とあるシンポジウム その1

モトネタが6/1付けタブロイド紙記事(魚拓)なので食欲が湧かなかったのですが、Bugsy様から

今日 週刊朝日にも同じような記事が載っていました。

それなら触れようかと思ったのですが、記事の書きたい部分に行き着く前に

週刊現代編集長らが呼びかけたシンポジウム「闘論!週刊誌がこのままなくなってしまっていいのか」が先月15日、上智大学(東京都千代田区)で開かれた。

ここにある「闘論!週刊誌がこのままなくなってしまっていいのか」を調べている内にはまってしまったので、タブロイド記事については後日にする事にします。このシンポジウムの情報を探していたのですが、ニュース・ワーカー2様の4/30付けエントリーにお知らせが転載されていました。

■週刊誌の編集長たちが集まって、週刊誌のこれからを考えるシンポジウム開催のお知らせ

『月刊現代』『論座』『諸君』など雑誌の休刊が続いています。中でも、昨年の『読売ウィークリー』休刊に見られるよう、週刊誌が極めて厳しい状況にあり、今年中に数誌が休刊になると、まことしやかに囁かれています。

個人情報保護法」、名誉毀損訴訟の増加と賠償額の高額化、『週刊文春』の出版差し止めなどで、週刊誌の現場は萎縮している上に、部数減で、瀕死の状態にあります。

しかし、雑誌の死は、その雑誌が持っている情報も消えてしまうことを意味しています。また、この国のこれからの有り様を、国民が正しく判断するためには、新聞・雑誌・テレビなど「多様な言論」が必要であることはいうまでもありません。

そこで、各誌の現・前・元編集長が一堂に集い、これまで週刊誌が果たしてきた役割や存在意義をアピールし、これからの週刊誌の形を、みんなで考えてみたいと思います。

「闘論!週刊誌がこのままなくなってしまっていいのか」(仮題)

登壇者 田原総一朗佐野眞一・田島泰彦

週刊現代』乾編集長、『週刊朝日』山口編集長、『週刊ポスト』海老原元編集長、『週刊文春』木俣元編集長、『週刊SPA!』渡部編集長、『フラッシュ』青木編集長、『週刊大衆』大野編集長、『アサヒ芸能』佐藤元編集長他

日時 5月15日、金曜日、6時開場→6時半から9時まで

(事前の申し込みはいりません・無料です)

場所 JR四谷駅前の上智大学の教室です(12号館1階の102教室)

主催 上智大学田島泰彦ゼミナールと「週刊誌の未来を考える会」代表者・元木昌彦

問い合わせ先 03−5225−4881(ムックハウス『マガジンX』編集部・有賀香織)

FAX 03−5225−4882

メールアドレス info@mook.co.jp

元木昌彦略歴

1970年講談社入社。「FRIDAY」「週刊現代」編集長。2006年11月に講談社退社。2007年2月から2008年6月まで市民参加型メディア「オーマイニュース日本版」(2006年8月28日創刊)編集長・代表取締役社長を務め、6月末に退任。現在「編集者の学校」を各地で開催。上智大学、法政大学、大正大学明治学院大学などで「編集学」講師

記事にある10人とは、

名前が挙がっているのは8人ですから、この時点ではまだ2人は未定であったようです。もう少しないかと見てみればJ-CAST「週刊誌の将来」考えるイベント 詳報したのはネットだったに詳報があり、参加した雑誌は

週刊文春週刊朝日週刊現代週刊ポスト、週刊SPA!、フラッシュ、週刊大衆、週刊アサヒ芸能サンデー毎日週刊金曜日、週刊プレーボーイ

全部で11誌になり、お知らせ時点で名前のあった週刊新潮は例の誤報事件で辞退したとの事です。それと登壇者のうち存じ上げなかった田島泰彦氏は上智大学教授、佐野眞一氏はジャーナリストだそうです。この時の論議の様子もレポートされており、さまざまなめりっと様の「週刊誌の編集長たちが集まって、週刊誌のこれからを考えるシンポジウム」レポートに残されています。実はこの内容があんまりおもしろかったので、今日はそれを紹介したいと思います。発言内容の紹介と、個人的な感想を挟みながらの構成にさせて頂きます。

田原総一朗 新聞やテレビがかけない、企業が怖くてかけないものをかけるのが週刊誌の役割。好奇心の塊が週刊誌だ。しかし、最近週刊誌が4500万の損売賠償求められた。これでは危なっかしいものをかけなくなる。このままいくと週刊誌は、新聞やテレビじゃ書けない危なっかしいものを書けずに、コンテンツとしての魅力も失って部数が減るという悪循環に入っている。


トヨタの社長がなんでクビになったか。3年前からやばいということはメディアは知っていたが、やばいことを新聞もテレビは言えなかった。それはしょうがないにしても週刊誌がなぜ書かなかったのか。ソニーだってやばい。週刊誌は今やばい
高額賠償の頻度と程度ですが、タブロイド紙がまとめたのがあるので示しておきます。



判決 原告 被告 賠償額 裁判所
2001.3 清原和博選手 小学館 1000万円 東京地裁
2003.10 熊本市の医療法人など 新潮社など 1980万円 東京地裁
2007.6 杉田かおるさんの元夫 小学館 800万円 東京地裁
2008.2 日本音楽著作権協会 ダイヤモンド社 550万円 東京地裁
2009.1 三木谷浩史楽天社長ら 新潮社など 990万円 東京地裁
2009.3 横綱北の湖氏ら 講談社など 1540万円 東京地裁
2009.3 朝青龍関ら力士30人など 講談社 4290万円 東京地裁


