この程度のヒト2

昨日は冷静にと思いながら、頭に昇った血が抜け切れず、我ながら論旨が混乱してしまったので3/8付「【日曜経済講座】論説副委員長・岩崎慶市 国家の10年後を見据えよ」でリベンジを考えてみます。これも3部構成なので順番に追いかけて見ます。

第一部

■政策はまっとうな議論で

 ≪場当たり策を繰り返すな≫

 「生活対策」の財政措置である今年度第2次補正予算の関連法が成立し、焦点は早くも来年度補正予算による追加経済対策に移った。世界同時不況にのみ込まれ、景気悪化が止まらないからだが、政府・与党内の議論は総選挙をにらんで、対策の中身から財源まで混乱している。少し議論を整理しておこう。

 まず、心しなければならないのは、昨年10月の第1次補正予算で実施した「総合経済対策」と今回の「生活対策」での場当たり策を繰り返さないことだ。

 「総合経済対策」では原油高騰を受けた漁船などの燃料費助成が柱だったが、原油相場は夏場でピークを打ち、対策を実行するころには急落し何のための対策か分からなくなった。こんな無駄はあるまい。

 「生活対策」では例の定額給付金だ。社会政策か景気対策か性格があいまいで、麻生太郎首相が今ごろになって「景気対策のウエートが増したから自分も受け取る」と表明する始末だ。ならば、なぜもっと効果のある定率減税にしなかったのか。

 そうした反省に立てば、追加経済対策はあくまで「効果」を基準に政策を絞り込むことだ。政府は近く有識者ヒアリングを開始するが、10年先まで見据えてピンチをチャンスにするような知恵を体系的にまとめて実施してほしい。

3/8時点の話を念頭に置いて欲しいのですが、まず論説委員が噛み付いているのは、

「総合経済対策」では原油高騰を受けた漁船などの燃料費助成が柱だったが、原油相場は夏場でピークを打ち、対策を実行するころには急落し何のための対策か分からなくなった。こんな無駄はあるまい。

昨春のガソリン高騰は記憶に新しいところです。もちろんガソリンだけではなく石油全般が高騰しています。高騰の仕方も半端じゃなかったので、各方面に大きな影響が現れ、これへの対策が関係各方面から出された事も記憶に残っています。漁業関係者もそうで、燃料費が高騰しても魚の値段は上らず、漁に出るだけ赤字と言う状態に陥っていました。

この辺は政治力の問題もあるのでしょうが、これに対する救済策が施される事になります。是非については難しい部分があるのですが、とにかく燃料費助成が決定されたのですが、国会手続きには時間がかかります。時間がかかった結果、実際に助成が行なわれる頃には原油高騰が終わってしまったのです。この辺は石油も相場で動きますし、当時世界を席捲していた金融マネーの動向ですからそういう事も起こります。これに対し、

    対策を実行するころには急落し何のための対策か分からなくなった。こんな無駄はあるまい。
ちょっと言い過ぎではないでしょうか。原油高騰の頃に「いつ」下がるかの見通しは不透明でした。金融マネーはいつまでも石油に投資を続けないとの観測は当時もありましたが、「いつ」は誰にも予測が付き難いものでした。ましてやあの時点で「そのうち下がるから何もしない」などと政府が表明しようものなら、どれだけの批判が巻き起こったか想像がつきます。

それとこの論説委員は「何のための対策か分からなくなった」と書いていますが、そうであれば原油高騰が続いているのなら意味のある対策であったことになります。問題は燃料費助成が実際に行われる頃には原油高が収まってしまった事です。この対策が国会審議にかけられている時点で「いつ」がはっきり見通せた人間はどれほどいるかになります。たんなる予測でなく責任を持っての発言としてです。

結果論として必要なときに必要な助成が手続き上行なえなかっただけのことで、それを後から結果だけをとらえて「こんな無駄はあるまい」で済ます神経に驚かされます。そこまで言うのなら、その時点で

