日曜閑話23

今日のテーマは「川中島合戦」です。戦国史上でも、もっとも有名な合戦で、戦国最強とされた越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄が死力を尽くして決戦を行なった戦いとして有名です。ただ川中島合戦の真相については有名な割りに資料が乏しいそうで、有名な戦いであったが故に、とくに江戸期にかなりの創作が為され、それが事実のように伝わっている部分も少なくないとされます。

川中島合戦が5度あったというのさえ異論はあるそうですが、それは置いといで、有名なのは1561年の4回目のものです。この頃には鉄砲は伝来していましたが、まだ数も少なく、川中島合戦では殆んど使われなかったと考えて良さそうです。越後も甲斐も鉄砲の生産地であった泉州堺や近江国友村からは遠く、さらに生産量もまだ少なく、非常に高価なものであったため、鉄砲以前の合戦と考えて良いかと思います。

激戦であったのは間違い無く、多数の戦死者(一説には上杉軍3000、武田軍4000)が出ただけではなく、武田側の有力武将である武田信繁、諸角豊後守が戦死したのも史実であるとされます。ですが両軍の戦法すら資料的な裏付けはないとされます。川中島合戦については甲陽軍鑑が有名ですが、これはその基になるものを合戦に参加した高坂弾正が書いています。

高坂弾正が書いた記録を小幡景憲甲陽軍鑑として出版したのですが、研究によると小幡景憲が手書きの原本ないし筆写本を入手した時には痛みがひどく、判読不明になっている個所が多数あったとされます。そのため小幡景憲が読めないところをかなり創作したのではないかとも言われています。ただ甲陽軍鑑は当然のように武田側からの川中島合戦の記録ですが、もう一方の当事者である上杉側の記録が乏しいと思っています。

武田家は勝頼の代に滅亡しましたが、上杉家は江戸期も生き残りました。上杉家にとっても川中島は名誉の記録であり、合戦の参加者も多数いたはずなのに有名な記録は残していないように思います。川中島合戦の実録が無いことは江戸期でも問題になったらしく、三代将軍家光はわざわざ越後長岡藩牧野家に作成を命じ甲越信戦録として残されています。ただしなんですが、牧野家は徳川氏の譜代大名であり、越後長岡と言う上杉氏所縁の地にいましたが、どれだけ川中島合戦について情報があったかはやや疑問です。

と言う事でとにかく大激戦であった事だけは間違いないのですが、他の事はよく分からないのが川中島です。良く分かっていないのなら、ある程度自由に考える事ができます。現在に伝えられている記録を疑い出したらキリがないのですが、今日はその幾つかを正しいものとして前提にしておきます。そうしないとすべて引っかかって話が進まなくなるからです。前提の正しい条件は、

  1. 多数の死者が出る激戦であった
  2. 両軍の兵力は上杉側1万8000、武田側2万とする
兵力は疑問が多いとも考えられますが検証しようが無いので前提とします。また兵力の分け方ですが、
  1. 上杉側は善光寺に後方部隊として5000を配置し、決戦兵力としては1万3000であった
  2. 武田側は決戦時に1万2000の別働隊と8000の主力部隊に分けた
これも議論しだすとキリが無いのでこうだったとします。


武田も上杉も川中島にこだわったのは、川中島長野盆地)が豊かな地域であったのと同時に、両強国の裏玄関であったと考えています。武田が川中島を制すると、上杉は越後の脇腹に匕首を突きつけられた格好になり気色悪いですし、上杉が川中島を制すると、武田にとって信濃経営の目の上のタンコブになります。武田にしても本気で越後進攻の積りがあったとすれば疑問ですし、上杉が信濃占領に着手するかも疑問なんですが、両強国の戦略的安定のために戦う必然性があったとも言えます。