2001年から高額賠償が発生したようです。それと高額の定義はリストからするとどうやら500万円以上とするようで、田原氏の指摘する「4500万」は相撲の八百長報道の2つの賠償の合計のようです。



それと頻度ですが、2001年から2008年まで4件であったのが今年は既に3件で、これにも危機感を強めているとされます。それと
よく分からないお話ですが、トヨタの内部の内紛を、週刊誌は知っていながら伏せていた事を指摘されているようです。
佐野眞一 週刊新潮問題は心が凍った。とんでもない話。週刊新潮に再生してもらいたいなら、本当のことを書くべき。米国大使館の某氏に対して口止めとして金銭を払ってる。右翼にたいしても金銭の授受がある。僕は愛情をもって週刊新潮には立ち直ってもらいたいと思ってる。



週刊誌再生するにはどうするかという話をしたいが、それ以上に週刊誌に対する情けなさがある。八百長や週刊誌同士の正当な批判も少ない。今の状況は編集者の劣化が招いたことだ。これに対して読者は大変賢明な存在だと思う。週刊誌が読者から置いてけぼりになっている感じがする。


読者をバカにしたら必ずしっぺ返しを食う。言論人もなさけない。彼らが週刊新潮問題を論じてないのはおかしい。なぜこれを誰も問題視しないのか
週刊新潮問題とは朝日記者襲撃犯人記事の事だと思うのですが、佐野氏の主張は省略が多くて意味がつかみ難いところです。とりあえず記事の質が劣化し、読者も減り、売り上げ部数が減っているの指摘と理解します。
田島泰彦 90年代から表現規制の波が我々を覆っている。それには個人情報保護法の流れも大きい。大きな流れで感じているのは規制をしたい側からすればメディアを規制するというより、むしろ個人をターゲットにしつつあるのではないか。一番酷いのはオリコン訴訟。うがやさんは記事を書かずにコメントしただけなのに訴えられた。個人がターゲットにされると裁判の対応を個人がするとなると仕事ができなくなり、裁判に忙殺される。



もう1つの大きな話は報道だけに限らず、報道前の規制、情報源そのものが規制の対象になっている。僕パパ事件の草薙さんのケースもそうだ。あれ自身はいろいろな評価があるとしても、情報源である医者が逮捕され、有罪判決が出た。報道する主体の前の段階で抑えるという発想。



個人情報保護法ができて、報道する前の段階で情報を規制して出さないというような運用が広がっていった。個人情報保護法問題は公表する段階でどうこうという話ではなくなっている。もう1つは損害賠償の高額化。週刊現代は4000万円。10年前は100万円取れれば御の字ぐらいだった。



個人がターゲットになって4000万円となったら大変な事態だ。責任を問われる者は出版社や編集者だけでなく、社長が責任問われる。社長が責任問われるということはどういうことかというと、編集のありかたについて経営者がチェックしていかなければならなくなり、ここには危うさをはらむ。



通常、謝罪広告で済んでいたものが、今年に入って謝罪+取り消しも起こすよう、裁判所が判断するようになってきている。一番危ないところで踏みとどまっているのは週刊誌。そこに過剰な規制の攻撃がかけられてきている。これに対して我々市民社会、言論メディアはどう対処していくか。それが問われている。
 田島氏の主張大元は「規制はメディアではなく個人にむけられている」のようです。例としてオリコン訴訟と僕パパ事件をあげています。僕パパ事件は御存知の方が多いので省略して、オリコン訴訟とは雑誌がインタビューを行い、そのコメントが掲載された雑誌ではなく、コメントした人間が訴えられた訴訟です。僕パパ事件も広い意味では類似の構図と見る事もできそうです。



 賠償額の高額化は医師から見るとマスコミが言うのもおこがましいと感じますし、従来は謝罪広告で済んでいたのが「謝罪+取消」まで要求されるようになったのも、マスコミの日常のバッシング記事からすると「だからどうした」と私は感じてしまいます。自分の身に火の粉が降りかかるようになって、ようやく危険を感じ出したと表現すれば良いのでしょうか。



 もう一つの論点は規制が個人に向いた結果、経営者個人が責任を問われる事になり、経営者の介入により編集の自由が侵害される危険性を指摘されているかと思います。言ったら悪いですが、マスコミの編集権は経営者にあります。責任も経営者にあります。そういう宣言をマスコミ自ら勝手にされているわけですから、それが裁判でも認められるようになった皮肉のように感じてなりません。
田原総一朗 新聞テレビができないもの。どんなメディアも弾圧はかかる。かつて長銀どうするかという話のときに、どの新聞も玉虫色の決着と書いたが、ふざけるなということでサンデープロジェクトでもう1回やろうとしたが、自民党からテレ朝にクレームが来て結局放送できなかった。こっちが弾圧じゃないか!といったら、向こうは弾圧じゃない。頼むからやめてくれとお願いしていると言われた(会場笑)。結局放送した。その後人事が大変なことになったり、自民党の議員が10カ月出てくれなかった。そういう弾圧は日常茶飯事だ。