    「石油は夏には急落するから、何も対策をする必要は無い。やるだけ無駄だ!」
この大論陣を張るべきであったと考えます。見通しが狂った結果についての批評は誰でも可能ですが、「こんな無駄はあるまい」とまで酷評するのなら、その結果を見通していたわけであり、対策が検討されている時点で主張すべき事です。もっとも当時にそんな主張をしていたかどうかの確認ができていませんので、これはこの程度にしておきます。

「生活対策」では例の定額給付金だ。社会政策か景気対策か性格があいまいで、麻生太郎首相が今ごろになって「景気対策のウエートが増したから自分も受け取る」と表明する始末だ。ならば、なぜもっと効果のある定率減税にしなかったのか。

定額給付金については議論の分かれる問題ですが、麻生首相の受け取り発言の迷走はさておき、

    なぜもっと効果のある定率減税にしなかったのか
ここまで断言できるのかに疑問を感じます。論説委員は無条件に、こういう風に決め付けています。そんな単純な評価で良いかに大きな疑問を抱きます。定率減税は所得の高いものに恩恵が大きくなりますが、所得の低いものには他人事になります。金額としての効果は定率減税のほうが大きいかもしれませんが、所得の低いものには恩恵が非常に乏しいものになります。その差引勘定と効果は簡単に決められるものではない様な気がしています。

個人的にはどちらであっても、苦しい財政事情をさらに悪化させ、費やした金額ほどの効果が期待できるかどうかへの評価は辛いですし、大盤振る舞いした後の財政の穴埋めがまた必要になりますから、これを緊急経済対策として相応しかったかの議論は必要とは思っています。ただ一刀両断で定額給付金より定額減税の方が優れた政策と言い切ってよいのかに疑問を感じています。

定額給付金の方が優れているとは思ってはいませんが、定率減税を行なうにしても規模の問題があります。規模が同じであればどちらの方が効果を見込めるのかの議論となると、私にはよくわかりませんし、論説委員の主張のように定率減税絶対優位とまでは言い切れないような気はします。


まあこれもこの辺にして、

そうした反省に立てば、追加経済対策はあくまで「効果」を基準に政策を絞り込むことだ。政府は近く有識者ヒアリングを開始するが、10年先まで見据えてピンチをチャンスにするような知恵を体系的にまとめて実施してほしい。

まず

    「効果」を基準に政策を絞り込むことだ
これは論として間違っていません。予算は限られていますから、限られた予算で少しでも効果的な対策を考えようというのは正論です。問題は一体どこに予算を注ぎ込めば一番効果が期待できるかになります。これを真剣に考えなくてはならないのですが、この有識者とは具体的に誰なんだという事です。語感から有識者とかけばイメージとして「賢人」てな感じになり、議論は終了みたいな雰囲気を漂わせていますが、あまりにも漠然とした表現です。ただ漠然とはしていますが、具体的に誰であるかは知られています。財界人とその御用学者です。もっと具体的には経済諮問会議であるとか財政審議会であるとかの委員に名を連ねている連中です。

この連中は経済諮問会議や財政審議会だけではなく、雨後の竹の子のように湧いてくる多種多様の会議に名を連ねます。もちろん選出理由、選出根拠は一切不明です。いかなる民主的手続きも経ずに出てこられ、時に国家の三権である政府や国会の上に君臨されます。日本ではいつから貴族制度が出来たか聞きたいところです。

つまりは有識者とは時の政府が求めた特権階級から、特権階級の御推薦で現れた人物の事を指します。彼らも国民の1人ですから選出される資格はあるのでしょうが、特権階級に属さない人間は意見さえ述べられない世界が構築されているわけです。日本は建前上は民主主義ですが、政治の世界では有識者主義、財界人主義であるとしか思えません。

そういう連中である「有識者」の意見のみをヒアリングせよとの御主張です。そういえばこの論説委員も財政審議会のメンバーですから、

    オレの意見を聞け、オレこそが有識者
こういう事を書いてあることになります。

第二部

 来年度予算を含めて手厚い措置が講じられた中小企業支援や地方向け公共事業という目先の選挙対策をにらんだ従来型であっては決してならない。環境や新エネルギー技術の研究開発など日本の得意な成長分野へいかに集中するかだ。

