伝説から神話に変わる時

研修制度改定にちなんで新研修医制度の私的な総括をしようかと案を練っていたのですが、考える上で致命的な事がありまして、新研修医制度下の研修医の実態を目で見ていないのです。そこで総括なんて大げさな事はやめて、確実に現れる影響と言うか変化を書き散らしておきたいと思います。

現在のとくに勤務医の労働実態については説明は不要かと思います。そういう労働環境で日本の医療を支えているのが現在の勤務医です。なぜにあれほど働けるかですが、一般には漠然と「医者だから当然」と考えてられる方が多いようですし、医師の中でもそう考えてられる方が少なくないように感じています。とくに発言力の大きな方に目立つ感じがします。

しかし「医者なら働いて当然」とするのは大きな勘違いだと考えています。医師があれほど働けるのはやはり理由があります。理由とは

    医師は異常に働けるようにトレーニングを受けている
何もトレーニングを施さなくとも「異常に働ける」医師は存在しますが、これは他の業種も同様に一握りです。平均してどの医師も「異常に働ける」のはそうなるようにトレーニングが行なわれていたのです。そうでないとあれほど働けません。勘違いされるのは、トレーニング中に刷り込まれるスローガンに「医師だから」があり、まるで「医師だから」の言葉一つで医師が異常に働くように信じられている事です。

異常に働くためのトレーニングはシステムとして徒弟制の極致みたいなものです。上は教授から下は2年目の研修医まで一色になって、新卒の研修医に寄って高って教え込むシステムです。これは1年で終了するものではなく、勤務医を続ける限り延々と続くもので、1年目より2年目、2年目より3年目と連綿と続けられる事により、精神の奥深くまでトレーニングで染め上げてしまうものです。いつから始まったかわかりませんが、そういうトレーニング環境を保ち続ける事により医師はごく普通のお仕事として異常に働けるようになると言うわけです。

ところが新研修医制度はこのトレーニング環境を消滅させました。是非は別にして新研修医制度は徒弟制の教育環境を否定して成立しています。実はと言うほどの事はありませんが、トレーニングシステムの弱点は全員参加でなくてはならないという点があります。異常に働くためには目に見える医師全員がそうでないと保持できず、とくに医師になって早期の初期トレーニングが非常に重要です。

「三つ子の魂」の言葉があるように、途中からではトレーニングは成立しません。だいたいトレーニングする相手は若くて24歳なのですから、この年齢の人間の精神をそこまでトレーニングするのはかなり無理があり、軍隊並みの統制があってやっと成立する性質があるからです。ところが新研修医制度は非常に重要な初期教育を非常に困難にしています。

新研修医制度で育った医師は完全に新世代の医師と考えます。新世代の医師が働かないわけではありません。新世代の医師でも普通に働きますし、人並み以上に働いても何の不思議もありません。ただ旧世代の医師のように異常に働くことは難しくなります。あれはトレーニングなしでは到底不可能だからです。

旧世代の医師も新世代の医師を見ながら動揺はしていますが、それでも旧世代の医師は心の奥底までトレーニングされ尽くしていますから、表層意識で「これはどうもおかしいぞ」と思っても、体が勝手に働いてしまいます。もちろん意識の変調が大きくなって逃散する者もいますが、実数としては案外少ないものです。結果として文句は言いながらも現場を支えてしまいます。現場を支えてしまうので、医療崩壊などと言いながら、その崩壊の速度は思いのほかに緩徐な物があります。

現在のところ新世代医師はやっと4年です。ただし時は進んでいきます。もう10年もすれば新世代医師は中堅層に確実に食い込んできます。10年と言わず5年しても大勢力になってきます。信じられないような現場を支えている旧世代医師の補充は新世代医師になります。部分的には現場で旧世代医師が新世代医師をある程度トレーニングして、旧世代に近い働き振りをさせるかもしれませんが、かつてのように医師なら誰でも当たり前にはならなくなります。


私のような旧世代医師でも伝説を聞かされたものです。医療環境や医療レベルの違いがあるにしろ、旧世代医師が聞いた伝説は壮絶なものです。地方基幹病院に1人医長で赴任し、連日外来300人をこなしながら病棟を維持し、ここに応援医師が赴任して2人体制になれば「余裕が出来た」として新生児室を作ってしまうというような伝説です。

これは小児科の話ですが、他の診療科でも似たような話はゴロゴロしているかと思います。旧世代医師は鬼軍曹のような先輩医師からこのような伝説を聞かされ、「今どきの医師はなっとらん」と常に言われ続けてきたのです。聞かされるほうも聞かされる方で、「そうならないといけない」と無邪気に励んでいたのが伝説です。

新世代医師にとってはこれは伝説ではなく神話になると思います。ここで伝説とは目指すべき指標の意味であり、神話とは荒唐無稽のお話の意味です。新世代医師にとって旧世代医師の伝説は、参考にすべき業績ではなく、異世界の人間による超人の奇跡譚になり、「それは人間業ではない」と受け取るという事です。

知人の産科医師の話もやがて神話になると考えています。交通不便な僻地の地方都市で年間500分娩を取り扱うなんて、新世代医師にとって神話にしかならないと思います。旧世代の医師なら「大変だな〜」の感想になりますが、新世代の医師なら「ありえない」となると言えばよいでしょうか。


誤解無いように言っておきますが、そういう世代交代は賛成です。医師がトレーニングによって異常に働く事により成立してきたモデルは、間違いなく限界に達し、制度疲労を起しています。異様な労働によって成立したと言っても、医療関係者以外には殆んど評価はされず、むしろ「まだ根性が足りん」と叱咤される世界は異常です。

またいかにトレーニングを行なおうとも医師も人間ですから限界はあります。極限まで引き延ばされた労働量はこれ以上はどうしようもありません。ドラスティックな改革がないとトレーニングを受けた旧世代医師でも体が燃え尽きます。そう考えると新研修医制度がもたらした影響は偉大なのかもしれません。