小沢が辞任した。あの辞任の問題でそのあとは岡田か鳩山かという話しかメディアは書いてない。辞任に追い込んだのは検察だ。そういうことをなんで書かないのか。
 ここは田原氏の武勇伝としておきましょう。サンプロの内容については色々な意見もあるようですが、田原氏自身はこう考えていると解釈します。
元木昌彦 編集者の劣化という話があったが、大半の週刊誌は赤字。こういう時代で光文社も週刊宝石なくした。経営者の経営の覚悟が、出版不況の名のもとに劣化してるんじゃないか
 経営が赤字だから経営者の覚悟が劣化しているとの主張です。どうも経営の覚悟とは赤字でも雑誌の発行を続ける事のように感じますが、経営の感覚から言えば赤字であり、黒字転換の望みが無ければ休刊、廃刊の選択は妥当と感じます。売り上げ部数が落ちて全体のパイが減ってきているのであれば、適正水準に整理淘汰されるのは資本主義社会ではごく普通の現象です。
佐野眞一 出版はPublish、Publicが語源。雑誌は編集者でも読者のものでもなく社会のものだ。雑誌廃刊の波の中で、経営と雑誌編集者が戦った痕跡すら見られない。雑誌は社会のものだという認識がまったく欠けているからだ。おまえら泣き言いうな。僕はかつてダイエーから2億円で訴えられた。



裏取りを進めていく中で原告と被告の関係の風向きが変わった。朝青龍の話をやるなとは言わないが、山内ダイエーの問題は、結局歴史の審判が裁判所以上に軍配をあげた。それくらい深くて広い目線で社会問題を追いかけていかないといけない。そもそも大相撲の八百長にどこまで読者が関心あるか。
 佐野氏の話の前半は元木氏の話を受けてのものかと考えられます。とりあえず雑誌廃刊にあたり、編集者と経営者が戦ったのかに疑問をつけています。雑誌業界の事情がよく分からないのですが、そもそも雇われ人の編集者が戦う事なんてできるのでしょうか。戦うという意味がわからないのですが、編集室に籠城したり、ゲバ棒もってデモしたりでしょうか。少々わかりにくいところです。



 多分ですが佐野氏の言う「戦う」の解説でしょうが、ダイエーと2億円の訴訟を戦った経験談が展開されています。どういう経緯であったかは知見は無いのですが、編集者として戦ったのであれば、ダイエーとの抗争は格好の週刊誌ネタですから、廃刊への抵抗と無関係のような気がします。



 ただ最後の大相撲の八百長の話は同意します。
田原総一朗 防衛省の問題で名誉毀損で訴えられて裁判された。結局2年かかった。しょっちゅうそういう裁判やってる。週刊現代の大相撲問題でいえば、本当はあれは週刊誌が連帯しなきゃいけない。


メディアが訴えられるなんて当たり前だ。何恐れてるんだバカ
田原氏は大相撲の八百長問題に関心は強いようです。それは個人の嗜好ですからおいといて、「メディアが訴えられるなんて当たり前だ」は同意です。
田島泰彦 損害賠償の高額化というのは用意周到に準備されていったもの。まず国会で質問させて今のメディアの損害賠償はこんな安いから、悪いことしてもやり得になってる。そういう質問が自民党公明党から相次いで出て高額化が既定路線になった。そこから裁判所のところに問題がゆだねられていった結果。



そういう一連のプロセスについてメディアはきちんと伝えなければいけない。そういうときに米国はここまで高いということが言われたが、何の反論もせずああそうですかと訴えられた側が受け入れた。欧米との単純比較議論はおかしい。表現の自由のレベルがそもそも違うんだから。



私からいわせれば米国の政府に対する言説の表現の自由が10とすると日本は1くらいしかない。そういう話が議論されず置かれたままどんどん損害賠償が高額化していった。名誉毀損の公的な枠組みが日本と欧米では全然違う。ひどいねつ造記事も中にはあるが、全体で見ればそれなりに正しい記事の方が多い。政治家の利権を暴くような記事で、日本の名誉毀損の場合、立証責任に対するメディア側に対するハードルが異様に高い。
ここの田島氏の主張は巧妙です。名誉毀損訴訟の事を触れているのですが、導入は現在の高額訴訟の布石は政府の陰謀によって形作られてきたとしています。政府の陰謀により名誉毀損訴訟の高額化を招き、これが言論を抑制していると結論しています。つまり政府がマスコミを押さえつけるために仕組んだ陰謀との主張です。



そういう陰謀があったかどうかは知る由もありませんが、この陰謀説を補強するために欧米と日本の言論の自由は全然レベルが異なるとしています。田島氏の主張によれば日本は欧米の1/10しか言論の自由はないそうです。そのあたりは日本にしか住んでいませんから私には分かりませんので、お説としては拝聴するしかありません。もっとも日本のメディアの質が欧米の1/10程度だと言われれば、そうかも知れないとかんじるかもしれません。



ただなんですが、だから日本の名誉毀損訴訟がメディアに厳しすぎるというのは、ちょっと論理が飛躍している気がします。もう少し説明が欲しいところです。




それと「全体で見ればそれなりに正しい記事の方が多い」の主張は心持ち失笑しました。雑誌であっても原則はすべて「正しい記事」であるべきのはずです。雑誌の場合は「正しい」の定義が広くなるだけのことで、記事自体は正しくなければならないと私は考えていますが、田島氏は「それなりに正しい記事の方が多い」程度で雑誌記事の正しさは必要にして十分なようです。