選択として和睦し、他の方面に兵力を向けるというのも有力のはずですが、当時の関東の構図は上杉 vs 北条があり、北条の対上杉戦のために構築された北条、今川、武田の三国同盟があります。武田が上杉と同盟を結べば、今度は北条、今川を敵に回す事になり、信濃攻略が当時の至上の目標であった信玄にすれば、差引勘定で上杉と戦う方がお得と判断したのかもしれません。三国同盟の中で最小だったのが実は武田で、信濃支配下に収める事でようやく肩を並べることが可能になるの計算もあったと思います。


川中島合戦は長野盆地善光寺平)とも呼ばれる信濃北部の平野地帯を巡る争奪戦なんですが、どうも周辺の山々には小城砦が幾つも築かれているようです。全部で10年もやって、平野部の主力決戦では勝負がつかないのですから、必然的にそうなるかと思います。中途半端に平野部に城を築いても、武田も上杉も1万以上の兵力を動員しますから、簡単に押し潰してしまいます。

その中で大きなポイントになったのはやはり海津城かと思います。この城一つで犀川以南を武田の勢力圏に収めますから、謙信の攻略目標として当然考慮されていたと考えられます。第四次の川中島合戦までに武田、上杉の勢力圏は犀川で南北に分かれていたとされます。そういう中で有力拠点としての海津城の存在は大きく、武田は海津城を拠点に犀川南部に前線基地を幾つも設け、支配を確実にしていたとされます。

川中島合戦で武田側の不利な点は、上杉より決戦場である川中島に遠いという点があります。この距離の不利を補うための戦略拠点が海津城であり、もし海津城を上杉側が奪取すれば長野盆地の支配権は大きく上杉側に傾く事になります。ですから謙信も戦略目標として海津城の存在を重く捉えていたと考えますし、現実の合戦も海津城の存在が重くあるように感じます。

海津城の奪取を戦略目標としても、謙信にしても真っ直ぐ襲いかかる訳には行きません。海津城の防御戦術は、上杉軍が南下してきても、甲斐本国からの救援部隊が駆けつけるまで守り抜けばOKです。謙信にしても数日で落城させる事が出来れば良いのですが、とてもそういう訳には行かず、武田の主力軍が北上するまでに落城させても痛手を負った状態で決戦しなければなりませんし、奪取できなければ海津城と武田主力の挟撃にあう危険性が生じます。

つまりと言う程の事はないのですが、海津城奪取の戦略には武田軍主力を撃退するというのが必要で、逆に武田軍主力を撃退すれば海津城は救援の可能性がなくなりますから、容易に奪取は可能と考えたたのではないかと思っています。川中島に上杉が進撃すれば必ず武田が呼応しますから、これを一蹴し、その後に海津城を奪取し、長野盆地の支配権を上杉の手に握りたいの戦略です。


そういう戦略が基本にあったとして、謙信の有名な妻女山に陣を取るが出てきます。上述しましたように、川中島合戦についての信頼できる資料が乏しいために、現在では妻女山に謙信が本陣を置いたとの話にまで疑問が投げかけられています。理由としては、

  1. 女山海津城を戦略的に圧迫できる位置にはあるが、一方で武田の勢力圏の中であり補給に困難を生じる。戦術的に死地にあたり、作戦として無謀すぎる。
  2. 謙信が陣を置いた妻女山の規模は小さく、とても1万3000の兵が布陣するのは無理である
だから謙信は妻女山に本陣をおかず、犀川の北部の旭山なりに拠点を置き、海津城攻略を目指して犀川以南で戦われたのが川中島合戦の真相であるという考え方です。この説は現実的で合理的なのですが、個人的には疑問があります。そういうスタイルの対戦は他の川中島合戦ではポピュラーですが、そういうスタイルでは大会戦に至らず、小競り合いを繰り返すだけで終わっています。