 もちろん、医療や農業の改革も重要だし、対日投資を促進する環境整備も要る。公共投資なら、ばらまきではなく、羽田空港の拡充でまともな国際空港を造ることに集中するのも手だ。

 ≪議論加速する総需要政策≫

 では、対策の財政規模と財源はどうか。与党内には財政出動で20兆円とか30兆円の総需要政策を実施すべきだとの議論がある。内閣府が生産設備能力と需要のギャップを20兆円と算出したことも、この議論を加速させている。

 しかし、この需給ギャップは世界同時不況による輸出減によるところが大きく、それをすべて内需で埋めるのは無理があろう。インドを含めたアジア市場の一体化に傾注し、そこに「解」を求めた方がはるかに日本の将来に役立つ。

 財源では政府紙幣相続税減免とセットの無利子国債などさまざまな案が出ている。戦後、例を見ないような景気の落ち込みに際して大いに議論するのは結構だが、ここは将来に禍根を残さないよう冷静な対応が必要だろう。

 例えば政府紙幣。日本の財政は国債残高が国内総生産(GDP)の1・1倍と先進国で突出して悪化しているから、これで財源を確保するという。しかも、国債と違って償還する必要がなく発行コストも印刷費くらいだから、いわゆるシニョレッジ効果(通貨発行利益)を好きなだけ得られるとのもくろみだ。

第一部でたどりついた「効果」を絞り込んだ対策ですが、まずは行なってはならないことを挙げておられます。

  1. 中小企業支援
  2. 地方向け公共事業
地方向け公共事業の是非はこれもまた微妙な問題ですが、それより中小企業支援も「決してならない」としています。つまり中小企業は黙って潰れるが宜しいとの御断言です。そこまで言える神経とそれを記事にする新聞社が素晴らしいと思います。不況で苦しんでいる中小企業の経営者の皆様及び従業員の皆様、
    産経新聞は、政府による中小企業支援は決して認めない
こういう風に満天下に宣言しております。今後の購読についてよくお考えなおし下さい。私も零細企業経営者ですから産経新聞はもちろん購読しておりません。

この需給ギャップは世界同時不況による輸出減によるところが大きく、それをすべて内需で埋めるのは無理があろう。インドを含めたアジア市場の一体化に傾注し、そこに「解」を求めた方がはるかに日本の将来に役立つ。

ここもわかったようなわからないような論旨ですが、不況対策の一つの方針として需要対策が20〜30兆円分必要との議論があるそうです。マクロ的にはそうなるのでしょうが、論説委員はこれを内需で埋めるのは無理としています。無理かもしれないというのは一つの意見ですが、そのために「アジア市場の一体化」なる政策を提言しています。

「解」とまで断言していますが、これも具体的にどんなアジア市場を想定しているのか不明です。モデルになりそうなものとして、EUみたいなものがありますが、たしかにアジアでEU的なものを作れば、日本の経済力・技術力からして優位な市場になる可能性は高いかと思います。これはアジアの他の国から見てもそうで、今のアジアでEU的なものを結成すれば一部の国が有利となると考えます。そう考えるから話が簡単に進まないとも言えます。宗教や社会体制も小さな問題ではありません。

比較的、加盟国間で差が少ない(アジアに較べて)欧州でも統合に四苦八苦しているのに、アジアでそれがすぐに可能かはどう考えても疑問です。将来の課題として常に取り組まなければならない問題ではありますが、10年どころかもっと長いスパンで考えるべき問題であると思われます。少なくとも現在の金融不況の需要対策の対抗案として並べるには時間的感覚が違いすぎるんじゃないでしょうか。

 財源では政府紙幣相続税減免とセットの無利子国債などさまざまな案が出ている。戦後、例を見ないような景気の落ち込みに際して大いに議論するのは結構だが、ここは将来に禍根を残さないよう冷静な対応が必要だろう。

ここから財源論みたいですが「冷静な対応」が必要と言うのは同意します。

 例えば政府紙幣。日本の財政は国債残高が国内総生産(GDP)の1・1倍と先進国で突出して悪化しているから、これで財源を確保するという。しかも、国債と違って償還する必要がなく発行コストも印刷費くらいだから、いわゆるシニョレッジ効果(通貨発行利益)を好きなだけ得られるとのもくろみだ。