この発言の裏返しは「それなりですら正しくない記事も少なからずある」ですが、それに対する名誉毀損訴訟の発生をかなり懸念する発言をされていますから、整合性としては興味深いところです。


ここまでが第1部となっています。発言者は、田原氏、佐野氏、元木氏、田島氏の4名ですから、第1部はこの4人に討論会形式ではなかったかと推測されます。第2部はこの4人に雑誌の現元編集長が加わっての討論会と言うか各社が順番に意見を述べていく形式になっているようです。第2部のほうが長いのですが、頑張って読んでいきます。

週刊現代 あの判決で目の前が真っ暗になった。賠償請求総額は24億だった。言い訳になるが、勝ったものや勝訴的和解もたくさんしている。八百長事件は連載を始めたときにポイントは24回やった。連載中にリンチ事件があったが、あれは弊誌が報じなければこのような社会的問題まで発展しなかったはず。情報源の秘匿という大ハンディキャップがあるから、ディテールを書けなくなる。これは難しい。僕はあの事件で会社やめたが、まだ控訴中で、これからまだ勝てる可能性もあると思っている。
 「あの判決」とは大相撲八百長報道を指すようです。週刊誌と言っても立ち位置がいろいろありますから、八百長報道に執着するのは自由ですが、八百長報道をしていたからリンチ事件を発掘できたというのはどうなんでしょうか。自負は結構ですが、自負しすぎと感じない事もありません。もちろん細かい事情は分かりませんから、あくまでもそう感じるというだけです。
元木昌彦 負けたときに朝日新聞が現代をずさんな取材に定評があると書いたが、おまえらのところはどうなのか(会場笑)
会場笑!、私も笑!
週刊朝日 さっき田原さんから度胸がなくなったと怒られたが正直いって度胸ないです。萎縮してます。何人か指摘しているが2つの大きな脅威にさらされている。さまざまな規制と訴訟。もう1つは本を買ってもらえないので制作費がなくなっている。



勝てばいいんだ、負ける方が悪いんだ。と佐野さん田原さんから言われたが、私も裁判いくつかあるが負けたものは1つもない。ただ、週刊誌の仕事を25年やったが世の中はずいぶん変わった。人間関係のあり方が様変わりしている。



昔は問題のある記事があったら電話だったり、直接殴り込み来たりしていた。そうしたら直談判して、新たな関係性を築いてお互いに落とし前を付ける話し合いをした。貸し1、借り1みたいな取引ができたが、今はそれができない。内容証明送って警告文送るならまだしもいきなり訴訟される。



こちらの主張もまったく聞かず、向こうがいきなり訴訟するようになった。名誉毀損訴訟は増えたが、明らかに名誉の回復を目的としていない。朝青龍は金の問題じゃない、名誉の問題だといったが、彼らはこちらに黙らせるために高額訴訟をしている。



最近たちが悪いのは名誉毀損訴訟をビジネスにしている弁護士事務所がある。書かれた側に対して名誉毀損訴訟しましょう、と営業をかけている人たちがいる。こっちが困るのはこちらが勝っても、こちらがお金をもらえるわけじゃない。勝ったら金取って、こちらはコストばかりかかる。



取材源の秘匿を考えたら、こちらに立証責任があるとするのは限界がある。日本の名誉毀損損害賠償については、懲罰的な意味合いを持つ訴訟ならば、挙証責任は訴える側にあるべきではないか。逸失利益に関しては有名人であればあるほど高い金を要求するが、政治家ならいくらでも反論できる。



安倍さんから訴えられたとき、彼は首相時代に毎日記者会見で我々の記事に対して反論をしていた。反論の機会は十分にある。最終的にはこちらが和解金を払わない形で和解した。



今日、若い人がいっぱい来てるけど、週刊誌がつまらないから買わないんだよね?(会場笑)。でも、信頼性のある情報は金を出して買って欲しい。



ネットが驚異という話があるが若い人に新聞社のウェブサイトはユーザーフレンドリーじゃない。過去記事検索できないと言われた。タダで全部見せるように言われた。しかし、記事制作にはコストがかかる。ウェブは見本を見せているようなもの。それを言った若者はNHKに就職した(会場笑)。



ネットの情報サイトの二次転載、1クリックの料金が死ぬほど安い。情報デフレの中我々が苦しんでいることも理解してもらいたい。
 前半部分はある程度分かります。貧すれば鈍するの言葉通り、赤字になればどこでも経費節約となり、不確定要素が多い取材の経費にも厳しい目が光り、やりにくくなるだろう事は想像できます。人間関係の変化は雑誌社だけに限った事ではなく、医療関係でも、教育関係でも周知の事です。ボヤく気持ちはわかりますが、雑誌社はマスコミであり嘘でもオピニオンリーダーの一角を担っているのなら、それに対するアクションは行なっているのかと問いたいところです。



 後半は名誉毀損訴訟問題です。まず弁護士が名誉毀損訴訟をビジネスにしているとあります。医療にもそういう専門の弁護士はいますが、彼らにとって区別される存在である事はわかります。記事に対する名誉毀損訴訟専門弁護士は許せない存在であり、医療訴訟の弁護士は称えるヒーローであるようです。まあ、誰だって自分が可愛いですし、自分を基準に置いて考えますからそんなものでしょう。