甲越両軍の兵力、兵の強さ、指揮官の能力はほぼ互角ですから、平地で互角の陣を敷いての対決では、戦力の消耗を恐れて決戦に至らないという事です。無理に仕掛けると謙信も信玄も稀代の戦術家ですから、大きな損害を出すと自重してしまうのです。それがこの第四次のみ大損害を出す激闘になってしまったのかの説明に不足している様な気がします。もちろん「たまたま」で大規模戦闘に至ったとの考え方も不可能ではありませんが、個人的には説得力が足りないと思います。

それと妻女山への謙信の布陣は、後世から見ても冒険的と言うか無謀なものとされています。そういう事を創作で考え出すかの問題があります。謙信の妻女山布陣が無ければ啄木鳥戦法も存在しない事になり、それも含めてのすべての創作になります。創作にしては雄大すぎると考えるのは私だけでしょうか。やはり事実して謙信の妻女山布陣はあったと考えたいと思います。目的はもちろん武田主力軍を撃退すためで、その一点に絞って妻女山を謙信は選んだのではないかと考えます。

それと妻女山が上杉軍が布陣するには小さすぎるとの説ですが、妻女山の位置と名称についてとして詳細な考察をされておられる方おり、そこから写真を引用しますが、

写真を見ればお分かりのように、現在妻女山とされている山は小さな山で、上杉軍1万3000が布陣したとするには無理があります。ところが現在妻女山とされている山は、昔は赤坂山と呼ばれており、その隣の斎場山が謙信が布陣した妻女山であるとしています。地形的にはその方が合理的で、謙信本陣は妻女山(赤坂山)、斎場山、さらには薬師山に連なってあったと考えるのが妥当かと考えます。これなら十分な規模と要害があると考えます。


今日は謙信が妻女山に布陣したと言う事にして、話を進めます。そうしないと啄木鳥戦法も出てこないですからね。それでもって妻女山が布陣は海津城牽制の意味はありますが、肝心の武田主力軍に対してどういう効果があったかです。こういうのは地形を見てみないと何とも言えないのですが、航空写真で確認してみます。

謙信が妻女山に布陣した時には、武田軍主力は南の上田盆地にいたと考えられます。武田側の戦略目的はまず海津城救援でしょう。隙があれば上杉軍を撃破したいとの考えはあったでしょうが、妻女山に上杉軍が布陣することにより圧迫を加えられている海津城の救援が第一に考えられたと思います。地理を見ればわかるように上田から海津城に向うには、東の地蔵越えと呼ばれる険しい山道を通るか、西の千曲川沿いの道を通るかのどちらかになります。

地蔵越えはかなり険しい道らしく、大軍を通過させるには少々無理があるとされています。選択として海津城救援のみに2000〜3000程度を地蔵越えで送り込むはあるでしょうが、そうなると武田軍主力の分散による戦力低下が起こると考えたのか、信玄は千曲川ルートを選択したようです。千曲川ルートを武田軍が進めば、妻女山の位置はなかなか巧妙なところにある様に思えます。どういう風に通過しても妻女山の謙信本陣の前を武田軍は通らないと海津城に入れない位置関係です。

謙信は信玄が主力を率いて海津城を目指す途中で攻撃を仕掛ける腹積もりでなかったかと考えます。当時でなくとも合戦に臨む時に十分な布陣を行なうのは重要な事で、いくら大軍であっても行軍途中に襲われたら不利です。妻女山の位置は海津城に武田主力を無傷で入場させるのを阻む位置にあると見えます。謙信としては、きっと信玄もそう考え、海津城救援のために上田からの武田軍主力だけで川中島に陣を敷いて決戦を行なうと考えたと思っています。

謙信が構想していた川中島決戦にはもう一つ戦術的要素があったとも考えています。信玄率いる武田軍主力と妻女山の上杉軍主力だけでは戦力的に互角と考えますが、武田軍の背後から善光寺に後詰させている5000の部隊で襲わせる作戦です。ここは善光寺の5000が実際に決戦に参加しなくとも、川中島で主力決戦をやっている最中に善光寺の5000が動いたと信玄が知るだけで十分な戦術的効果があると考えたのかもしれません。

