日曜閑話30

今日のお題は「将棋」です。現在最強の棋士はと言われればこれは異論無く羽生善治です。それも比較的で強いというより、絶対の強者として棋界に君臨していると言えます。また羽生こそ歴代最強の棋士とする評価も有ります。理由は明快で、将棋は歴代の棋士が研究を重ね、新戦術が日々生み出され進化する競技であり、当然の事として現在のレベルが歴代で最高峰であり、最高峰の中の最強の羽生は史上最強であるとの説明です。

羽生が最強であると結論して今日の閑話を終わるのも一つですが、それでは退屈なので屁理屈をこねる事にします。競技にはその強さを測る物差しとして客観と主観によるものがあります。客観と主観とは我ながら拙い表現ですが、客観とは陸上競技や水泳のように明らかな記録で測定される競技です。一番速い者、一番高く飛べる者、一番遠くまで飛べる者が客観的な記録として刻まれる競技です。

主観とは戦績と言うか成績で比較される競技です。2004年にイチローが大リーグのシーズン最多安打を更新したことを覚えている方は多いかと思います。更新した記録は84年前の1920年ジョージ・シスラーが記録したもので、当然の事ですが1920年とは野球のレベルも、ライバルの力量も、試合環境も、年間試合数も異なるのに同等の記録として扱われます。

将棋も強さの比較には客観よりも主観が重い競技と私は考えますし、そうしないと今日の話は続きませんから、歴代の棋士の中で羽生より強い棋士は存在したかどうかを考えることにします。


将棋といえばタイトルですし、タイトルといえば名人位ですが、初代(一世)名人は大橋宗桂と記録されています。「三桂あって詰まぬことなし」の言葉が残されている名人です。名人位は江戸期になり定められ、幕府の将棋所で大橋家、大橋分家、伊藤家の三家が争いながら世襲したとされています。江戸期の名人位は、

    一世名人 初代大橋宗桂:慶長17年(1612年)に江戸幕府より俸禄を与えられた
    二世名人 二代目大橋宗古:寛永11年(1634年)に襲位
    三世名人 初代伊藤宗看:承応3年(1654年)に襲位
    四世名人 五代目大橋宗桂:元禄4年(1691年)に襲位
    五世名人 二代目伊藤宗印:正徳3年(1713年)に襲位
    六世名人 三代目大橋宗与:享保8年(1723年)に襲位
    七世名人 三代目伊藤宗看:享保13年(1728年)に襲位
    八世名人 九代目大橋宗桂:寛政元年(1789年)に襲位
    九世名人 六代目大橋宗英:寛政11年(1799年)に襲位
    十世名人 六代目伊藤宗看:文政8年(1825年)に襲位

大抵はこういう世襲制になると弱くなる事が多いのですが、江戸期の名人は強かったとされます。将棋は庶民の娯楽でもあり、そのために民間にも強い棋士が出現するため、将棋所の名人は常にこれを凌ぐ実力がある事を要求されたためと言われています。世襲で名人になっても、将軍の気まぐれで民間の強者と対戦させられ負けようものなら大変な事になるからです。

もう一つ特徴は江戸期の名人は世襲制であるため終身制であったことです。江戸幕府の瓦解とともに将棋所もなくなります。そのため十世名人の六代目伊藤宗看の死後、30年以上にわたって空位であった時代が出現する事になります。明治初期の混乱期に将棋どころでなかったと言う事でしょう。それでも将棋は庶民の娯楽ですから、世間が少し落ち着けば名人位復活の動きが起こり、十一世名人に八代目伊藤宗印がなります。

実はここから将棋界の激動が起こることになります。名人位は江戸期を通じて家元三家(大橋家、大橋分家、伊藤家)のものでしたが、幕府の瓦解によりこれらの家は衰えます。家元の中で唯一の生き残りが十一世名人八代目伊藤宗印だったのですが、明治の新時代に家元世襲に異論を唱えたのが小野五平です。

八代目伊藤宗印と激しい抗争劇が行われたとされますが、宗印死後に小野五平はついに家元以外から初の名人として十二世名人に就く事になります。名人位が民間に下りた大事件とされます。そして舞台は小野名人の後継者を争う時代に入ります。この時代の話は誰でも知っているぐらい有名な話で、あの阪田三吉が活躍する時代です。