 もう一つはかなりの重大発言です。名誉毀損訴訟に当ってマスコミ記事の場合、真実性の証明が焦点となります。簡単に言えば記事に根拠があるのかと言うことです。この立証責任は被告であるマスコミが負うのが現在の司法の枠組みです。自分で書いた記事だから、自分で証明せよの理屈かと考えています。俗っぽく言えば、



 「そんなん言うんやったら、証拠見せてみい」



 こう言われた状態かと思います。ところが真実性の証明のためには取材源の秘匿が障害になるとしています。つまり記事の根拠になった事実を明らかに出来無いという事です。確かに不利な条件だと思いますが、そのため真実性の立証責任を原告にすべきだと主張されています。そうなると、被害者である原告は記事の取材源を探す必要も生じます。



 この辺は性善説に立つか、性悪説に立つかで意見が変わりますが、性悪説に立てば、取材源など存在しなくとも「確たる証拠があり、これは公開できないが信用しろ」となんでも書けることになり、これに反論したくとも取材源が無い事を立証するという警察並みの捜査努力が要求されます。事実上の名誉毀損訴訟の免責に近い主張です。



 これが成立するには雑誌メディアの信用性が非常に高く、性善説を唱えられる状態でないと難しいような気がします。このシンポジウムでさえ田島氏は



 「ひどいねつ造記事も中にはあるが、全体で見ればそれなりに正しい記事の方が多い」



 こう指摘されていますし、週刊朝日の発言の前の元木氏も、



 「朝日新聞が現代をずさんな取材に定評があると書いたが、おまえらのところはどうなのか」



 これで会場の爆笑を誘っている現状ですから如何なものでしょうか。それとジャーナリストにとって取材源の秘匿の権利の主張は、かなり重要なもののはずです。この権利は保護されるものではなく、ジャーナリストが血の汗を流して勝ち取る権利とされています。さらに日本では安易に乱発されていますが、よく引き合いに出される欧米では、ここぞと言うときの伝家の宝刀として扱われるとされます。



 申し訳ありませんが、芸能人のゴシップにまで振り回している現状が確実にありますから、個人的には濫用のツケが回っているように感じてなりません。
アサヒ芸能 3代前の編集長です。うちの雑誌は古い。うちが極道物に強いという特徴があったが、現在はそんなこともない。今はヤクザからのプレッシャー、司法からのプレッシャーの両方を受けているのが現状。



我々は芸能人の下半身スキャンダルを中心に構成しているので、記事の公共性公益性で裁判戦うってことは非常に難しい(会場笑)。いつも顧問弁護士からおまえらの記事は公共性の欠片もないと怒られた(会場笑)。裁判でも勝った記憶があるのは1件だけ。



もう1つのプレッシャー極道だが、彼らはOBを打ってもそこから球をフェアウェイに入れるような人たち。彼らの理屈は僕らの理屈とはまったく違う。某関西の非山口組の親分と山口組の盃の話を書いたら、内容が間違って激烈な抗議が来て普段ヌードが載ってる表1表2にお詫びを掲載した。



部数もかなり落ち込んでいてお金もないので、なかなか思い切ったことができないというのは事実。2、30万部くらいあったことは取材費もそれなりに使えたが今は中身が寂しいものにならざるを得ない。ただそれでもやり方はあると思う。



我々は守りに入らなくてもいい。世間を騒がすのが週刊誌の使命だと思っている。
 「3代前の編集長」だそうですから、今はどうなっているかわかりませんが、個人的に好感の持てる発言です。自分の雑誌の売りをよく認識し、経営が苦しくなって取材がやりにくくなっても、それでも前向きに物事をとらえようとしている姿勢がです。もっとも「世間を騒がす」がゴシップ記事中心ですから、そういう発言になるのかも知れませんし、こんな事を言っているから編集長の座を失ったのかもしれません。
フラッシュ 今年2月にフラッシュ編集長になった。22年前に創刊したとき配属された。当時ビートたけし事件直後。写真誌バッシングの中配属された。一時フラッシュEXにいて、5年ぶりに週刊誌に戻ったら記事の作り方や状況がまったく変わっていて驚いた。



個人情報保護法もそうだし、高額化も含め、まったく5年前とは違う状況になってる。名誉毀損刑事告訴を受けた。オウムの横山弁護士から受けた。大阪弁護士会の2001人目の弁護士と書いたら訴えられた。小沢一郎にも訴えられたことがある。行くたびに証拠もってこいと宿題出された。



訴えられたのは会社の社長と取締役。刑事の場合は雑誌ができた時点で社長は初めて読むのに、デスクを訴えても仕方がないということで、向こうは刑事被告にトップを選ぶ。そのプレッシャーは大きい。田原さんの言葉は耳が痛いが、4000万という高額賠償のプレッシャーはかなり大きい。



フラッシュの場合、政治の記事だけでなく、エロ記事も売り。しかし、それもコンビニ規制や有害図書規制で非常にプレッシャーが強い。コンビニが青少年の悪の温床になっているという意見もあって、親や行政からのコンビニそのものに対するプレッシャーも強くなっている。



