日曜閑話25

今日のお題は「武田信玄に歴史の『if』があるか」です。甲斐の武田は信玄の代で戦国屈指の強国になりましたが、信玄が父信虎を放逐して引き継いだ時は、大した勢力ではありません。甲斐は貧しい国であり、勢力拡張のために父信虎に引き続き信濃侵略を行う事になります。信玄が諏訪攻略に取り掛かったのが1542年、村上義清が葛尾城を放棄したのが1553年ですから、足掛け10年ばかりの事業になります。

信玄と言うか武田が信濃に進攻したのは、他に勢力を伸ばす地域がなかったからだと考えます。南も東も今川氏、北条氏が強固な地盤を築いており、この二大勢力に較べると話にならない武田の戦力では、進出しようがなかったと言えます。信濃は地形から言っても統一した大勢力が出現しにくく、武田の戦力でも各個撃破で勝てると計算されたのでしょう。

葛尾城攻略からは謙信と川中島で火花を散らします。川中島合戦は1553年に始まり1564年まで5回に渡って戦われます。この戦いを評して、信玄も謙信も時間と戦力を浪費したとよく言われます。謙信はともかく、信玄にとってはどうかに疑問があります。信玄は信濃の8割を支配下におきましたが、それでも戦力としては南の今川、東の北条に較べると劣ります。信玄の軍事力では今川打倒や、北条征服などは夢であったと考えて良いかと思います。

もし謙信と講和条約を結んだとしても、信玄は勢力の伸ばしようがないと言えばよいでしょうか。ここで歴史の「if」を楽しみたいのですが、謙信と信玄が川中島合戦をもっと早期に切り上げ、甲越同盟を結んだとしたらどうなったかです。この同盟には謙信も、信玄もメリットがあります。謙信は生涯関東にこだわった人であり、南の武田の脅威がなくなれば関東に専念できます。

信玄の方ですが、何より川中島での戦力消耗を防げます。武田の勢力圏の甲斐も信濃も豊かな国とは言いがたく、大きな戦力消耗を行えば補充は大変です。ここで甲越同盟が出来れば信玄はどこに進出を考えるかになります。一つは謙信と組んでの関東出兵です。ただし武田の関東進出は謙信が喜ぶとは思わず、甲越同盟の条件に武田は関東に手を出さないが盛り込まれるように思われます。

そうなると信玄の勢力拡張は南の今川になります。今川氏は義元が桶狭間で思わぬ惨敗を喫したため弱国の印象がありますが、義元率いる今川氏は強大でした。大雑把ですが武田の2倍ぐらいの軍事力はあったと考えます。そうなると信玄はどこにも勢力拡張が出来なくなります。信玄が信濃に継いで勢力を拡張したのは、桶狭間以後に勢力を衰退させた今川氏ですが、甲越同盟が結ばれれば桶狭間がなくなる可能性が出てきます。

東海甲信越には、戦国屈指の英雄がそろいました。言うまでもなく、越後の謙信、関東の氏康、甲斐の信玄、駿河の義元です。この四強の基本対決構図は、謙信が関東管領名跡肩書きに異常にこだわったために、

    謙信 vs 氏康
これがあります。ここで氏康と義元の関係は、氏康は謙信の攻勢を受けながら箱根を越えて駿河に進出する余力が無く、義元も箱根を越えて氏康と戦う気が無いと言うものです。義元は氏康と対決しながら東に勢力を拡張するよりも、西への勢力拡張に熱心でした。義元は駿河から遠江、さらに三河へと勢力を拡張し、次の目標は尾張としていたと考えます。尾張織田氏は弱小ですからね。

義元が1560年に桶狭間に主力を動員できたのは、隣接する信玄、氏康との同盟関係があったからです。ところが甲越同盟により信玄が北から脅かせば、義元は桶狭間に出撃しない可能性が出てきます。義元は桶狭間の時にまだ41歳ですから、あそこで戦死しなければ、少なくとも10年以上は強国今川は続く事になります。歴史は桶狭間で勢力を衰退させた今川に、武田がようやく侵略の手を伸ばしたのが1568年ですから、桶狭間が無ければ義元健在で手も足も出なかった可能性が強くなります。