後継者の一番手は前名人八代目伊藤宗印の門下生の関根金次郎です。関根がいかに強かったかは阪田三吉が終生のライバルとした事でわかります。関根と阪田はライバルとされますが、戦績的には関根が常に優位であり、後継は関根と言う流れは確実にあったとされます。しかし問題は当時の名人位は終身制であったことです。

終身制と言っても必ずしも死ぬまで名人位に留まらなければならないわけではなく、実力が衰えれば自ら「退隠」するというのは江戸期からあったそうです。しかし小野五平は死ぬまで名人位に執着する事になります。一説には後継者と目される関根が宿敵伊藤宗印の弟子である事から、名人位を譲るのを嫌ったためともされます。

小野五平が名人を譲らなくとも寿命が来れば名人交代なんですが、なんとなんと91歳まで小野名人は生きる事になり、関根は延々と待ちぼうけを食らうことになります。さらに拙いことに待っているうちに関根の棋力自体に衰えが出てくることになります。小野名人の後継争いが本格化する頃には、晩成型であった阪田に2勝4敗(阪田八段昇進後)と負け越すところまでになってしまったのです。

 ちょっとだけ注釈なんですが、関根、阪田が活躍した時代の段位の重さは今とは少々違います。段位が違えば平手で指すことさえ出来ないぐらいの重みであったとされます。そのため指しこみ制と言われる勝負法がポピュラーで、後の木村十四世名人の名人位挑戦の時にも採用されていますし、初期の王将戦でも変形ですが採用されています。

 頂点は名人ですが、当時の八段は「准名人」として扱われ、名人を襲位する最低限の条件は八段昇進と言っても良いと思います。この名残は現在も引き継がれ、A級順位戦に昇進すれば自動的に八段になれるのは、名人位挑戦に一番近いところに位置するためと私は解釈しています。現在は八段が多くなりすぎて価値が少し落ちましたが、関根、阪田時代の八段は大権威であったと考えられます。

戯曲「王将」では関根と阪田の一騎打ちの様相になっていますが、実際はこの二人に加えて土居市太郎、小菅剣之助も加えた4人の争いになっています。一番手関根に対して阪田は八段昇進後の成績で勝ち越し、また関根は小菅に分が悪く、土居は重要な対局で阪田に勝っています。こういう状況でしたが、関根には十分な政治力があり小野名人の死後待望の十三世名人位に就任しています。

事情としては小菅は既に実業界に転じて名人位に余り興味が無く、土居は師匠の関根を立てるの説得に応じ、阪田は自らの無学を恥じたのか早々に関根の名人位就任を支持しています。ただ世間の目は関根に厳しく、「関根は最強ではないのに政治力で名人になった」の声さえ寄せられる事になります。関根はこの時51歳。もう少し早く小野名人から名人位を譲り受ける事が出来ていれば実力でも文句なしであったのに、この批判に応えなければならなくなります。

ただ小野名人から関根名人への抗争劇は名人位に大きな改革を起します。関根は70歳まで名人位に留まりましたが、次期名人は実力制にするとしたのです。現在に続く実力名人制の始まりです。この時に名人位を継いだのが十四世名人木村義雄です。木村は「無敵将軍」とまで言われる無類の強さを発揮し、戦前戦中戦後にかけて無類の強さを発揮します。

どれぐらい強かったかですが、名人になってから10年間、平手で負けたのは第2期名人戦の土居市太郎に千日手指し直し2回の末敗れた1局のみと言う物凄さです。木村は1937年に名人になり、1952年に引退するまで15年間で8期の名人位を保持しましたが、木村の圧倒的な強さの前に他の棋士が切歯扼腕してレベルアップした時代とも言えます。

木村にまず立ち向かったのは塚田正夫、1947年についに木村の牙城を崩し名人位を獲得しています。木村は2年後の1949年に奪還しますが、1952年に大山康晴に敗れ引退しています。そして将棋界にあの大山時代が訪れる事になります。


