日医の「医師の団結に向けた具体的方策」

日医が出した医師の団結に向けた具体的方策をちょっと読んでみます。全部で21ページもあるので、あくまでも私が気になったところをつまみ食いしますので、それは御了解ください。

まずまずこの答申が検討された経緯ですが、

 医療界が直面している様々な問題を乗り越えていくためには、我が国のすべての医師が団結し、医療のあるべき姿に向かって協働していくことが必要であり、そのためには何をなすべきかを検討するために、日本医師会( 以下「日医」という。) に「医師の団結を目指す委員会」が設置された。

なんと言っても具体的方策ですから、どう「具体的」なのか関心がもたれます。答申の意気込みみたいなところを紹介すると、

 医療現場からの、国民の視点に立った医療制度の確立を目指し、具体的政策を提示し、その実現を図るためには、単に数的な組織力の向上に終わるのではなく、小異を捨てて大同につき、他の医療関係団体、経済団体、あるいは保険者団体とも連携して、「国民医療を守る」というスタンスで行動するための方策が求められている。本委員会において、様々な立場の医師の意見が反映される体制作り、医学生や研修医との有機的関係の構築に向けた方策、さらに今後目指すべき医師会・医師会活動のあり方について検討を行ったのでここに報告する。

立派な事を書いてはありますが、

    ほいじゃ、今まではどうだったのか?
こういう声の一つぐらいは出そうですが、「小異を捨てて大同につき」までの具体策となれば楽しみになります。とは言えかなり長い答申なので全部に解説を入れていたら、読める分量ではなくなりますから、「具体的方策」を行なうに当っての基本理念をまず見てみます。

  • 医療崩壊を阻止して、国民の健康と生命を守り、国民の安心と安全を確保できる医療制度を確立すること( 医療難民、介護難民をつくらない)
  • 国民の健康と生命を守るためには、安全で質の高い医療を提供すること
  • 安全で良質な医療を提供するためには、医療提供側の自律機能の推進とともに労働環境の整備を行うこと

基本理念は総論的な部分になりますから、こういう辺りに落ち着くかとは思います。ただ今回の答申の目的は医師の団結のための「具体的方策」ですから、この基本理念を実現させる事が医師の団結に直結する必要があります。つまりこの基本理念を読んで、この基本理念を実現させるために日医の下で団結したいという気運を起さなければなりません。そういう観点から言うとインパクトに欠ける印象を抱きますが、次に進みます。

基本理念を実現させるためのもう少し具体的な方針も書かれています。表現として「当面の課題」とされていますが、まず取り組んで成果を見せようと言う部分と理解しても良いかもしれません。

  1. 勤務医の過重労働問題
  2. 女性医師の就労環境整備
  3. 医療安全調査委員会についての詳細な検討
  4. 医師臨床研修制度及び専門医制度、並びに卒前・卒後教育及び生涯教育の問題

これも無難と言うか当然の課題であって、大いに取り組んで欲しいところです。ここで寄り道になりますが、1ヶ所だけ指摘しておきます。事故調についてこの答申が触れた下りです。

 大野病院事件が契機となり、医師法第21 条の改正や、医療安全調査委員会設置の議論が活発に行われてきた。昨年出された第三次試案に基づく大綱も提示されているが、現在の国会の審議状況では法案として成立することは困難である。また、多くの勤務医の日医批判も、第三次試案の内容とその検討過程に勤務医の意見が集約されなかった経緯への不満が大きいことにある。現状では、民主党案にも課題はあるが、勤務医の間では民主党案への賛意が高いことも認識しなければならない。現在の政治状況を踏まえると、まさに、今、多くの叡智と諸団体の見解を含めた再検討の場を設けて議論することが、医師の団結を目指すとするならば必要な対応ではないだろうか。多くの勤務医の不満を積み残したままの強行は、決して今後の医療界のためにはならないといえる。厚生労働省主導ではなく、勤務医の切実なる思いを十分に汲んだ取り組みが望まれている。

三次試案どころか二次試案にさえ医師会は積極的に賛同し、妙に有名になってしまった木下理事を先頭に、ゴリ押しとまで感じさせる強硬姿勢で三次試案の実現に取り組んだのは記憶に新しいところです。三次試案を阻止するためにネット医師も総力を挙げて努力し、ようやく成立を踏み止まらせた経緯については極めて軽く流しております。

