メディアスクラムは隠蔽の呼び水

6/29付読売新聞より、

インフル感染者の父「会社員」はウソ、市職員だった

 福島県南相馬市に帰省した東京都の女子予備校生が新型インフルエンザに感染していたことについて、南相馬市が25日に行った記者会見で、女性の父親が同市の課長なのに、「会社員」と発表していたことがわかった。


 渡辺一成市長は読売新聞の取材に対し、「職場を明らかにしない方針だったので、人物を特定されないよう、記者の質問に会社員と答えてしまった」と説明した。

 県や市によると、女性は22日、熱やせきなどの症状を訴え、23日に迎えに行った両親の乗用車で帰省。24日に遺伝子検査で感染が確認された。家族に症状はないが、課長は30日まで出勤を控えるという。

おそらくですが、この記事の趣旨は、

    本当は市職員が新型インフルエンザに感染しているのに、それを偽って発表しているのは許せない
こうであると考えます。それはそれで正しいのですが、なぜそういう処置を市が行ったかを考えるべきと思っています。新型インフルエンザ対策は様々な現実的対応が行なわれていますが、それでも大元は感染症法に基づくものであり、建前上は情報公開が重要とされています。今回のインフルエンザ対策で浮き彫りになった一つの大きな問題点は感染患者の情報の取扱いと考えています。

感染拡大の予防のためにある程度の範囲まで患者情報を公開しなければならないのは、時に疫学的判断として必要とは思いますが、公開される情報の範囲、情報への接し方、取り上げ方は大きな課題であると考えています。今回の新型インフルエンザへの感染はまず個人の過失とは思えません。例外を言い出すとキリがありませんが、大多数は感染して喜んではいないはずです。ちょっと強引かもしれませんが不慮の事故みたいなもので、他の表現を使えば天災です。

感染の拡大は防がないといけませんが、その時に感染者の情報の公開は犯罪者の情報公開ではなく、天災の被害者の情報公開であると言う事です。また、ともすれば感染者を社会から排除しようと言う動きを非常に誘発しやすいですから、そこにもどれだけの配慮を払えたかです。その点には非常に大きな問題を残していると考えます。


最初の疑い例の発見時に行なわれ時の状況は、5/31付けカナロコによれば、

校長がタクシーを飛ばして学校に駆け付けると、そこにはすでに報道陣約四十人が詰め掛けていた。アンテナを立てた中継車、上空にはヘリコプター。駆け付ける教員を、待ち構えたカメラが追った。

これは深夜の出来事です。この後に開かれた記者会見では、記者の情け容赦ない追及で校長の目に涙が浮かんだとも言われていますが、もう一度言いますがまだ「疑い」時点です。疑いだけでこれだけの報道が為されるという事は、世間に「余ほどの悪事」の印象を植え付けるのに必要にして十分な行為と言えます。

校長にしても、報道情報以上の詳細は知る由もなく、記者会見を開くより、「疑い」が「新型」であったときの善後策を一刻も早く検討しなければならない時なのに、マスコミ対応に追い回される羽目に陥っています。マスコミにも言い分があるかもしれませんが、日本中に刻み込んだ印象は、

    新型インフルエンザに感染すればこれだけのバッシングが待っている
「バッシング」と言う言葉が不適切ならメディア・スクラムでも良いかもしれません。本来は気の毒な感染被害者とその関係者であるだけなのに、何かの犯罪人とか企業不祥事でも起したかのような対応をマスコミは行ったとしてもよいでしょう。


次は最初の水際作戦成功例です。大阪の高校生が「成田」で新型を確認され、一緒にいた同級生も道連れで隔離された一件です。あの時点での隔離処置はやむを得なかったとは思いますが、その後のマスコミの行動が壮絶です。感染者及び濃厚接触者はすべて成田で隔離されているわけです。にも関らず感染者が足も踏み入れていない、高校生の地元で取材の大騒ぎを行なっています。

高校生の地元の取材にどんな意味があったのかを問いたいところです。横浜の疑い例に引き続いて行なわれたので、心配していた感染者への中傷行為も誘発する事になります。マスコミの素晴らしい対応により、感染者へのいわれなき偏見はしっかり植え付けられたと私は考えます。マスコミがどう言い訳しようが、これは間違いない事実として良いかと思います。

この確立した偏見が猛威を振るったのは神戸・大阪の蔓延状態時かと思っています。交通の遮断をしている訳ではないので、神戸クラスの大都市に蔓延すれば日本中に拡散するのは誰が考えてもあたり前なのに、神戸と大阪に直撃の風評被害が発生します。笑ったらいけませんが、京都・奈良は出ていないからセーフみたいな扱いです。誰が考えても不自然な状態が展開します。


後だしジャンケンと言われるかもしれませんが、今回の新型騒動では、初期は強毒性の観測がありました。もちろん強毒性であっても感染者は天災の被害者です。ただ人間の特性としてそういう場合には排除の論理が非常に働きやすい状態です。もっと言えば自然の流れに任せておけば、排除の論理にこれもまた自然に流れるのが人間の防衛本能です。

だからこそ、そうならないように人為的に努力するのも感染対策です。情報は公開さえすれば終わりではなく、公開による社会的影響、人道的影響を出来る限り配慮する事が必要です。言葉として「冷静に」だけを呼びかけても空虚なだけです。人が冷静に情報を受け止められる様に工夫を重ねる事が必要だったはずですし、間違ってもセンセーショナルの度合いを競うみたいな状態になってはいけないはずです。


今回の経過の後遺症だけでもかなり心配しています。感染が発見されただけでマスコミからあたかも「犯罪者」のような扱いを受ける事は周知されてしまいました。周知されると人間は次を考えます。「あんな目に会いたくない」を考える人間は少なくないと考えるのが妥当です。そうなると会わずに済ます工夫を考える事になります。

相馬市が行なった情報の隠蔽というより「ウソ」は許される行為とは決して思いませんが、同様の行為に走らせる人間が数多く生まれている可能性を憂慮します。