名人位挑戦システムは幾多の変遷があるのですが、今に続くA級順位戦は1947年から始まっています。第一期はA級(八段)14名、B級(六、七段)15名、C級(四、五段)29名で行なわれ、当時六段であった大山はB級に参加し11勝3敗の2位で七段に昇進しています。1948年は大山はB級1位だったのですが、この年はA級、B級、C級の優勝者がバラマス式の挑戦者決定戦を行い、これも有名な高野山の決戦でA級優勝者の升田幸三を退け名人位挑戦まで駒を進めています。

この1948年は当時の塚田名人に2勝4敗、1950年には木村名人に2勝4敗と敗れますが、1952年に木村名人から4勝1敗で名人位を奪うとそのまま5連覇して十五世名人を名乗る資格を獲得します。1957年から1959年にかけて鬼才升田幸三と火花を散らす名人位争いを繰り広げますが、1959年に升田から名人位を奪還した大山は、1972年に中原誠に敗れるまで延々と名人位(通算18期)を保持する事になります。

将棋界のタイトルは当初名人位だけでしたが、1950年に王将戦九段戦(後に十段戦になり現在は竜王戦)、1960年に王位戦、1962年に棋聖戦とタイトルが増えていきます。大山は'59に升田に続いて全冠制覇(三冠王)、'60に王位戦が創設されると四冠王、'62に棋聖戦ができると早速奪取し五冠王、その年に王将戦二上達也に奪われますが翌年すぐに奪取し、'62〜'64まで五冠王を保持し続けます。その後も二上達也、山田道美、加藤一二三内藤国雄にわずかにタイトルを譲る事はあってもその殆どは翌年にはすぐ奪取しています。

最後に五冠を独占したのが'70、将棋界の「若き太陽」と言われた中原誠の前に徐々にとタイトルを奪われていきますが、中原に敗れた'72にはもう49歳になっていた事を考えるとこれだけでも驚異的な強さと言えます。前時代の「無敵将軍」木村義雄が47歳で引退した事と比較してもその衰えを知らない強さに驚嘆の念を禁じえません。

ちなみに升田から名人位を奪還した'59から'71までのタイトル戦が68期、そのうち56期を制していますので、なんとタイトル独占率8割2分4厘となります。たった12回しかタイトル戦に負けるもしくは出場しなかっただけですから、いかにその実力が群を抜いていたかがわかります。


大山を退けた中原誠は次々にタイトルを奪取していきます。大山は何故か中原には終生相性が悪く、天敵としか言い様が無く、どうしても中原には勝てない状態が続きます。もっとも50歳を越えた大山に力の衰えが出るのはあまりにも当然であり、長かった大山時代は終わり、中原が棋界を制覇する中原時代になったので誰も不思議は無いと思われていました。

その流れからだと思います、'76に異例の事ながら十五世名人を襲名しています。何が異例かわかりにくいでしょうが、この称号は通常現役中は襲名しないのが慣例なのです。現在でも中原誠が十六世名人、谷川浩司が十七世名人、森内俊之が十八世名人、羽生善治が十九世名人を名乗る資格を持っていますが、決して公式の場では使われません。

名乗る資格を持っているだけで、まだ正式には襲名していないからです。大山はまだA級棋士であり、棋聖位を保持していましたが、その抜群の成績とまだ余力のあるうちに栄誉を飾ってあげたいとの意向だからだと考えられます。さらに'77には将棋連盟会長に就任しています。この職は歴代棋界の一線を引いた棋士がなるのもまた慣例です。またこの職は激務であり、とても各棋戦を転戦しながら片手間に出来る仕事ではなく、相撲なら相撲協会理事長と考えれば良いと思います。

この年7期連続保持していた棋聖位を苦手の中原誠に奪われ再び無冠となった大山は、かつての木村義雄のように名誉ある花道を周囲から敷かれ尽くされたのです。それでも大山は将棋に執念を燃やし続けます。

将棋連盟会長という激職を'88まで誠実に勤め上げる一方で、各棋戦に奮戦します。この頃から大山が愛用した戦法は振飛車戦法です。この戦法は序盤戦の駆け引きが比較的少なく、ある程度まではあまり指し手が変わらない特徴があるのだそうで、当時の大山の対局風景はまさに異様であったと伝えられます。