今はエロ本はテープで閉じられるようになったが、その分今閉じられるエロ本は内容が過激になってる。うちの本はそこまでのことはできない。ケータイはケータイで過激なので、中途半端な立ち位置でやらなきゃいけないのも厳しい環境。



ネットの驚異ということも言われているが、スクープをやっても、発売前日にそれが2ちゃんねるに掲載されてしまう。そのへんも週刊誌の元気をなくしている。というか実売を確実に奪っている
 ここでもそうなんですが、どうやらジャーナリストの基本的認識は記事の根拠は提示不要が常識のようです。提示無しで誹謗中傷記事を書き、反論されても誹謗中傷の根拠を提示するのが非常に心外としている事に気づかされます。他人を誹謗中傷する時にはしっかりした根拠が必要と常識的に思いますし、その根拠さえ本当に信用するに足りるのかも俎上にあがると私は思います。 しかしそんな事は「する方がおかしい」と考えているのが読み取れます。



 医師も非常識の批判を散々浴びせられますが、ジャーナリストの根拠無き誹謗中傷記事の免責主張が常識的とは考えにくいところがあります。
週刊文春 差し止め事件に関しては、文春に敵対するところも含め、いろいろな立場の人から差し止めはおかしいという意見をもらった。あれ以降差し止めの請求は来ていない。業界が一致して戦えばある程度対抗できる。出版差し止めについては一つの区切りがついたと思っている。



週刊新潮も差し止め請求をされた。文春は田中真紀子、新潮は長嶋一茂からされた。田中角栄長嶋茂雄は、さんざんいろいろ書いたが、「記者さんたちも仕事だから」と言って彼らは絶対にそういう提訴をすることはしなかった。その子供たちから訴えられるというのは時代の変化かなと思う。



週刊誌がどう取材をするか。オウム事件のちょっと前、坂本弁護士拉致事件のとき、拉致したのは自分だということを名乗り出た人間が来た。坂本事件の取材はまだ無名の江川紹子だった。そのとき彼女は初めて真実らしい話を聞いたと言った。



こちらもチームを組んで取材班を組んだ。犯人と主張する人間と接触するのは非常にリスキー。なので若い社員でチームを作った。犯人隠匿ととらえられないために、ウィークリーマンションを借りて、犯人を名乗る人間をそこに1カ月暮らしてもらって徹底的にいろいろな話を聞いて裏を取った。



そうすると、言ってることの半分くらいは本当だった。しかし確信ははっきりしない。江川さんは彼を犯人だと思っていたが、しかし記事にはできない。結局犯人が出頭するといって、出頭したが結局わからなかった。



結局犯人ではなかった。そのときの編集長は花田さんで、これは売れると思って120万部もすったが、結果的に誤報にあたるとして直前でとりやめた。しかし新潮は取り上げて誤報をやってしまった。ギリギリの判断だった。
 ここはさしたる感想はないのですが、



 >犯人と主張する人間と接触するのは非常にリスキー。なので若い社員でチームを作った。



 何を意味するのかやや理解が困難でした。若手はいつも大変と言う一般論でしょうか。
週刊ポスト 週刊誌は売ってナンボ。スクープは何か、それは編集者が決めるのではなく、読者が決めるもの。部数を稼いでいろいろな人に読んでもらう。その中で雑誌ジャーナリズムを読んでもらうという順番だと思う。僕が編集長のときはどうやって売るかということしか考えてなかった。



左ページに対象者の写真を置いて、読者に対して向くような構成。これは基本中の基本だ。いろいろな技術を考えていった。雑誌ジャーナリズムとか、声高にかっこつけてやるというのは自分の中にはあまりない。ヌードもたくさんやった。信用金庫の横領のアニータのヌードを考えたのは僕。



ヌードさえ取れれば完売だと思ったら、まったく売れなかった(会場笑)。史上最大のヘアヌードと言われた。逆に安倍しずえさんのセクシーグラビアが団塊世代から受けたりする。読者の求めているものを提供できなきゃ意味がない。



大相撲の八百長の記事に一言いうと、佐野さんが八百長で売れる時代じゃないんじゃないのと言ったが、僕もそう思う。相撲についてはポストでも昔から何度も取り上げていた。読者は相撲に八百長があるということは既に知っている。その先のサプライズを出さないと読者は買わないよ。



何であれで賠償金が4000万円なのかというのはおかしい話。あれは結局裁判官が世の中を知らなさすぎる。僕が裁判官だったら賠償は4000円でいい(会場笑)。そもそもあれは居酒屋のトークレベル。今は厳しい時代でヌードも僕の時代にやめた。次に何が売れるか考えなきゃいけない。



むしろ取材記者、フリーの記者の生活が心配。名の売れていない記者が作ってきた雑誌ジャーナリズムが危なくなってる。ここを消しちゃいけない。



今はグーグルという化け物が火を吹いて歩いている状況。それに対抗するには若い人たちにこっちに来てもらって対抗していくしかない。
 ここも単なる感想です。大相撲の八百長が盛り上がらないのは同意です。ある事が分かっているのに、「実はあった」なんて言われても「それで!」の反応が関の山です。八百長暴露ならいかにも無さそうなところの八百長を暴いてナンボの世界と私も思います。ネットがヌードグラビアを廃れさせたのも同意ですし、ネットに対抗するために若い力が必要なのも同意です。もっとも雑誌と言う形態がネット時代にも生き残るかの問題まで、ここで期待するのは無理でしょう。
プレイボーイ 壇上の人がかなりの確率で刑事被告人経験がある。私はまだない。一回くらいそういう機会があっても良かったなと思った(会場笑)。元々雑誌月刊プレイボーイから来た。



