日曜閑話29

今日は純粋に個人的な日記で「祖父の思い出」です。完全に個人的な備忘録ですから、別に波乱万丈のストーリーが展開されるわけではありません。ですからアッと驚く仕掛けがどこかで組まれているわけでもなく、日頃のテーマである医療問題にも絡むわけでもありませんし、歴史のどこかに役割を果たしているようなものでもありませんから、よろしくお願いします。


祖父は明治31年(1898年)生まれですから、生きていれば111歳です。もちろんですが亡くなっていますが、それでも90歳は越えていたはずですので長寿であったと思います。私が覚えている祖父は孫に甘い「普通のおじいちゃん」であり、晩年10年間ぐらい続いた脳梗塞の後遺症による半身麻痺で苦しむ姿だけです。ただ元気な頃も無口と言うか口下手な人で、今思い出してもそんなに長いセンテンスの文章を聞いた記憶がありません。いわゆる人生訓とか教訓めいた話も聞いた事がありません。

さらに言えば若い時の話も聞かされたことはありません。孫に向っていかにもありそうな「おじいちゃんの若い時は・・・」の話もまったく記憶に無いのです。一度ぐらいあったかもしれませんが、まったく記憶の端にも残っていません。父が健在なら聞くことも出来るのでしょうが、父もまた祖父と相前後して亡くなっていますから聞きようがありません。

ところが先日法事があり、叔母と祖父の話が出たので、この機会にまとめておこうと思います。ただ叔母も祖父の晩年の子であり、叔母にもそれほど話はしていなかったみたいですし、叔母の記憶自体も歳月でおぼろげなところがありますから、あくまでも個人的な備忘録程度のお話です。


祖父の若い時の話もまったく聞いていないわけではなく、父ないし叔母から断片的には聞いています。生まれは愛媛の宇和島で、実家は漁師だったとされます。これも漠然とした話で、祖父の兄弟で漁師をやっているものはなかったはずで、なおかつ当時としては一流半ぐらいの学歴はあったはずですから、本当に漁師であったかどうかも個人的には疑問です。

ただ乗り物には異様に強い人で、祖父と一緒に旅行した時に水中翼船に乗った事があります。その時は次の便から欠航になったほど海が荒れていまして、私も楽しみだった水中翼船が船酔い地獄になった事は覚えています。あまりの揺れにほとんど乗客がそんな状態だったのですが、祖父はまったく平気で、平然とタバコを吸っていたのを覚えています。

祖父は旧制中学に進学したのですが、たしか「○○のは行けなかったから北予中に行った」なんてのを小耳に挟んだ事があります。北予中なんて聞きなれない学校なので消滅した学校かと思っていたら、これは現在の松山北高になるようです。であれば、「○○」は旧制松山中学で現在の松山東高であったかもしれません。宇和島なら旧制宇和島中もあったはずですが、その頃には何かの事情で松山に住んでいたのかもしれません。少しだけ歴史ロマンに近いところを付け加えておけば、「坂の上の雲」の主人公の一人である秋山好古が北予中の校長を勤めていますが、1924年からの10年間で残念ながら祖父とは会っていません。

中学卒業後ですが、これも伝説で「東京の大学に進学した」と言うのもあります。これも眉唾かと思っていたのですが、叔母に確認すると「確かに行っていた」と証言してくれました。ただどこかの記憶が若干曖昧で「拓殖大学だったはず」に留まっています。ただこれも何とも言えないところがあります。旧制中学は5年で、順当に卒業していれば17歳になります。年代にして1915年頃のお話です。

1915年頃の拓殖大学がどんな様子であったかはWikipediaより、

    1900年 桂太郎によって台湾協会学校が東京に創立
    1904年 専門学校令による台湾協会専門学校と改称
    1907年 東洋協会専門学校と改称、京城分校(後の京城高等商業学校、現在のソウル大学校経営大学)を設置
    1909年 東洋協会専門学校同窓会(現拓殖大学学友会)創立、同窓会会報創刊号発行
    1910年 東洋協会旅順語学校、同大連商業学校(現在の大連36中学校)開校
    1912年 恩賜金を明治天皇より拝受、留学生寮高砂寮)完成
    1914年 恩賜記念講堂落成式を挙行、東洋協会「財団法人」より「社団法人」に改組、恩賜記念講堂開館式並びに桂公銅像除幕式を挙行
    1917年 東洋協会台湾支部付属開南商工学校(現在の私立開南大学)開校
    1918年 拓殖大学と改称