常に将棋連盟から連絡、呼び出しがあるので、対局場には常にギリギリに駆け込むように現れ、パパッと何手か指すと打ち合わせの電話応対に行き、また何手か指すと対局場の控え室で打ち合わせの会議、走って戻ってくると相手の顔も見ずまた何手か指しの状態であったそうです。それどころか対局場にも直接打ち合わせに来る人もおり、対戦相手そっちのけで相談をしている風景はありふれたものであったそうです。

それでも大山は勝ち続けます。'79には57歳で王将位を奪還し3連覇を飾っています。A級も50歳で名人位を奪われ61歳までの11年間の間に負け越したのは60歳の時に4勝5敗が一度あっただけで他はすべて勝ち越しています。


'84、62歳になった大山は病魔に倒れます。肝臓癌で一年の休場を余儀なくされるのです。さすがの大山も今度ばかりは再起は難しいだろうと誰しも考えましたが、'85に再びA級に戻った大山は驚く無かれ6勝3敗で米長邦雄加藤一二三と並んで挑戦者決定のプレイオフに残り、加藤一二三千日手指しなおしの末破り、さらに米長邦雄を撃破して'73から11年ぶりに名人位挑戦権を獲得することになります。

相手はまたもや中原誠、さすがに1勝4敗で一蹴されましたが、63歳での名人位挑戦は史上最高年齢であり、これに並ぶ者はおそらく2度と出るまいと言われていますし、私もそう思います。もし名人戦の相手が天敵中原で無く、比較的相性の良い米長邦雄加藤一二三が相手なら勝っていたかも知れないと想像したりもするぐらいです。

名人戦挑戦の後、ようやく大山にも衰えが見えてきたとの評が立ちます。'87には3勝6敗に終わり順位は降格ギリギリの8位、'88には6勝3敗と持ち直しましたが、平成に入り'89は序盤1勝4敗から後半何とか挽回して4勝5敗、、'90にはいきなり5連敗を喫し、絶体絶命の窮地から4連勝でなんとか降格を免れますが、「限界」の声もささやかれるようになります。もっとも「限界」と言っても68歳の人間をつかまえて「年齢による衰え」を言ったところで笑い話にしか過ぎないのですが、ついに大名人大山の引退の時が来たかと思われていました。


本当の最後は第一局で田中寅彦八段に敗れた後、現役のまま死亡引退した翌年('92)なのですが、実質フルで戦った最後の順位戦が'91です。

序盤戦は石田和雄南芳一にいきなり連敗、早くも危機説が流れましたが、その後塚田泰明、内藤国雄に連勝してタイに戻したのも束の間、第5局有吉道夫に敗れ再び苦しい星勘定になります。第6局の小林健二も難敵ですが、その後に続く高橋道雄、米長邦雄谷川浩司を相手にはたしてA級の地位を守り続ける事ができるかが焦点となります。

その頃大山は肝臓癌が再発しており、病を押しての対局です。手術治療の合間を縫っての対局で、まず小林健二を一蹴し、その後この年の名人位挑戦者高橋、前年度名人位挑戦者米長、当時四冠であった谷川を最終局で撃破しなんと名人位挑戦者決定戦にまで駒を進めることになります。さすがにここでは勝てませんでしたが、当時の折り紙付の強豪である高橋、米長、谷川を相手の3連勝は鬼気迫るものがあります。

そもそもA級順位戦とは当代の棋界の最強棋士(名人を除く)10人による頂上決戦で、数ある棋士の中でA級になることさえまず夢なんです。1期でもA級に属せば、無条件に八段に昇進ですし、元A級棋士として特別の敬意が払われます。またその勝負は将棋界の至高の地位である名人位への挑戦権を争うもので、他の棋戦とはまた別格のガチンコの真剣勝負が行なわれます。

大山がA級で戦った相手、また勝負にかける気迫は花相撲の記念対局みたいなものではなく、棋士たちがその棋士生命を燃やし尽くす極限の勝負の場での勝利ですから、その価値はどこをどう取っても掛け値なしのものです。大山は文字通り69歳で死ぬまで現役であり、死ぬまで超一流であった証明を鮮やかに残す事になります。



大山の凄まじい記録を延々と紹介しましたが、今日はテーマは大山は羽生に匹敵するかです。大山と羽生の直接対決はあったとされ、羽生が勝ったと聞いた事はあります。ただし最晩年の大山が羽生に負けた事で優劣はつけられません。とはいえ羽生が本格的に台頭するのは大山の死後ですから、直接の材料は欲しくてもどうしようも無いという事です。