謙信構想通りに進めば、信玄は海津城救援を断念して上田方面に撤退せざるを得なくなり、そこから大元の戦略目標である海津城攻略と長野盆地支配を固める予定であったと考えます。武田軍主力さえ撃退すれば犀川以南の武田の前哨基地を掃蕩して補給路を確保するのも容易ですし、救援部隊が目の前で撃退されたのを見て落胆した海津城攻略も可能と構想していたように思えます。


ところが信玄も謙信の意図をよく見抜いていたかと考えられます。信玄率いる武田主力軍は妻女山のさらに北西よりの茶臼山、もしくは塩崎城に布陣します。どういうルートかわかりませんが、謙信の妻女山本陣の西側を通り抜けています。ここでもっと不可解な事が起こります。茶臼山もしくは塩崎城から信玄は妻女山の謙信の目の前を通り海津城に入城してしまうのです。これを謙信の油断とする見方と、信玄の巧妙さと取る見方がありますが、おそらく両方でしょう。

謙信は信玄がどこかに陣を敷くはずだと思い込んでおり、それからおもむろに妻女山を降りて対陣する積りが、信玄がリスクを冒してスルスルと海津城に進んでいったため、裏をかかれたと思ったのかもしれません。とにかく武田軍主力は海津城に入城し、妻女山の上杉軍とにらみ合いになります。海津城に入城した武田軍は海津城救援と言う目的を果たしましたが、海津城が妻女山の上杉軍に戦略的に牽制されている構図は残ります。

ただ武田軍主力が入城したことにより上杉側は海津城攻略は不可能になります。武田側もその戦力だけで正面から妻女山に攻めかかっても損害が大きくなります。信玄の思惑として戦略的位置は不利でも、謙信の戦略目標である海津城奪取を断念させたのですから、謙信はそのうちに妻女山を降り、越後に帰国するだろうと考えていたかと思います。ところが謙信は信玄の海津入城後も妻女山を動かず、圧迫だけを武田軍に加えます。

この圧迫に信玄ではなく、信玄の部下が動揺し始めたのが啄木鳥戦法発動の原因であったと考えます。信玄の動かなければ謙信がそのうち帰国するという「待ちの戦術」に支障が生じ始めたのだと考えます。士気の問題は軍隊でも重要で、さすがの信玄も動かないと統率が難しくなったと考えます。ところがこの啄木鳥戦法も実際に行われたかが疑問視されているものです。啄木鳥戦法を地形から見ると、

時代小説では漠然と妻女山の裏山に武田の別働隊が登った印象がありますが、海津城から夜間とは言え妻女山に1万2000もの大兵力が移動したら察知されます。そのため、妻女山の背後に連珠状に存在する城塞群を利用してのルートが説として唱えられています。私の示した図では「竹山城 → 鞍骨城 → 天城城 → 妻女山」ルートですが、さらに後方から迂回するルートの可能性もあります。

この説については実地を検証された方がおられ、同じ道を歩いて可能だという方と、とても無理だとしている方がおられます。この辺は私には何とも言えません。無理としている方は

    「あんな急峻な細い山道を1万2000の大軍が馬も含めて一晩で移動出来るはずが無い」
歩いた実感がよく出ています。可能とされている方は道が険しい事を認めながら、
    「当時はこの山道も一種の幹線道路として整備されていたはずで、今よりもっと歩きやすかったんじゃないか」
もちろん結論が出るものではありません。ただ私はやはり迂回ルートを取ったと考えます。ルート整備はにらみ合いの最中からされていた可能性がありますが、それより私が基本的に疑問なのは啄木鳥戦法が一晩で妻女山の背後に回る作戦であったかどうかにあります。少々のルート整備が行なわれていようが、道は基本的に険しく、ほとんどが一列縦隊での行軍になるかと考えられます。そんなところに1万2000もの大軍を投入しても、効果が薄いんじゃないかと思われます。狭い山道で急襲しても戦えるのは最前方の部隊だけです。