政府紙幣は無利子の国債であり、返済不要の打ち出の小槌論は政府与党に確かにあります。どうも記事の切れ方がぶつ切りなので引用し難いのですが、政府紙幣が出たところで

第三部

 だが、事はそう簡単ではない。過去の例では明治初期に当時の大蔵卿だった大隈重信西南戦争の戦費調達のために、国家予算の半分以上に匹敵する規模で発行したのが有名だが、その代償は大きかった。

 激しいインフレと金利高騰の大混乱を招き、大隈は一転して高い金利の外債発行を原資に政府紙幣償却に努めた。だがこれも失敗、後任の松方正義が徹底した緊縮財政でインフレ退治に成功したものの、今度は世にいう“松方デフレ”を招いたのだった。

 当時は実質銀本位制で、複数通貨の混乱解消には明治15年の日本銀行設立後も17年を要した。いまも政府紙幣は先進国に例のない「一国二通貨」を生むことになり、重要な国家統治機能の一つ「中央銀行の独立性」を破壊しかねまい。

 ≪政府紙幣より国債が筋≫

 歴史に学べば、これは最後の手段であり、与謝野馨財務・金融・経済財政相が「取るに足らない話」と切り捨てたのもうなずける。だから、この議論は日銀に一層の積極策を求める単なる圧力との見方もある。ならば、政府と日銀の綿密な役割分担のアコード(合意)を形成することで事足りよう。

 しかも、いずれ国債政府紙幣を償却せねばならないなら、いざというときには堂々と国債で対応した方が国民や市場に分かりやすい。そうすれば、追加対策の規模と政策効果にも厳しいチェックの目が働くだろう。

 その目に耐え得るまっとうな政策を示すのが政府・与党の責務なのである。

どうも論説委員政府紙幣には難色を示しており、えらい古い話ですが西南戦争の例を引いて反駁しています。西南戦争政府紙幣を発行しなければならなくなった背景を説明する長くなるので省略しますが、結果的に後処理が大変だったのは確かです。もっとも西南戦争後の経済変動を政府紙幣発行だけで説明するのは極めて雑なんですが、とにかく政府紙幣発行には大反対である事は確認できます。

政府紙幣を禁じ手にしておいて、どうやって財源を調達するかになりますが、やはり国債に話が戻る事になります。他に手が無いと言えばそれまでですが、そこで議論が停止しています。現在でも国債残高は莫大です。記事にも、

日本の財政は国債残高が国内総生産(GDP)の1・1倍と先進国で突出して悪化

突出して悪化している国債残高は当然のようにさらに悪化することになります。さらに国債は借金ですからこれを借りる人間が必要であり、さらにこれを返済しなくてはなりません。本当の財源論とはそこまで議論する必要があるんじゃないかと考えます。国債で財源を調達して一丁上がりぐらいの話なら、それこそ誰でも書けます。

ただこの主張でわかることは、

これである事だけは確認できます。財源論議は現在の状況では非常に複雑で、大前提として不況対策は必ず行なう必要があるとうのがあります。一方でもともと財政難のところに不況の追い討ちで税収が減っている現実があります。振る袖が無い状態での財源論となると借金である国債の増発か、政府紙幣の発行による通貨の増大ぐらいに行き着きます。増税による税収確保の選択は事実上封じられているとしてよいでしょう。

政府紙幣発行にも様々なメリットはありますが、もちろんデメリットもあります。荻原重秀の金銀改鋳も一種の政府紙幣発行政策でしたが、重秀の名が後世に悪印象として伝わっているのは、結果として打ち出の小槌として政府紙幣発行を行なった点かと考えています。幕府の財政が苦しくなれば金銀改鋳で差益を生み出して埋め合わせする格好になったからです。

重秀の時代は経済規模が拡大する高度成長期みたいなものだったので現代になりようやく再評価の動きもありますが、現在の政府が政府紙幣発行を行ったときに同じ轍を踏まないという保証が無いのが怖いところです。不況時に通貨量を増大させればインフレを招きます。国家財政的にはコントロールできるインフレは国家財政の負担軽減に貢献するという見方もあります。

