「if」がどうしても想定される状態とも思っています。北の湖の性格からして、輪島がいなくても一強時代を築ける能力はあったと考えていますし、そうなれば優勝回数は大鵬すらしのいだ可能性は十分あると思っています。

ただこれを北の湖の不運と見るかどうかは別です。相撲の華は一強独走より、二強拮抗の方が遥に盛り上がります。おそらく土俵の上で相撲を取っている横綱もそうだと考えています。「なんとかアイツに勝とう」と強大なライバルに思いを巡らせながらの土俵人生はやはり幸せだったと考えています。北斗の拳ではありませんが「強敵」は「友」でもあるからです。孤高であるよりも友がいるほうが楽しいのは人間の常ですし、「強敵」と言う「友」なら格闘技者にとって最高と見ることもできます。


輪島はどうであったかになります。輪島は北の湖と違い一強時代を作れる能力に欠けると見ます。北の湖の出現が無ければ、1975年の低迷時代に引退していてもおかしくないと考えています。輪島が相撲の天才であるのは論を待ちませんが、輪島の天才性は互角の好敵手を持つことにより初めて発揮されると考えています。

スランプを脱出できたのも強大すぎるライバルである北の湖によると考えて間違いないでしょう。輪島は強敵の北の湖に対抗するために、自らの天才性を磨き上げ、稀代の大横綱北の湖と時に互角以上に戦えるところまで自分を高めたと言っても良さそうな気がします。そうして築かれたのが輪湖時代であったと考えています。


相撲人気は残念ながら最近振るいません。理由は数々あると思うのですが、かつてのように本場所があれば必ず中継番組が、どこの家でも見ているのが当たり前の時代ではなくなっています。それでもプロレスの様にこのまま衰退するかと言われれば、まだまだ希望は持っています。大相撲も長い歴史の中で何度も人気低迷による危機を経験していますが、その度に盛り返してきた歴史があるからです。

ではでは、今日はこの辺で休題にさせて頂きます。