また義元が桶狭間でなく、もう少し早く病死していたとしても、暗愚とは言え桶狭間の惨敗なしで今川家を継いだ氏真もそう簡単には攻略できるとは思えません。氏真が無謀な攻勢に出ればチャンスはありますが、その点、氏真にはまるで積極性がありませんから、家臣団にある程度団結が保たれれば強敵になります。そういう家臣団を構築していたのも今川の強さの秘密です。

歴史の「if」で謙信と信玄が甲越同盟で戦わなかったら、今度は信玄晩年の駿河進出のチャンスが消える可能性が高くなります。高くはなりますが、今度は「謙信 vs 氏康」の関東の覇権の行方が変わってくる可能性が出てきます。ここは微妙な問題ですが、謙信は卓越した戦術家ではありましたが、戦略家としての資質は正直なところ疑問符が付けられる武将です。一方の氏康は戦術家としては謙信に劣っていましたが、戦略家としては謙信を上回っていると考えられます。

関東の覇権争いは戦術家の謙信が合戦に勝って回る一方で、戦略家の氏康が冬季に動きが取れなくなる謙信を尻目に、失地回復に励むという構図です。さらに戦略家の氏康は後方の今川と結び、さらに武田をけしかけて謙信を関東と川中島の両面作戦に追い込むようにしています。ところが甲越同盟があれば、謙信は川中島が不要になり戦力を関東により集中できます。謙信が川中島抜きで関東に攻撃を集中したら、氏康の戦略で謙信の戦術を凌ぎきれるかの問題がでてきます。

謙信が北条氏を本当に滅ぼせるかどうかは、小田原城を落とせるかと言う問題に帰着しますので難しいところですが、川中島と言う要素が無ければありうるかもしれません。もちろん謙信が北条氏を滅ぼしても関東を平定できるかは、これまた疑問が多いところですが、北条氏がいなくなれば、関東の勢力地図は大混乱になる事だけは間違いありません。

ただし「謙信 vs 氏康」が謙信勝利になっても信玄に新たな展望が開けるわけではありません。その時点で甲越同盟を破棄して謙信に挑戦しても、今度は川中島より条件の悪い戦いを強いられる可能性があります。せいぜい関東の覇権を「謙信 vs 信玄」で争う事になりますし、そんな事をすれば今度は今川の動向が信玄の足枷になります。


どうもなんですが、武田の戦略として川中島で戦わざるを得なかったとするのが良い様な気がします。信玄にとっての歴史の「if」は謙信と争わない事ではなく、川中島のどこかの時点で、謙信をコテンパンに叩きのめし、できれば謙信も討ち取り、越後攻略が出来たかどうかになりそうです。信玄が川中島の10年間でドローではなく、越後占領になっていたら、初めて信玄にとっての「if」が出てくる気がします。

越後を征服中であれば、義元の桶狭間は起こる可能性があります。問題は氏康ですが、たぶん関東征服に専念するんじゃないかと思います。関東征服後は、天下取りのために今川や武田に挑戦するというより、奥州進出の方が可能性としてありそうに考えています。理由は単純で、そっちの方が弱そうで、着実に勢力を広げられそうだからです。

義元に桶狭間があり、氏康が関東から奥州に関心を示せば、信玄は歴史で謙信が通った道を使っての上洛戦が可能になります。ただ「それでも」が信玄には付きます。仮に川中島の期間を使って越後征服を行なったとしても1564年になります。信玄はその9年後の1573年に病死します。果たしてこの期間に上洛を果たせるかどうかです。

上洛戦にあたっては信長の動向が鍵になりますが、1567年に岐阜城に移り、1568年には義昭を奉じて上洛しています。1570年には有名な姉川の合戦になるのですが。この辺で信玄が絡めるかどうかです。また絡んでも1573年には病死します。やはりどう転んでも信玄の天下取りは難しそうな気がします。もちろん信玄の政治力、政治思想で新しい天下を作れたかどうかは別の議論になりますが、個人的な結論として歴史の「if」は信玄に少なそうな気がします。