現在に続く拓殖大学に名称が変わったのが1918年で、それ以前は東洋協会専門学校です。祖父が本当に進学していたら年代的に拓殖大学でなく、東洋協会専門学校になるはずです。そこまで正確に叔母に話したかどうかがチト疑問ではあります。それにしても祖父は何を目指して拓殖大学に進学したかの理由を知りたいところです。これもwikipediaからですが、

拓殖大学は台湾の開拓を実施するための人材を育成する教育機関として開校した(拓殖とは“未開の土地を開拓し、そこに移り住むこと”の意である)。

ひょっとしたら海外雄飛を考えていたのかもしれません。当時の若者の気風としてあっても不思議ありません。どうしても晩年の祖父の印象と合わないのですが、若き日にそんな志があったのかもしれません。

そんな祖父に転機が訪れます。曾祖母が病気になり看病の甲斐なく亡くなったのです。この時に「医者になって病人を救おう」と決意したと叔母は語っていました。そのまま医師になっていれば、マイナーですが一つの立志伝なんですが、大正時代とは言え祖父の学力は一流であったとは残念ながら言えません。また医学部は大正時代でも難関中の難関でした。

そんな祖父が目指したのが大阪帝大(阪大)であったと伝説ではなっています。なんで阪大だったのかの理由は既に知る人もいませんが、見事に落っこちています。その後も伝説なんですが、困った祖父がふと見ると大阪薬専の募集があり、そこに入学したとあります。大阪薬専とは言えよく合格したもんだと思うのですが、極め付けの伝説で「一期生で無試験であった」となっています。

大阪薬専は阪大薬学部の前身になるのですが、そんな事が本当にあったかどうかです。またまたwikipediaからですが、

私立大阪薬学校時代

  • 1901年5月: 私立大阪薬学校と改称。
  • 1903年3月: 運営主体を社団法人化。
  • 1904年3月: 規則改正。
    • 正科: 修業年限3年、入学資格: 中学校卒業程度 (専門学校令に準ずる)。
    • 別科: 修業年限2年半。
  • 1916年7月: 社団法人から財団法人に変更。
大阪薬学専門学校時代
  • 1917年3月10日: 専門学校令により私立大阪薬学専門学校設立認可。
  • 1917年4月: 開校。
  • 1920年7月: 大阪薬学専門学校と改称。
  • 1931年10月: 豊能郡桜井谷村大字刀根山 (現 大阪府豊中市) に移転。

たしかに1917年に私立の大阪薬学校から大阪薬専に変わっており、この年に祖父は19歳のはずですから一期生として入学する事は可能です。ただそれなりに歴史のある学校ですから、募集定員に満たずに全員合格なんて事があるかどうかはかなり疑問です。また今でも薬学部は難関ですが、大正期にはある意味もっと難関であったとも考えるのですが、とにかく祖父は合格し薬剤師になる事になります。

ちょっと雑学なんですが、薬剤師免許の起源なのですが、wikipediaより、

日本では1874年に制定した「医制」により「医師たる者は自ら薬をひさぐことを禁ず」とされ、政府がドイツ医学に倣い医薬分業を推進しようと薬局開業には「薬舗主」試験の合格を必要とし、これが日本の薬剤師の原形である。さらに1889年には「薬品営業並薬品取扱規則」(薬律)が制定され、「薬剤師」と呼ばれるようになった。

ただし現在の薬剤師国家試験の第1回は1949年からであり、戦前の制度はどうだったかは良く分かりません。どうもなんですが、薬剤師免許の元もとは薬局店主の資格試験みたいな形態で始まり、祖父の時代は専門職としての薬剤師への過渡期であったのかもしれません。


当時の薬学部が何年制であったのかわかりませんが、もし4年なら1921年頃に祖父は薬剤師になったはずです。それからの足取りがまた分からなくなるのですが、当時の事なので兵役があるはずですが、どうも行っていないようです。これもいつの頃かはっきりしないのですが、若き日のある時代にかなり大きな病気になったようです。