週プレは金食い虫。今の部数は22万部で非常に苦しい状況。うちの雑誌はグラビアやヌードが売りだが、ただそれでもたまに硬派な記事を書くというのが特徴。訴訟的な話はほとんど内容証明送られてくるレベルで止まってる。



内容証明でも事実関係を争うところとは違うところで警告が来た。顧問弁護士に相談したら「これは向こうは脅しだけで本気ではやるつもりはない」と言われた。ただ、こっちも経験がなくてびびってしまって、慎重な対応をせざるをえなかった。



東京都は青少年健全育成条例があって、週刊誌のヌードが1冊20ページを超えてはいけないという規制、勧告がある。単なる脅しではなくて、東京都からアサヒ芸能が呼ばれてこのままの内容ではコンビニに置かせることはできませんよという脅しを受けていた。



佐高信が新入社員に向けてジャーナリズムの危機と可能性についてこの前話をしてくれた。いい言葉だと思ったのは「フェアプレーを志すのはいいが、それには時期尚早」ということ。その姿勢で雑誌は権力を見ていかなければならないだろう。



危ないものとか面倒なものを抑えてしまうということを反省しつつ、これから週プレを面白くしていきたい。
 内容的にさして見るべき物はないのですが、今さら気が付いたのは週刊誌の販売主戦場はコンビニであると言う事です。言われてみればあたり前なんですが、ちょっと歳を取ったと一瞬暗くなりました。
元木昌彦 今の週刊誌の最大のタブーはコンビニ批判。それに対して週刊金曜日は唯一批判している雑誌。
週刊金曜日 金曜日は広告を取っていないのでクライアントタブーがない。警察、検察の悪口も書いてる。度胸はあるが金はない雑誌。



毎日新聞で社会部で記者、サンデー毎日の編集長もやってた。毎日時代にもいくつか訴訟を武富士から起こされた。どう読んでも訴訟起こされるようなものじゃないのに事実無根といわれた。どう考えても勝てる訴訟だったが、結局それで時間を取られた。



武富士との和解の話もあって、そのときは1000万円とか2000万円とかもらえるはずだったが、結局勝訴する形にこだわった。金もらえなかったのは残念だけどそうしないとどんどんあいつら訴訟してくる。



新聞が最近何で売れないか。こんなの当たり前。もともと消費者はそもそも新聞を隅から隅まで読んでない。新聞の読んでる時間なんて平均すればせいぜい5分とか10分。要するに昔の新聞は固定費だった。新聞は今読まれないのではなく、昔から読まれてなかっただけの話。



雑誌は何で買われるか。それは暇つぶし。佐野さんの本は俺も持っているが、佐野さんが連載した雑誌は捨てた。今の暇つぶしは何か。ネットかケータイ。暇つぶしのものとしてやっている以上、雑誌が売れるわけがない。今の雑誌のビジネスモデルは終わってる。



ただ、ビジネスモデルではなく、雑誌ジャーナリズムが終わっているのか。そこのところはまだわからないし、ここのところを議論していかなきゃいけない。



ネットネットといっても、ネットの市民記者と我々プロを一緒にされたら困る。24時間このことだけに専門的にやってる。それと市民記者を同列に語ることがそもそも間違い。



さっきセブンイレブンの話が出たが、僕は今度はトーハン、日販の悪口をやろうと思ってる(会場笑)。そのくらい広告取ってないからやれるけど、広告取ってるところもやればいいじゃない。文句言われてもおまえの社長の愛人のことも書くぞとかいって、勝負かけてやれば何とかなるだろ。



金曜日の編集者見ていても思うのは、もっと仕事を楽しんでやれよということ。強い者が弱い者をいじめてることを暴くことは楽しいことだ。それで国会議員クビにできたりする。今は楽しんで雑誌の仕事をやることが欠けてきているんじゃないか。



楽しいことをドライブしていければ、まだ雑誌ジャーナリズムには可能性もあるし、ネットだってジャーナリズムとの親和性はそもそも高い。紙は減るかもしれないけど、ネットをうまく活用すればいい。
 見えている人だというのが感想です。紙媒体としての雑誌の将来性の乏しさをはっきりと指摘し、紙媒体に拘ることなくビジネスモデルを構築する事がサバイバルの要と分かっているのなら、ここは生き残るかもしれません。
週刊大衆 はっきりいうと、うちの雑誌は雑誌ジャーナリズムではないと思ってる。自分の中にあまり「これが正義だ」的な部分もないが、この仕事は楽しいと思っている。雑誌文化の多様性が好きで出版社に入って運良くこの仕事を続けられている。この多様性をもっと多様にしていきたい。



どういうヘアヌードがいけないんですか?と都に聞くと、「自然なヘアヌードならいい」と言われる(会場笑)。部数は一番売れていたときと比べると半分近くまで下がった。自分の仕事を離れて考えると、この仕事してなかったら多分自分は今週刊誌は読まないだろうなあと思う。



週刊誌が人々の生活のサイズに合わなくなった。それは紙に刷られたこの週刊誌という形が人々のライフスタイルに合わなくなっただけで、雑誌的な情報、楽しみというものは残るだろうなと思う。なんとしても他誌が倒れても自分のところは新しい時代に備えて生き残りたいと思っている。



