労働基準監督署が何をするところかと言えば、これはwikipediaですが、
労働基準法に定められた監督行政機関として、労働条件及び労働者の保護に関する監督を行う。
労基法の警察みたいなところと考えても良いかもしれません。ただよく御存知の通り、労基法遵守に積極的に必ずしも動いてくれる機関ではありません。積極的にとは、労基署が能動的に会社なりを調査して労基法遵守に導くという事は少ないという意味です。もう少し単純に言うと、労働者が我慢してしまうと労基署は関知しないと言えば良いでしょうか。
労働者は労基法で守られていますが、労働者が労基法を知り、積極的に活用しないと労基署も守ってくれない関係にあります。この辺の機微は微妙なんですが、今日はあまり深く論じない事にします。それでも労働者が労働条件の悪さを相談しに行くと労基署は動きます。これも労基署によって温度差があるでしょうが、そのための機関ですから、そうそう門前払いにするような事はないようです。もちろん前提は最低限の労基法の知識と、これも最低限の証拠を携えて相談した時です。
法律上は労基署にも色々な強権が与えられています。労基法違反は法律違反ですから、告訴や告発も可能なはずですが、これもまた様々な事情によりいきなりそうなるわけでなく、労働者が相談に赴き、相談内容に正当性があれば「行政指導」と言う形式ではそれなりに動いてくれるようです。
このブログは基本的に医療問題を主として論じていますから、医師とくに勤務医の労働条件に話を絞ります。病院の医師の労働条件は労基法の観点から言うとトンデモです。ちょっとした違反と言うレベルではなく、労基法はどこの世界と言うレベルと言っても良いかと思います。だから医師が労基署に相談に行けば、労基署は動かざるを得ない状態になります。
この労働条件と労基法の関係は、実際のところとして、労働者さえ納得と言うか文句を言わなければ存在しないに等しい事もしばしばあります。ただ、そういう関係は裏の話で、表に回って労基署に相談と言う事になれば、労基法が前面に押し出されます。経営者サイドとしては、コチコチの労基法遵守の世界では利益が上がらないので、労働者に労基署に駆け込ませないようにしながらの労働強化を考えるみたいな関係と評しても良いかもしれません。
従来の医局人事下の医師の労働条件は、大学医局も加担して違法労働状態を守る体制でもありました。医局人事下で労基法を盾に活動すれば、病院だけではなく医局も加担して、そういう不逞の輩を探し出し追放するメカニズムが働いていたとされます。もっともあの時代は、労基法を唱える医師そのものを他の医師が白眼視するのが当然の時代でしたから、医局や病院だけではなく仲間の医師からも排斥されていたとも考えます。
ところが医局の弱体化が進み、違法労働を前提として組み立てられていた医療現場に変化が起こります。極度の医師不足感の広がりです。病院や医局が違法労働を守れた力の源泉は「代わりはなんぼでもいる」かと考えています。代わりはいるのですから異端者は排斥しても痛くも痒くもないという感覚です。ところが代わりを見つけるのが困難な時代になれば、異端者排斥の手法の威光が衰えます。
医療崩壊に対するアプローチの一つに労働条件の改善は長く唱えられています。労働条件の改善の根拠として労基法を活用する必要があるとも活発に議論されています。しかし現実にまず起こったのは逃散です。逃散の意義については多面的ですが、一つの側面として、労基法を盾にしての活動が異端者排斥になる事を懸念してのものであるとも考えています。医師世界も広い様で狭いですから、そういうレッテルを貼られるのは嫌だとの無意識の行動と言う捉え方です。
逃散現象という波はこれからもまだ続くでしょうが、新たな動きとして労基署への相談による労働改善の手法が、やっと広がりつつあるように感じます。これは医局の弱体化だけではなく、従来に較べて同僚医師からの白眼視傾向が減少したことにも相関する様に感じています。労基署への相談が異端者排斥につながらないだけではなく、積極的まで行かなくとも、消極的ないしは暗黙の支持が与えられるなら、労働条件の改善手法として逃散に次ぐ選択枝として浮上してもおかしくありません。
ちなみに労基署からの行政指導を受け、是正勧告を受けた病院がどれほどあるかです。残念ながら漏れなく網羅したリストは存在しないと思われますが、江原朗様が小児医療と労働基準で精力的に集められています。江原朗様の情報収集は是正勧告書の原文コピーを固めたものですから、資料的価値は非常に高いものです。でもってどれぐらいあるかですが、
- 滋賀県立成人病センターに対して大津労働基準監督署から発せられた是正勧告書
- 佐賀県立病院好生館に対して佐賀労働基準監督署から発せられた是正勧告書
- 筑波大学に対する是正勧告書
- 広島大学に対する是正勧告書
- 県立多治見病院への是正勧告書
- 山梨県立中央病院への是正勧告書
- 県立広島病院への是正勧告書その他
- 大崎市民病院(宮城)への是正勧告書
- 三田市民病院(兵庫)への是正勧告書
- 長崎大学への是正勧告書
- 広島市安佐市民病院の是正勧告書
- 福井県立病院の是正勧告書
- 鹿児島大学病院への是正勧告書
- 群馬大学への是正勧告書(昭和事業所が病院)
- 三重大学への是正勧告書
- 信州大学への是正勧告書
- 九州大学への是正勧告書
- 香川大学への是正勧告書
- 都立府中病院への是正勧告書
- 島根大学 出雲地区(医学部)事業場への是正勧告書
- 長崎大学医学部・歯学部附属病院への是正勧告書
- 東北大学病院への是正勧告書及び指導票
- 北九州市立医療センターへの是正勧告書
これがすべてではもちろんありません。これ以外にもあるのは間違いありません。ここで労基署からの行政指導による是正勧告が行なわれるとどういう事が起こるかです。滋賀県立成人病センターの例が参考になりますが、