一方で個人レベルになれば資産の目減りになるのがインフレです。信用できる為政者による厳密なコントロールによる政府紙幣発行は現在の局面では「禁じ手」にするより、選択枝の一つとして残しても良い気はします。ただここまでの財政論は私の手には余りすぎるぐらい余る事ですし、立場と局面が変われば様々な議論が噴出するでしょうから、この程度に留めさして頂きます。


少々長い論説でしたが、まとめてみると、

  1. 不況対策は効果的に行なわなければならない
  2. 何が効果的であるかは「有識者」が決める
  3. 財源は国債増発で賄う
こういうお話のようです。


それにしても面白いのは修辞上とは思いますが、政策を決めるのは「有識者」であり、政策の責任を負うのは「政府」であり、監視するのは「国民」だそうです。記事には

そうすれば、追加対策の規模と政策効果にも厳しいチェックの目が働くだろう

このチェックの目の主語は記事中から国民と市場であるとされています。市場とは具体的に何を指すかがわかり難いのですが。国債の話ですから国債金利市場の事か、それとも証券市場の株価の事を指すんじゃないかと類推します。市場はまだ具体的なものを指しますが、国民はどういうチェックが具体的に出来るかわかりにくいところです。一般的には総選挙などの選挙、世論調査での反応ぐらいかと思います。

選挙は結構効果はありますが、何分間隔が長いですし、必要なときに適当な選挙があるかは運次第です。政治の方も選挙日程を見ながら政策運用を行なっているところがあります。世論調査も力はありそうですが、これは調べる人間の意図がかなり反映されますし、現時点ではマスコミが世論調査を利用しようと言う気にならないと無視される事もしばしばあります。

そうなると例の国民的議論になりますが、これがまたですから、どんなものでしょうか。


もう一つ、これは蛇足ですが用語の使い方と言うか表現が独特です。やたらとカタカナ語を頻用されます。それでも殆んどは問題ない範囲なのですが、次の個所はかなり無理がある様な気がします。

政府と日銀の綿密な役割分担のアコード(合意)を形成することで事足りよう

アコードは確かに合意の意味がありますが、日本語としてここにアコードを無理やり、それも括弧付きで説明を入れてまで使う必然性に首を傾げます。私の知る限りアコードは現在の日本語で頻用されるカタカナ語でありませんし、これを普及させる必要性がある言葉とは思えません。こういうカタカナ語の頻用は産経は知らず、国語審議会でも問題視され、国語審議会が発表する時には、控えようと呼びかけるのがマスコミ論調であったかと思います。

控えようと運動しても止め処もなく増えるカタカナ語ですが、産経新聞自らアコードをカタカナ語として定着させようとしているのも奇異な感じがします。よほど普段から常用しているんでしょうか。たとえばこんな感じで、

    論説委員A:「またクルマが故障しちまったよ。もう買い替えようと思うんだけど」
    論説委員B:「ほんなら、アコードはどうでっか。あんじょう走ってくれまっせ」
    論説委員A:「アコードは好きなんだけど・・・奥さんがアコードにはアコードしてくれないんだよ」
    論説委員B:「嫁はんがアコードにアコードできへんって、なんか訳でもあるんでっか?」
    論説委員A:「よく知らないんだけど、アコードで何か嫌な思い出あるらしくて、アコードしてもらうのは無理だよ」
    論説委員B:「ほならアコードしてもらうのは無理でんな」
    論説委員A:「ところで、今日は君のアコードで途中まで送ってくれないかな?」
    論説委員B:「アコードでっせ」
それぞれの業界には符牒と言うか隠語みたいな業界用語があります。医師にもあり、覚えたての頃は嬉しくて無理して使っていたものです。そこでよくやる失敗は同じ業界人以外にも使ってしまう事です。このアコードはどこの業界語なのでしょうか。産経新聞、それとも論説室内、それともこの論説委員が参加している財政審議会でしょうか。若い頃の失敗は思い出話にまだなりますが、年長になると恥しいだけの事なんですけどね。