なんの病気であったか不明なのですが、腹水がかなり溜まる病気であったのだけは間違い無く、腹部に穿刺後がかなり残っています。あえて考えればA型肝炎ぐらいを考えるのですが、その時に糖尿病の診断を受けています。祖父が糖尿病なのは一族は皆知っており、祖父も食事の節制や毎日の尿チェックを怠らないほどでした。これが故に兵役は免れたと思われます。ただこの糖尿病ですが、晩年に入院して検査したときに誤診であったとのオチはあります。


いつからか神戸の病院に勤務したのは間違いありません。実はこの病院は今でもあり、小さな病院ですが大正時代から続いていたとは少し驚きました。その頃に見合い話があり結婚しています。これはこれで内輪的には興味深いのですが、次に大災害に襲われることになります。

大災害とは1938年の阪神大水害です。年齢を確認すると祖父は40歳になっているはずなのですが、この時に幼かった父を抱きかかえて二階から飛び降りた伝説が残っています。命が助かったので私もブログを書いているのですが、祖父はその後に神戸の新開地に薬局を開業する事になります。これもまたいつ頃からかがはっきりしないのですが、阪神大水害から早いうちだろうとぐらいしかわかりません。

今の新開地は場末ですが、当時の新開地は神戸随一の繁華街です。店舗は二階建ての下駄履きであったと叔母が言っていますし、父からも聞いた様な気がします。そいでもって薬局自体は繁盛したようです。ただし普通にやって繁盛したというより祖父の才覚の部分もかなりあるような気配です。

かつての薬局はかなりの程度の薬品の販売が可能でした。なんと言ってもヒロポンを市販していた時代の話です。昭和40年代ぐらいまではエフェドリンの販売も可能であったぐらいですから、繁華街で開業すれば、薬品を入手さえすればいろんな商売が可能であったと言う事です。問題はいかにして薬品を入手するかです。1941年に第二次大戦が始まりますから、物資は不足していた時代であり、繁盛するほど薬品を売るためにはブローカー的な才能も必要であったはずだと言う事です。

この時代の商売の具体的な話はほとんど伝わっていません。叔母も生まれたのが1943年ですから、知らないのか私にあえて話さないのかは不明ですが、多分知らないで良いんじゃないかと思っています。ただいかに儲かったかは祖父の実家を思い起こせば納得できます。祖父は戦争が始まり、神戸にも空襲の危険を感じ始めたときに、祖母の里の田舎に家を買っています。

今でもあるのですが、とにかく敷地が広い家です。500坪ぐらいはあるんじゃないでしょうか、もっとあるかもしれません。ただ建物はしょぼいですけどね。いかに田舎で戦時中であるにしても、開業して数年でこれだけの敷地の家を買えたぐらい繁盛したという事かと思っています。

その後に薬局がどうなったのかは、これもまた良く分からないのですが、新開地の店を引き払って、田舎で開業しています。新開地の店が戦災で焼けたのか、それとも戦後の混乱期を避けるために田舎に避難したのかよくわからないのですが、とにかく移転しています。これがまたいつ移転したのか、叔母の記憶も曖昧な物になっています。


ビックリするような話ではありませんが、戦前・戦中・戦後の時代的背景もあり、小さいなりに波乱万丈の生涯を送っていたと思うのですが、祖母の里に引っ込んでからの祖父の話はさらにスケールが小さくなります。どうも商売への熱意が下がってきたような話が幾つも伝えられています。私は直接聞いていないのですが、口癖の様に「楽隠居したい」と話し、薬局の経営も祖母が取り仕切る様に変わって言ったと聞いています。

後は店舗の購入交渉に中学生であった父が行ったとか、庭にある不思議な小屋の由緒とか、開かずの玄関の話とかありますが、あまりにも内輪の話なので、これは控えておきます。


最後に祖父を褒めるエピソードの一つぐらい書いておかなければ怒られそうですから、叔母から聞いた話を紹介しておきます。叔母も「いつ」を特定していないのですが、祖父から何度か医薬分業の必要性を講釈されたようです。あの祖父が滔々と講釈する情景を思い浮かべるのは非常に難しいのですが、どうも持論であったようで、叔母の歳からして昭和30年代から40年代には聞かされたと考えられます。

そういう面では先見性があったのかも知れませんが、これが当時の薬剤師一般の常識であったかまでは残念ながら知る由もありません。