- 時間外労働などの違法労働への支払い賃金が発生する
- 違法労働を前提とした労働体系が組みにくくなる
ただ2.に関しては深刻かと思います。病院の勤務体系を支える大きな部分は、当直という名の勤務です。当直が労働時間にカウントされないというメリットを最大限に活かしたものです。これが是正勧告により労働時間に組み入れられてしまうと、一挙に人手が足りなくなります。使用者は労働者に無限の時間外労働を課すわけにはいかないのです。当直と言う隠れ蓑で時間外労働を量産する手法に制限が生じる事になります。
時間外労働の上限も厳密には決まっていない部分もあります(本当は36協定で厳密に決まっていますが)が、一般に月に80時間程度が過労死ラインとされます。過労死ラインを基準にしても、たった月に80時間しかカバーできない事になります。36協定遵守なんて事になるともっと減ります。要するに減った分の穴埋めに医師が必要になります。
医師を増やすのは経営的にも負担となり、今の御時世ですから増やす医師を探し出すことも問題になります。是正勧告の遵守も労働者側が積極的に関与しないと、ウヤムヤにされてしまう事が多々あるともされますが、威力としては相当なものがあります。さらに言えば是正勧告をウヤムヤに処理しようとするのに医師が反発すれば、今度は集団逃散を招く危険性も出てくることになります。集団逃散へのハードルも低くなりつつあります。
劣悪な労働条件下の医師の反応として現在起こっているのは、
- 個人的な医師の逃散
- 個人的が拡散し、集団となっての逃散
- 労基署への駆け込み
そういう流れを踏まえて、まず3/25付ロハス・メディカルより、
(速報)愛育病院に労基署が是正勧告
東京都港区の恩師財団母子愛育会・愛育病院(中林正雄院長)が今月、所管の三田労働基準監督署から、医師など職員の労働条件に関して、36協定を締結していないことなどを理由に、労働基準法違反で是正勧告を受けていたことが分かった。最悪の場合、業務停止命令が出されるという。同病院は、秋篠宮紀子様が悠仁親王を出産されるなど、条件の恵まれたセレブ病院として知られている。また、1999年には東京都から総合周産期母子医療センターの指定も受けている。他病院に比べて労働条件に恵まれた同病院さえ是正勧告を受けたことで、周産期医療界に激震が走っている。(熊田梨恵)
同病院に勤務する医師はこの問題について、次のように話している。「先週、労基署から呼び出されて是正勧告を受けたが、もとより労働基準法に準拠した働き方になっていない事は明らかで、36協定を結べばいいという話ではない。産科も新生児科も大幅に増員の必要があるが、それが簡単にできるならとっくの昔にそうしている。愛育病院はまだ恵まれている方だから、ほかの病院にはもっと厳しいはずだ。業務停止になれば、病棟閉鎖になる。厚生労働省は自分たちが何をやろうとしているのか、全く理解していない」
同病院は、1999年に東京都から総合周産期母子医療センターの指定を受けている。新生児集中治療管理室(NICU)や母体・胎児集中治療室(MFICU)を含む118床を有し、2007年度の分娩件数は約1750件。
なお、この他にもいくつかの病院が同様の勧告を受けたとの情報がある。新たな情報が入り次第、順次お伝えしていく。
おっとロハス・メディカルのコメ欄を読むと法務業の末席様から「業務停止命令」の件について注釈が入っていますから、その件は置いときますが、3/25付共同通信(47ニュース版)より、
「総合周産期」返上を打診 医師確保困難で愛育病院
東京都から早産などハイリスクの妊産婦を24時間体制で受け入れる「総合周産期母子医療センター」に指定されている愛育病院(中林正雄院長)が、複数の医師による当直が困難なことなどから、都に指定の解除を打診したことが25日、都や病院への取材で分かった。
愛育病院は必要な医師数が少なくて済む「地域周産期母子医療センター」への指定見直しを希望し24日、都に意向を伝えた。都は医療体制に大きな影響が出るため、病院側と協議している。
愛育病院によると、15人の産科医のうち3人が子育てなどのため夜間勤務ができないという。
今月中旬、三田労働基準監督署は労働基準法に基づく労使協定(三六協定)を結ばず、医師に長時間労働をさせていたとして、是正を勧告。これを受け病院側は「各医師に法定の労働時間を守らせると、医師2人による当直は難しい」(中林院長)と判断した。
記事の中林院長のコメントが注目されます。
-
「各医師に法定の労働時間を守らせると、医師2人による当直は難しい」
もう一つ産科医療のこれからから、
日赤医療センターも労基署の是正勧告が入っているとの情報です。僻地の産科医様の情報網は物凄いですから、これも信用して良いかと思います。日赤医療センターはこれも噂のスーパー周産期です。これも情報不足で「スーパー周産期」のためにどれほどの医師が配置されるとか、配置される要件みたいなもの(無いような気がしますが)にどれほど影響するかです。
ところでこの是正勧告ですが、一度出ると結構大変なものの様です。とりあえず是正勧告項目には対応しないといけなくなります。労基署も使用者側の事情にも斟酌はしてくれる部分もあるようですが、少なくとも、
-
是正勧告通りにすれば仕事が成り立たないから、応じられない
それと是正勧告の怖さは、誰かが相談に行くだけで発動される可能性があることです。これまでの医療現場は、
- 医師の労働条件への関心の極度の低さ
- 相談者に対する異端者排斥システムの存在
-
医師の「やりがい」と労働条件の釣り合いが取れた職場の形成
ふぇ、くたびれた。明日は休載にさせて頂きます。どうもまだ本調子じゃなくて申し訳ありません。