現在に伝えられている啄木鳥戦法は一晩で武田別働隊が妻女山の謙信本陣に迫る設定になっていますが、実際はそうではなくもっと日数をかけた作戦ではなかったかと言うことです。信玄の戦術にしては啄木鳥戦法はかなりの奇策であり、信玄がそんなバクチのような作戦を採用するかに疑問があります。信玄が取った戦術はもっと慎重なものであり、妻女山の背後に武田の主力部隊を送る挟撃強襲作戦ではなかったかと考えています。

海津城と妻女山でにらみ合っても謙信が越後に帰国しないのなら、妻女山の背後に大軍を送り、その圧力で謙信を追い出そうの戦術なら確実で安全です。日数があれば迂回ルートが険しくとも大軍を送る事も可能ですし、妻女山攻略のための攻撃ルートを構築する事も可能です。ここも実際はそういう姿勢を見せる事により、謙信を心理的に追い詰め、退却させるのが本当の狙いかと考えます。ですからコソコソと動いたのではなく、見せ付けるような大規模な動きであった可能性を考えます。

つまり妻女山の後方でカンカンと大規模行動を起せば、妻女山に籠っている謙信が動揺して山を降りる効果を狙ったのが啄木鳥戦法じゃなかったかと考えます。もう少し穿って考えると、この啄木鳥戦法は信玄の海津入城の早期から既に行なわれていたかもしれません。ここで信玄の誤算はそれでも謙信は妻女山に頑張った事かと考えます。

これは決戦への伏線にもなるかもしれませんが、信玄の真の意図とは別に、部下への作戦の説明で、啄木鳥戦法で山を降りてきた上杉軍を叩くというのがあったかと思います。もちろんこの言葉は全くの嘘ではなく、妻女山を降りて北に帰る上杉軍を軽く叩いて、武田の勝利ともって行きたいとの考えは信玄にもあったと思います。ところが啄木鳥戦法の示威運動を続けても謙信がなかなか動かないので信玄が焦れてきた可能性を考えます。

信玄が焦れてくれば部下はもっと焦れます。そこで示威運動であったはずの啄木鳥戦法が本格的な挟み撃ち戦術に方向転換された可能性を考えます。どうも謙信は啄木鳥戦法は単なる示威活動と見抜いて動かないようだから、裏をかいて妻女山の背後に本当に大軍を集結し、これでもって妻女山を襲う作戦です。それまでの啄木鳥戦法でもそれなりに兵力を送り込んでいるはずですから、最終的に妻女山襲撃のために送り込まれたのが1万2000と考えます。

それでも1万2000は多い様な気がするのですが、これは純粋に妻女山襲撃のために必要な兵力と言うより、妻女山襲撃に引き続いて追尾し、上杉軍に追い討ちをかけるために必要な兵力であったと考えるのが妥当かもしれません。別働隊が上杉軍を追尾し、その時に信玄の本隊もこれに加わって勝利を大きくしようとの計算です。

ただ最終動員のためにかなりの兵力移動が海津城から行なわれたと考えられます。それを見抜いた謙信が、背後で行なわれている啄木鳥戦法が示威行動ではなく、本格的な挟撃作戦に変わったと考えついに妻女山を降りたと考えます。本格的な攻撃を妻女山で受ければジリ貧からドカ貧になるとの判断かと思います。


ここから八幡原の大決戦にもつれこむのですが、本当の難題はなぜ大激戦に発展したかです。信玄の狙いは上杉軍の殿部隊にでも一撃を加えれば必要にして十分であったはずです。別働隊に1万2000も割き、信玄が率いたのは主力とは言え8000しかいなかったのは、あくまでも「軽く叩く」補助的なものであったと考えます。軽く叩くはず本隊が正面切っての大激戦に陥った原因が必要です。