それとこの下りをごく素直に読めば、勤務医が反対したから保留したのであって、勤務医が抵抗しなければ日医は賛成で成立したと読めます。なぜなら一言も三次試案及び大綱についての日医サイドからの批判はありません。取り様ですが、日医は今後も三次試案をベースにした事故調案の推進に変わりはないとも受け取れます。内部事情は色々あるのでしょうが、こういう姿勢で医師の団結を呼びかけるのは如何なものかと考えます。

いろいろ検討はしているようですが結論部分に6か条の具体的方策がまとめられています。

  1. 日医の活動をより透明化し、すべての国民に理解されるよう努力を継続すること
  2. 勤務医と開業医の接点をそれぞれの医師会のレベルで強化し、勤務医の医師会への参加を促す
  3. すべての医師、特に勤務医の労働環境改善に最善の努力を払うこと
  4. 医師の診療上の医療安全、医療事故への適切な対応が行われるよう、公平で公正な調査委員会の設置と医療安全を推進するシステム作りを、現場の医師の意見をより多く取り入れるオープンな形で行うこと
  5. 時宜にかなった課題について、広く意見を聴取し、それを生かすことができる執行部体制を構築し、必要な組織との連携を深め、共通の課題解決のために、協働して取り組めるようなフレキシブルな会務の運営に努めること
  6. 女性医師が働きやすい職場環境を構築し、医師不足や診療科間の偏在解決に努力するとともに、国民の医療への信頼を確保し、日本社会の再構築、労働環境改善のモデルとすること


この答申なんですが、パーツについてはそれなりに無難な事が書かれているのですが、全体に非常な違和感を抱かざるを得ません。全体に違和感が生じる原因は、医師の団結を呼びかける日医の姿勢と指摘できます。これについては

    なぜ、団結できないのか
こう題した項目を中心に散見されます。ちょっとだけ詳しく分析してみます。基本認識は、

日医の活動が日医会員を含めたすべての医師に十分に認識、理解されているとは言い難い状況であり、ましてや国民には十分な理解が得られておらず、政治的な圧力団体という認識にとどまっているのが現状である。

ここは悪くありません。ただこれに続く日医の認識に無茶苦茶違和感を感じます。

日医が正当な評価をされず、日本の医師達と一丸となって活動できなくなっているのは過去における閉鎖性と情報公開が十分になされてこなかったためではないだろうか。

日医が正当に評価されないのはあくまでも、

    過去における閉鎖性と情報公開
つまりロジックの展開が
    過去に悪いところがあった → 現在は改善された → しかし残念ながら過去の遺産に苦しんでいる
現在の日医の体制には問題が無いというのが基本姿勢になっています。ここに大きな違和感が生じざるを得ません。次は医政活動の歴史的基本認識ですが、

日医設立当初から経済復興期の1960年頃までは、病院の数も少なく医療機関は開業医が中心であり、保険診療の内容も十分ではなく、日医の活動、医師会活動は条件闘争、生活闘争であり、診療報酬改善のためにまさに会員一丸となって活動せざるを得ない状況であった。

日医の歴史をどこから置くかは議論のあるところですが、wikipediaから歴代医師会長を参照すれば、

初代 北里柴三郎 1916年-1931年 北里研究所所長
2代 北島多一 1931年-1943年 北里研究所所長
3代 稲田龍吉 1943年-1946年 東京帝国大学教授
4代 中山寿彦 1946年-1948年 東京都医師会長
5代 高橋明 1948年-1950年 東京帝国大学医学部長
6代 田宮猛雄 1950年 東京帝国大学医学部長
7代 谷口弥三郎 1950年-1952年 熊本県医師会長
8代 田宮猛雄 1952年-1954年 東京帝国大学医学部長
9代 黒澤潤三 1954年-1955年 東京都医師会長
10代 小畑惟清 1955年-1957年 東京都医師会長
11代 武見太郎 1957年-1982年 日本医師会代議員
12代 花岡堅而 1982年-1984年 長野県医師会長
13代 羽田春兔 1984年-1992年 東京都医師会長
14代 村瀬敏郎 1992年-1996年 東京都医師会理事
15代 坪井栄孝 1996年-2004年 福島県医師会常任理事
16代 植松治雄 2004年-2006年 大阪府医師会長
17代 唐澤祥人 2006年- 東京都医師会長
補足しておきますと中山寿彦氏の略歴は、

参議院議員自民党)、日本医師会会長
昭和18年日本医師会副会長、勅撰貴族院議員、21年日本医師会長など歴任。22年以来参議院全国区に当選2回。自由党に属し、27年第3次吉田茂内閣の国務相。29年自由党総務、次いで顧問。また、国立公衆衛生院顧問、社会保障制度審議会副会長などを兼務した。