ヤクザの記事を毎号取り扱っているが、あれを中吊り広告に入れると、文字サイズが大きすぎるとJRから文句を言われる。小さいといいのか?と聞くと「小さければいい」と言われる(会場笑)。ただし、ヤクザ批判のように取れるタイトルの場合はJR的にはOK(会場笑)



これは、JR関連の広告を取り扱うところが要するに検閲をしているから。憤りを感じるというよりなぜだめなのかがまったくわからない。そういうことが世の中にはいっぱいあって、それがなぜなのか、どうしてなのかということを考えないままみんなが過ごしているんじゃないか。



ネットの記事を見ていると、ネットは憎悪や憎しみのようなものが目立つ。茶化したり笑ったり、批評した上でからかったりする。週刊誌とはそういうものだと思っていたが、そういうものが通用しなくなっている。憎しみの方が簡単でわかりやすいからだろう。だからメディアも標的にされる。



憎しみだけが大きくなっていくと、多様性は失われる。多様性がない時代は生きていて楽しくない。週刊大衆は我々の生活が多様であるということを証明しているようなもの。年に1冊くらい買ってください(会場笑)
 この人も商売人だと思います。こういうスタンスがある限り生き残りそうな気がします。
SPA! SPA!はそもそも週刊サンケイが2週間でリニューアルしたもの。なので基本的に数年ごとにリニューアルを繰り返してきているし、信念がないといえば信念がない。ただ、売れて稼げないと我々も何もできない。ここ1年くらいはどの雑誌も落ちている。



金曜日以外は広告収入に頼るがそこも厳しい。うちは数年前に11億広告収入あったが、今は7億くらいまで下がった。もはや広告頼るのやめようという話になってる。景気が回復しても恐らく広告費は戻らない。



広告に効果があるのかということが問われてる。本当は広告効果なんて大してない。それを代理店と我々がクライアントを騙してきた。



最近は単行本の搬入量が非常に増えてる。雑誌は赤字だが、雑誌によって成立した書籍が黒字を出している。今どこで増やすか。書店やコンビニで売るのを頑張っても劇的に販売するのを増やしてもしょうがない。結局はウェブやケータイで優良販売を考えなきゃいけないだろう。



記事や作ったコンテンツにお金を払って読む習慣を持っている読者を持っているということはものすごい強いことだと思っている。



うちのデジタル部署の動きを見てこれはないな、と思ったのはSPA!のデジタル記事を扶桑社のウェブサイトで売っていたこと。だけど、扶桑社そのもののファンなんてのはいない(会場笑)。そもそも売る場所を間違えている。



ケータイやネットの中に、雑誌売り場のようなものを作らなきゃいけないんじゃないか。SPA!だけでは厳しい。ネットやケータイの中にそういう場を作れば、今まで届きにくかった人に届くんじゃないか。ただ、ここ3年くらい20代の読者が目に見えて減っているのは確か。
 SPA!も苦しいのだけはよくわかる内容でした。
田島泰彦 今の若い学生は週刊誌なんか見ない。新しい技術を加えていくということが我々の社会には大事。右であれ左であれ、やり方がどうであれ、新しいものを作っていかなきゃいけない。情報を隠したがる部分に切り込んでいって情報を出すというところには応援をする。そういう雑誌ジャーナリズムへの攻撃には立場の違いを超えて団結すべき。萎縮せずに新しいものを売り出すことをやって欲しいなと思う。
佐野眞一 サンデー毎日がじゃぱゆきさんで大誤報をやらかしたとき、次号できちんと謝罪と検証を行った。新潮は赤報隊誤報のあと第三者委員会を作らなかった。



雑誌は読者のもの。読者が知りたいことを我々が代表質問する。それはかなりリスキーだし命がかかることもあるがやりがいがあること。さっき暇つぶしという言葉があったが、アミューズメントもエンタテインメントも娯楽と訳すが、両者は違うもの。前者は暇つぶし


僕は暇つぶしではなく、エンタテインメントを書いてきたつもり。楽しんで仕事やってないという話があったが、それは今の雑誌が一本調子だよということだと思う。



100円ショップのダイソーがドバイに店舗を出している。しかしあそこも外国人貧困労働者がたくさんいるから成り立つ。東京の再貧困地区である足立区では50銭パチンコというものができている。日本の今の貧困という状況をあぶり出したいと思っている。



困の状況をあぶり出すために雨宮処凛のような安易な方法で書いていたら、読者は飽きてしまうと思う。対価を払ってもらえる情報を書かなければいけない。今日は刺激的なイベントだった。ここに来た若い人は今日のこの面白い風景を思い出してもらいたい。



それを考えることが自分とメディアとの付き合い方を考えるための第一歩につながると思う。
 最後は佐野氏が自分の信念を力説してシンポジウムの〆にしたようです。


ここまでたどり着いた人が何人いるかかなり不安なんですが、もしおられたら本当に御苦労様でした。わたしも後半は感想を書くのに完全にへばってしましたから、その点は申し訳ありません。読むには長かったですが、内容的にはそこそこ面白いシンポジウムだったと思っています。まだ続くのかと言われそうなんですが、その気持ちは私も同感ですので、総論的な感想は明日に延ばします。