この原因はやはり濃霧であったと考えます。時代小説や残された史書では濃霧の発生を両軍が予想し、それを戦術要素として使ったとありますが、実際は予想外の濃霧のために予定が狂ったと考えるのが妥当です。妻女山襲撃の日時はあらかじめ決定されていたはずですから、それに合わせて信玄は海津城を出陣し八幡原に陣を敷きます。予想外の濃霧だったかもしれませんが、信玄の計算では、不意を突かれた謙信は妻女山襲撃部隊がある程度戦ってから妻女山を下山するはずだったと考えています。それも追尾する武田別働隊に追われながらです。

ところが謙信はいち早く妻女山を降りてしまいます。謙信にすれば武田の別働隊に肩透かしを食らわせたことで満足し、善光寺の別働隊に合流して戦術の建て直しをしようと考えていたかと思います。また信玄の意図はあくまでも妻女山からの追い落としにあり、上杉軍の帰路を阻むにしても後方部隊に絡む程度と予想していたかと思います。ところが謙信もまた予想外の濃霧に困ります。どうしても行軍スピードがユックリとなり、そこで運の悪い事に信玄の本隊と出くわす事になります。(NHKでもこの設定を使っていたそうですが、私は見ていませんので悪しからず)

信玄、謙信とも予想外の鉢合わせであったのは間違いありません。ここで謙信に大きな誤認が生じたと考えます。鉢合わせした時点でも、謙信は軽く武田軍をいなして交わすという選択枝があったはずです。それをしなかったのは、信玄の率いる本隊が非常に強力な部隊であると誤認していたからだと考えます。謙信の考えとして武田の別働隊は多くても5000程度であり、そうなると目の前にいる武田軍は1万5000以上もの大軍になります。これを撃破しないと生きて越後に帰れないと判断した可能性です。

この謙信の相手の戦力の読み違えは濃霧のせいもあり、謙信の誤認もあったと考えます。ここで謙信の取った戦法が有名な車懸りの陣です。これも実態が良く分かっていない戦法なのですが、武田軍との不期遭遇戦に驚いた謙信が、行軍序列のまま武田軍に突撃させ、突撃させながら自分の軍の布陣を整えた様子と考えています。行軍序列は基本的に縦隊です。武田軍を斜め前方ぐらいに発見したら、武田側から見ると、渦を巻くように上杉軍が突撃してくるように見えたのかもしれません。

大激戦になったのは信玄の失策も絡んでいます。主力を別働隊に置いたのも失策でしたが、結果として上杉軍の帰路を正面から阻むような位置で迎え撃った事です。兵法書による「帰師阻むべからず」を犯したことになります。十分に武田軍は布陣していると誤認した上杉軍は、生き残るために決死の闘志で武田軍に襲い掛かります。兵力も小さい武田本隊はたちまち苦戦に陥る事になります。

霧が晴れてきて戦場の全容が見えるようになったときに、今度は謙信が狂喜したかもしれません。計算外の決戦とは言え、無茶苦茶有利に戦況が展開しているのです。川中島合戦の後半は妻女山襲撃隊が駆けつけて、信玄が意図していた挟み撃ちの状態になり戦況が逆転しますが、そこまで執念深く謙信が戦ったのは妻女山の武田別働隊の兵力を過小評価していたためだと考えます。武田の主力(と謙信が誤認)をここまで追い詰める事は二度と出来ないと考え、たとえ妻女山の別働隊が到着しても大した数ではないとの事実誤認の積み重ねです。


川中島の合戦は、謙信、信玄とも戦略戦術を互いに巡らしましたが、最後の最後に二人とも計算違いが生じ、想定外の大激戦になったと言うのが真相の様な気がします。今日はこの辺で休題にします。