調べる限り医師としての経歴が不明なので開業医か勤務医はわかりません。次に谷口弥三郎氏の経歴は、

香川県三豊郡大野原町に生る。明治35年私立熊本医学校卒業。県立熊本病院産婦人科に勤務、陸軍三等軍医として日露戦争に従軍、戦後県立熊本病院に復職し、明治42年私立熊本医学専門学校助教授に転じた。ドイツ留学を経て、大正4年熊本医専教授に昇進し、医学博士。大正10年後身の県立熊本医専(現熊本大)教授。大正11年日本赤十字社熊本支部産院長となり、同年谷口病院を開設。実験医学研究所長、熊本市医師会長、熊本県医師会長、九州医師連合会長、日本医師会副会長を歴任。戦後昭和22年参議院議員に当選、以後15年議員として活躍。昭和28年久留米大学長。

この方は谷口病院を経営されていたようですから開業医のようです。その次は黒澤潤三氏ですが、これが医師としての経歴がほとんど判らなくて、医療法人一新会の初代理事長であるぐらいしか情報がありませんでした。もうお1人小畑惟清氏は、

熊本県宇土市出身。1908(M41)東京帝大医科大学卒業。同大学産婦人科に入局、翌年浜田病院に勤務、'10ドイツのギーセン大学とベルリン大学に留学。 1913(T2)浜田病院副院長となり、'17主論文『胎児骨盤の化骨核』により医学博士の学位を受けた。'19浜田病院院長に就任。 1948(S23)以降東京都特別区公安委員長、日本医科大学監事、東京都医師会会長を歴任し、'55〜'57まで日本医師会会長をつとめた。 '58藍授褒章受章。著書に自伝『喜寿一生の回顧』がある。

この方は勤務医と見なしてよいでしょう。ですから決して答申に書かれているような、

従って、医師会活動は必然的に開業医が中心

こういう状況で必ずしもなかったと言えます。答申にある

一斉休診や保険医総辞退など社会的にも大きく取り上げられた

これは武見元会長時代に行なわれたことであり、武見時代の遺産として勤務医排斥が徹底的に行なわれたのは周知の通りです。今も昔も日医は開業医中心で活動していたの主張は歴史の曲解でしょう。現体制の正統性にお墨付を与えたい趣旨と解釈しますが、チトやりすぎです。強引に神代の昔から開業医中心の医師会であったと言う強弁の前提を置いた上で、

医師会設立当初の開業医中心の活動から、その後の病院勤務医の増加という医療状況の変化に対応することなく、組織として永年にわたって開業医中心の執行部体制であったことが、現在の勤務医を中心とした多くの医師の日医に対する不満をもたらしていると考えるべきである。

日医の歴史解釈は、

    日医は昔から開業医が主導権を握って活動してきた → 勤務医が増えてきたのでこれを取り込まなければならない
こういう歴史的必然性の下で、医師の団結を今になって呼びかけるのは時宜に適したものであるというロジックになっています。そこから導き出せされる結論は、

医師として個人レベルでは同じ立場にあることは間違いないが、その勤務形態により、いわゆる診療所の経営者である開業医、病院経営者、そして病院や診療所などに雇用される勤務医に区分されることが多い。そして、お互いが医師という共通の基盤があるにもかかわらず、その就労形態の違いからお互いが十分な理解をすることなく、今日に至っている。医師会の設立当初とは大きく変化した社会、経済や医療の状況を十分に考慮し、お互いの置かれている立場に配慮して情報交換し、その改善に取り組むことができなかったことが団結を阻害してきたといえる。

これも現在の状態だけを論じるのなら必ずしも間違ったものとは言えませんが、日医と勤務医の対立の図式のスタートと言うか歴史的経緯をかなり捻じ曲げている感じがします。次の部分も違和感アリアリで、

医師会自身も、郡市区等医師会、都道府県医師会、日医とそれぞれの段階での存在意義や活動が異なることを多くの医師に認識してもらうという努力をしてこなかった。先にも述べたように、医師会設立当初は、医師会活動が開業医中心となっていたが、最近の10年間は、漸く医師会も全国的に、勤務医にも配慮した活動に方針を転換し勤務医とともに活動していくことの大切さを認識して、我が国の医療のあり方という幅広い視点からの活動に変化してきているが、以前の医師会活動との「違い」「変化」を内外に十分アピールできていない。