しかし大山の異常に長い棋士寿命は間接評価を可能にしています。大山は谷川とA級で戦っています。谷川が羽生と名勝負を演じたのも周知の通りです。この谷川の全盛期はいつになるかですが、谷川は今でもA級の現役で、谷川-羽生戦は棋界きっての名対決とされます。通算対戦成績は羽生の方が上回っているようですが、谷川も幾度か羽生の牙城を崩しています。ただし谷川の実力自体は'95頃と較べると明らかに落ちているように思われます。'90頃と較べても落ちています。谷川の全盛は4期の名人位を保持した時代と四冠王を謳歌した時代('83〜'92)ではないでしょうか。

大山が最後の最後の順位戦を戦った谷川浩司は、名人位こそ中原に奪還されていましたが、他のタイトル戦では四冠を占めるなど全盛期と言ってよい時代です。谷川とのA級の通算成績はさすがに1勝4敗ですが、その1勝が69歳の最後のA級順位戦であることに凄みを感じます。

この時のA級の最終戦は、谷川、高橋が6勝2敗、南、大山が5勝3敗であり、谷川は大山に負ければ高橋の勝敗次第で挑戦権は失われます。A級順位戦最終局は慣例により同日同時刻に行なわれます。谷川も中原に奪われた名人位奪還の大きなチャンスですから、何があっても大山に負けられないと渾身の一局を指したはずです。それでも勝ったのは69歳の大山です。

羽生と谷川が名勝負を演じたのはその後ですが、この時既に谷川の実力は下降傾向に入っていたと考えても良いと思っています。また羽生の実力は現在でも頭抜けていますが、七冠王を誇った時代がやはりピークで、現在は気持ち落ちかけているとも見えます。最晩年の大山、全盛期の谷川、そして谷川と羽生との比較を考えると、大山の全盛期なら羽生を凌いでいた可能性はあると考えます。


棋士は年齢制限の無い競技ではありますが、年齢による衰えは確実に訪れます。十三世名人の関根金次郎も51歳でようやく待望の名人位に就任した時には棋力の衰えを自覚せざるを得なくなっています。十四世名人の木村義雄も引退したのは47歳です。木村の場合は本人はやる気だったそうですが、無敵将軍の称号に傷が付くのを怖れて引退させたとも言われています。それでも47歳です。

ではそれ以外の歴代の大棋士はどうだったのでしょうか。将棋界は実力によるピラミッド構造が出来上がっており、名人を頂点として、A級10人が頂上に君臨します。またA級は下位2人が入れ替わるため、A級に留まるには名人も含めたトップ9に常にいる必要があります。また棋士は誰しも名人になることを目指しまします。A級は名人位に一番近い位置にあり、その戦いは究極のガチンコ勝負である事は言うまでもありません。

ここでA級の在位記録をまとめてみます。名人位にある間もA級とカウントしています。

*平成20年度68期まで

順位 氏名 通算期間 昇進年齢 最終在位年齢
1 大山康晴 44 26 69
2 加藤一二三 36 18 62
3 升田幸三 31 30 61
4 中原誠 29 22 52
5 塚田正夫 28 32 60
6 二上達也 27 24 55
7 米長邦雄 26 28 54
8 丸田祐三 24 30 55
9 谷川浩司 27 19 46(現役)
10 有吉道夫 21 30 60
羽生善治 16 22 38(現役)

順位 氏名 連続期間
1 大山康晴 44
2 升田幸三 31
3 中原誠 29
4 塚田正夫 26
5 米長邦雄 26
6 二上達也 23
7 谷川浩司 27
8 加藤一二三 19
9 丸田祐三 17
10 羽生善治 16


十五世名人中原誠は大山に代わって中原時代を築いた大棋士です。名人通算15期、タイトル獲得60期の大記録を持ち、「棋界の太陽」とまで称されています。その中原が名人位を失ったのが45歳の時であり、A級も52歳で陥落しています。米長邦雄は中原を破って史上最年長の名人位に50歳でなっていますが、52歳の時にA級から陥落しています。名人戦出場も大山の63歳を別格にして、升田幸三53歳、米長邦雄51歳、木村義雄47歳、中原誠45歳、加藤一二三43歳となっています。

