謝罪と遺憾

謝罪とは、

罪や過ちをわびること。「被害者に―する」「―広告」

遺憾とは、

期待したようにならず、心残りであること。残念に思うこと。また、そのさま。「―の意を表する」「万―なきを期する」

謝罪は「過ち」がありこれを謝ることで、遺憾は非常に残念であった事を意味すると考えれば良いかと思います。遺憾の意味をもうちょっと掘り下げると、表明時点ではある有害事象の当事者ではあるが「過ち」は無く、ただ起こった有害事象についての同情を表していると考えられます。

ここに去年小さな話題になった全国社会保険協会連合会(全社連)の「医療有害事象・対応指針 〜真実説明に基づく安全文化のために」の記事があります。そこには骨子として、

  1. 医療者は、患者に影響した有害事象または過誤がどんなものであっても、即座に、患者や家族に知らせなければならない。
  2. 患者の担当看護師が出席し、見守り、サポートすることが患者の助けとなる。この初期の段階において病院管理者の出席は、非常に重大な事象を除き推奨されない。
  3. 原因が不明な場合、医療者は遺憾であること(例:「私たちは、このことがあなたに起こって残念に思います」)を表明(=「共感表明(謝罪)」し、何が起こったのかの説明を行い、傷害を和らげるために何がなされるべきかを話し合わなければならない。
  4. 医療安全対策における管理者、職員に対する教育と訓練の重要性の明記や有害事象(医療事故)を起こした医師、看護師などの医療者のケアの重要性を明記した。

これは記事によると

ハーバード大学医学部関連病院の医療事故対応指針「医療事故:真実説明・謝罪マニュアル:本当のことを話して、謝りましょう」を取り入れ、日本の現状や日本文化にマッチさせた

ちなみにハーバード版の原文もあるのですが、タイトルがどうなっているかと言うと、

When Things go Wrong - RESPONDING TO ADVERSE EVENTS

決して「医療事故:真実説明・謝罪マニュアル:本当のことを話して、謝りましょう」でない事が確認できます。どうもこれを翻訳し日本版にされた研究が医療事故:真実説明・謝罪普及プロジェクトのようです。ここにハーバード版の骨子がまとめられています。

米国の謝罪運動における謝罪

  • 医療事故が起こったら、真実を説明して、過誤の有無に関わらず、遺憾の意を表明する。
  • 過誤が明らかならば、すぐに謝罪する。
  • 過誤の可能性があるが不明なときは、迅速な調査を約束して、その結果、過誤が明らかになったら、謝罪する。
  • 誤解に関しては、断固とした態度を取る。

ここで医療事故の定義問題がでてくるのですが、今日は医療者及び患者(家族を含む)が予期していなかった不幸な出来事ぐらいにしておきます。アメリカの運動のポイントはまず遺憾の意を表明する事と考えられます。これは文化の違いもあるのですが、欧米ではこういう時に遺憾表明すら好ましくないとされ、過失が明らかになるまで単に「責任なし」として突っぱねるのがスタンダードであるからです。それをとりあえず遺憾表明だけは出しましょうとの運動と理解できます。

この遺憾と謝罪の相違ですが、

  • 「共感表明」謝罪:悪しき結果が起こったこと に対する患者の苦痛に対する共感からの謝罪。患者の期待に添えなかったことへの申し訳なさからくる謝罪。
  • 「責任承認」謝罪:過誤があり、過誤が悪しき 結果を引き起こす原因となったことを認め、その責任をも認めることを伴う謝罪。

こういう風にまとめられ、「遺憾の意=共感表明謝罪(?)」てな事が付け加えられています。講演会のスライドなのでこれに対しどういう風な説明が加えられたかは不明ですが、問題と感じるのは、遺憾であるはずの共感表明に「謝罪」の文字を加えている事です。ここは用語の定義問題ですから、私は、

    共感表明 = 遺憾
    責任承認 = 謝罪

ここまで言い切った方が好ましいと考えます。

日本の文化として「とりあえず謝る」があります。責任は無くとも不幸な事態の当事者であるならば「とりあえず謝る」は儀礼として欠かせないとされています。ちょっと極端な例を挙げると、飛行機が墜落してホテルを直撃し、宿泊客に被害が出たときにホテルの経営者は宿泊客に謝ります。ホテルの経営者にしたら何の責任も無く、トバッチリを受けただけですがお悔やみとともに謝らないと猛烈な批判が出るのが日本です。

このホテルの例の遺憾はわかりやすいかと思います。共感表明であり、責任承諾の意味は全くないのはすぐに理解できます。またトチ狂ってホテルに賠償を請求する人間はまずいないかと思います。あんまり良い喩えでなくて申し訳ないのですが、日本ではそこまで「とりあえず謝る」文化は深く定着していると考えて良いかと思います。