ここでまず問題点としているのは三層構造になっている医師会です。三層構造になぜなったのかの歴史的経緯は残念ながら存じませんし、三層構造にもメリット、デメリットはあるはずですが、現在の医療情勢でも日医は三層構造自体は是認していますし、是認する事が大前提になっています。勤務医ではなく開業医である医師会員にも三層構造によるデメリットは指摘されています。

これは三層構造である事だけが必ずしも原因とはいえないかもしれませんが、医師会人事の基本は、、

    郡市区等医師会 → 都道府県医師会 → (ブロック医師会) → 日医
この三層構造のステップを登りつめないとなりませんし、だいたい登りつめるのに20〜25年必要です。これもほぼ年功序列に基づいて登ることになり、スタートを40歳にしても、日医執行部に名を連ねるには60〜65歳にならないと無理になります。この人事体制を守る温床になっているんじゃないかと言う指摘があります。三層構造を守りながらの改革も可能ですが、三層構造は長年の経緯により医師会人事を硬直させるガードにもなっているとの見方です。三層構造でなくとも年功序列は出るでしょうが、あればなおさらみたいな感じといえば良いのでしょうか。

それともう一つの問題点と言うか、これまでの日医の姿勢の延長線上であるとしか言い様が無いのですが、

以前の医師会活動との「違い」「変化」を内外に十分アピールできていない

開業医の医師会員でさえまったく感じない「違い」「変化」が日医には起こっており、現在の日医の活動は全くもって「正しい活動」であるとの主張です。医師の団結に当たり、正しい行動をしている、日医サイドのほうでは問題ない活動を現在行なっていると強調している点かと思われます。

 一方、大学や大病院では、それぞれの団体や組織において、そのあり方が議論されるようになり、それぞれの立場での対応が図られるようになってきたために、多くの共通課題があるにもかかわらず、対立軸として捉えられることが多くなっている。今必要なことは、組織としてどう取り組むかではなく、同じ医師としての立場から共通の課題に一致して取り組むことが求められている。

 このような状況下において、日医としてはまず、過去の経緯について十分に反省し、立場の違いを対立軸にするのではなく、お互いが理解できるような議論の場を設けて継続的な対話を行うことが大切である。

ここだけ読めば無難な表現なんですが、日医の基本姿勢は上記した通り

    日医は正しい、だから日医の下に結集せよ
これを踏まえたものであると考えると、現体制の日医の下に文句を言わずに集まってこいと解釈する事が可能です。これは「結論」部分にあるのですが、

一方で、医師会員の対応すべき問題は、年齢的なギャップが若い医師の医師会参入の大きな障壁であることを認識し、いい意味での年齢的ギャップを生かしたアプローチを検討し創意工夫することが大切である。かつての、医師会の努力不足が今日の勤務医と開業医の断絶の大きな要因であることを今後に生かすべきである。

年齢的ギャップとは「爺医」と揶揄される現在の日医の運用姿勢になります。これに対する日医自身の評価がここに書かれていると思います。すなわち、

    いい意味での年齢的ギャップを生かしたアプローチを検討し創意工夫することが大切である
あくまでも現体制は「正しいもの」として変えないとの、非常に分かりやすい主張かと解釈します。つまり日医は変わらないし、変わる必要もない。そういう正しい日医の下に団結せよとの提案と考えるのがよろしいようです。さらに団結せよとは現在の日医の体制を認め、日医を信頼してその支持に従えと主張しているかと思われます。


どんな主張を日医が行っても別に構わないのですが、現体制と現在の路線にそんなに自信があるのなら、黙っていても日医は医師の求心力になるはずです。ところが選挙での候補者支持さえ、末端会員レベルは愚か、都道府県医師会レベルでも日医が求心力を失っているのは明らかです。開業医の日医会員でさえ求心力をなぜ失ったかの原因を日医はまず考えるべきではないでしょうか。

現会員に対してさえ求心力を失いつつあるのに、そこに勤務医を呼び込んで団結させようとするのは基本的に無理があります。机上の空論として揶揄されてもさして不思議ではありません。日医が求心力を失ったのは、日医の体制が時代の変化に適合していないからです。適合していない事に気が付いて、これを改めて現在の日医会員の求心力を回復し、さらに現在未加入の勤務医も加えて団結しようと言うのならともかく、現体制・現路線を容認した上で「なぜ集まらない」と検討する姿勢は笑えます。

おそらくですが答申を出された検討委員会にも、答申を出すにあたって「べからず集」とか「タブーリスト」があらかじめ設定されていた事は容易に想像がつきますが、この程度の代物であるなら、「出した方が逆効果」と私には思えます。