棋界の頂点の名人戦出場の限界が40歳代半ばからせいぜい50歳前半まで、A級在位も50歳代半ばから60歳ぐらいまでと考えて良いと思います。もちろんそこまで活躍できるのは、棋士の中でも歴代で指折りの大棋士クラスの話であり、並みの棋士ならピークの頂点のときに何年かA級在位するのが精一杯とも言えます。それぐらい競争は激烈だと言う事です。

棋士寿命のピークはやはり30歳代半ば頃が頂点であり、40歳を越えると年齢による衰えは個人差はあっても確実に出てくるのが将棋と考えられます。棋力の落ち方も中原誠の様に急速に衰えるタイプもありますし、米長邦雄の様に最後の花を咲かせて燃え尽きるタイプもあります。ただ誰も年齢の衰えからは逃げられ無いという事です。

至極大雑把にまとめると、棋士は30歳代半ばぐらいにピークを迎え、後は緩やかに実力を落としながら40歳代半ばぐらいまでは大棋士クラスであれば名人戦出場ぐらいの実力は保持し、50歳頃にはA級も維持できなくなるとしてもよいかと思います。

大山だって年齢による衰えはあったはずです。あったからこそ中原に覇権を渡さざるを得なくなっていますし、名人位も'72に失ってからついに奪還できていません。でも、それでも強かったのは記録が証明しています。眩暈がするほどの強さを70歳近くなっても保持していたのです。まさに化物と言っても良いかと思います。

大山だって30歳代半ばぐらいがピークであったはずで、実際に40歳代後半まで各棋戦に圧倒的な成績を残しています。しかしその後衰えきったはずの69歳までA級を保持しています。無理やり解釈すると大山の全盛期には誰も足許に及ばないぐらいの圧倒的な棋力があり、最晩年になっても両手に足りないぐらい人数しか大山と戦える棋士はいなかった事になります。

将棋の実力は段位で現されますが、最晩年の大山の棋力がA級八段程度であり、全盛期は十五段か二十段ぐらいあったとでも考えないと説明できない現象です。羽生と大山の純粋の比較は出来ませんが、羽生が今から30年先までA級で活躍したら大山にやっと匹敵するんじゃないかと思っています。今の羽生が強いことは文句なしですが、大山の異常なまでの息の長い活躍に並ぶにはまだまだ時間がかかります。

 大山の強さの秘密は様々に語られていますが、全盛時はともかく、大山の晩年の強さは対戦相手の萎縮も大きかったとされます。コンピュター将棋なら機械相手なので、自分の実力を十二分に発揮できますが、プロの対局は対面の対決ですから、一緒にいるだけで重圧が対戦相手にかかります。対戦していると「大山なら何かやりかねない」の呪縛にかかり、妙に深読みしすぎて自爆する感じです。

 それと大山が育った時代は今と較べると遥かに棋士無頼派が多く、盤上だけではなく盤外戦も華やかに行なわれています。とくに晩年の大山が盤外戦を悪辣に利用したとの記録は残っていませんが、二世代も三世代も若い棋士相手なら、相手に気がつきもさせずに手玉の取るのは、さして難しくなかったのではないかとも言われています。対局中の棋士は黙っているわけではなく、様々な会話が行なわれますから、言葉一つで相手の心理を揺さぶるのも盤外戦です。

 これは蛇足ですが、大山が中原を苦手にしたのは、中原が大山の仕掛ける盤外戦に微動だに反応しなかっただけではなく、逆に大山にプレッシャーをかける程であったからとも囁かれています。

将棋界には羽生ファンの方が多いので釈明しておきますが、今日の羽生と大山の比較は視点を換えたお遊びにすぎません。大山が生きた時代は近代将棋の時代であり、羽生は現代将棋に生きています。戦後の大山から中原の時代は現在に較べて棋士の層が薄かったとも言われ、だからこそあれほどの成績を残せたわけであり、現在の厚くなった棋士層での羽生の活躍を同列に論じられないのももちろんです。

ただ将棋は戦績によって語られる競技と言う性質はあり、羽生もそういう面の評価から完全には抜けられないという一面を示しているものとお考え下さい。この辺で今日は休題にします。