そういう文化の無いアメリカで遺憾表明をとりあえず行なうというのが画期的であり、日本では取り入れるまでもなく既に確立していると考える方が現実的なように感じます。私の狭い知見では言い切れませんが、日本でも医療事故が起これば医療者は遺憾表明ぐらいは行なうかと思います。中には行なわない医療者もいるかもしれませんが、日本の文化からすると行なわないと次に話が進まないと考えられるからです。


問題は遺憾を謝罪と受け取ってしまわれるときです。言葉でも文章でも相手に真意を伝えるというのは容易なことではありません。とくに当事者の一方が「過失あり」と考え、もう一方が「過失なし」と考えたときに説明は難航します。さらに「過失あり」と考える当事者が感情的になっている時にはなおさらです。

「過失なし」と考える当事者は、相手の感情を刺激しないように回りくどい表現を使って「過失なし」の遺憾表明を行なわなければなりません。回りくどい表現は度が過ぎると「遺憾」の真意が相手に伝わらず、相手がこれを「謝罪」と受け取る事もあります。こういう問題は表現の回りくどさだけではなく、説明者の持つ語彙や表現力の問題も出て来ます。もう少し言えば、日本ではこのシチュエーションでの説明は、「とりあえず謝る」の儀礼的な意味が前提としてあるはずだの甘い観測から、不用意な言葉が飛び出すこともありえます。

こういう問題はアメリカでもあるようで、rijin様から御紹介頂いた記事を紹介しておきます。

A new law that allows Californians to apologize at the scene of an accident without penalty went into effect on Jan. 1. Drivers who had previously held their tongues for fear of admitting guilt can now express their feelings without worrying that their words will be held against them in court.

カリフォルニア州の人が事故現場で刑罰なしでわびることができる新しい法は1月1日に実施されました。 それらの単語が法廷でそれらのせいにされるのを心配しない、以前に有罪を認めることへの恐怖によって言いたいことをグッっとこらえたドライバーは現在、彼らの気持ちを述べることができます。)

The bill, authored by California State Assemblyman Lou Papan (D-Millbrae), protects "benevolent acts expressing sympathy." Its proponents contend that it may reduce the number of lawsuits flooding the courts by diffusing the victims' anger and allowing normal expression.

カリフォルニア州(Millbrae署)の警官であるAssemblyman Lou Papan氏は「見舞いを言う慈善の行為」を守るとします。 提案者は、犠牲者の怒りを拡散させて、通常の表現を許容することによって法廷をあふれさせる訴訟の数を減少させるかもしれないと主張します。)

「うっかり」とか、「つい」ぐらいで「責任承諾」を意味する言葉を発してしまい、それによって法廷での責任追及が行なわれている現実がアメリカではあるようです。そのため責任承諾の意味の言葉を現場なりで発したとしても、これに対して法的な責任を負わないとの法と解釈すれば良いかと思います。

この平成の日本ではどうなんでしょうか。争いごとがあり、片方が「過失あり」と確信し感情的になった方を相手に「過失なし」の説明を行なうのは大変な難事です。言ったら悪いですが「責任承諾」の「謝罪」を聞くまでエンドレスで説明を求められます。長時間の説明の内で「責任承諾」の「謝罪」に受け取られる可能性のある発言を絶対にしないと自信を持って断言できる人は少ないかと思います。

説明は当事者だけが相手と限りません。弁護士が乗り出してくれば、これはかえって話が簡単で、双方とも弁護士を立てての話し合いに移行しますし、弁護士は弁論のプロですから、そんな初歩的なミスは冒しません。問題はマスコミが絡むときです。

マスコミは

  1. 遺憾の表現の中で謝罪的表現を切り貼りして「謝罪した」と報道する自由がある(編集権にて可能)
  2. 遺憾だけで謝罪を行なわなければ「謝罪すらしない」と大々的に報道する
こういう手法を常用されます。とくに「謝罪すらしない」は、読者に日本的儀礼による「とりあえず謝る」を行なっていない印象を濃厚に与えつつ、遺憾表明を丁寧に行った事は「なかった」事にしばしばします。


最後にアメリカの謝罪運動の中で大きく頷いた部分として、

    誤解に関しては、断固とした態度を取る。
これは重要な事かと考えます。長時間にわたる遺憾表明を伴う説明で、相手が「責任承諾」の「謝罪」と誤解したようなら、これを訂正する必要があると考えられます。誤解を与えた事を「遺憾」として訂正するのは悪い事ではありませんし、それは許される行為であるはずです。断片を切り取って「この部分で謝罪している」とされても、それは説明全体の真意に反する誤解であると、断固とした態度を取らなければならないと感じます。