日曜閑話19

今日のお題は「西郷隆盛」。実はこの人物がよく分からないのです。非常に有名で、来歴もハッキリしているのに個人的にはよく分からない人物です。何が分からないかですが、何をしようとしていたかよく分からない人物なのです。

人望が桁外れに篤い人物であったのは間違いありません。証拠と言うほどではありませんが、明治維新後の最大の内乱である西南戦争の指導者であるにも関らず、敗死後に名誉回復がなされています。西南戦争は一つ間違えば明治政府の存亡に関るほどの大内乱であったにも関らず、それでも名誉回復が明治政府の手によって懸命に行なわれているのは奇観とするに足ります。決して現代になって再評価されたのではなく、西郷の反乱を鎮圧した明治政府が自らの手で名誉回復を行なっています。

この時期の薩摩人は優秀な人物を輩出しています。とくに西郷隆盛とその係累もしくは近所の人間に輩出しているとされます。非常に漠然とした日本的な表現ですが、「人間が大きい」と言う評価が有ります。「人間が大きい」は大人物と言う評価と似ていますが、近いですがやや異なります。どう違うかを説明するのも大変なんですが、人としての貫目であるとか、人格的な巨大さを表現しつつ、なお才として飛びぬけているすれば良いでしょうか。人間としての最高の評価みたいに考えてもハズレではないと思っています。

人間の大きさについての逸話に日露戦争後の人物評価が残っています。誰かが「人間として一番大きいのは大山巌であろう」とまず論評したとされます。大山巌日露戦争の陸軍満州軍総司令官です。ところが誰かが「西郷従道の方が大山より5倍は大きい」と主張します。西郷従道は隆盛の弟で、総理以外のほぼすべての大臣を歴任し、とくに海軍設立に山本権兵衛を駆使して大きな功績を残した人物です。話は西郷従道が一番で結論しかけましたが、隆盛を知る人物がおり、「従道とて隆盛に較べれば月の前の蛍である」とし、一同顔を見合わせて隆盛の人間の大きさに茫然としたとされています。

これほどの隆盛なんですが、それでも私はよく分からないのです。隆盛が最も精彩を放ったのは幕末動乱から、江戸無血開城までの期間かと考えています。隆盛が思想的影響を一番強く受けたのは、島津斉彬とされています。斉彬は下級藩士の中から隆盛の才能を見出し、これを薫陶したとされています。隆盛にすれば自分を引き立ててくれた上に、当時の最先端の世界観や物の考え方を教えてくれたわけですから、感謝感激して当然でしょうし、その思想にイチも二も無く共鳴しても不思議ありません。

あくまでも「どうも」なんですが、隆盛の思想は斉彬の思想を基本にしているというより、斉彬の思想から一歩も出なかったんじゃないかと考えています。さらに言えばもっと単純化されて、とにかく幕府を倒し新政府を樹立する以外の思想は持っていなかったように考えています。斉彬の思想は単純化すると、当初は雄藩主導による国防体制の確立です。このために将軍に一橋慶喜を立てる事を画策します。ところが政争の末、井伊直弼が慶福(家茂)擁立で勝利すると今度は倒幕を構想します。

ここで斉彬の構想が倒幕であったかどうかの真相は不明です。斉彬は将軍家の後継問題で慶喜派でした。これが慶福(家茂)派に敗れたのですから、当時の人間の発想の限界として、慶福派を排斥して慶喜擁立を考えていただけかもしれません。斉彬とてあの時期に幕府を倒そうとまで発想が飛躍し難いところがあるだろうからです。ただ慶福が将軍を継いでしまうと、これを排斥するのは現実として容易ではなく、その点についての煩悶から斉彬は「幕府ではダメだ」の批評を隆盛に漏らしていた可能性を考えます。

その辺のニュアンスとしての倒幕思想を隆盛は受け継いだと考えています。つまり斉彬の晩年の「幕府ではダメだ」の思想が隆盛の思想のすべてではないかと考えています。そう考えると隆盛の行動は非常に分かりやすくなります。政争に敗れた斉彬の「幕府ではダメだ」の言葉の実現に隆盛は人生のすべてを捧げたと考えます。倒幕は隆盛にとって斉彬から託された絶対の正義であり、これの実現のためにはあらゆる術策は正当化されるです。

隆盛は後世に聖人に近いような人物像として残されていますが、聖人では革命は不可能で、これでもかの手練手管を行なっています。相当あくどい事もやってはいるのですが、隆盛にとってこれは正義ですし、また正義を実現するだけで私利私欲をほとんどもたなかった点が特異であり、これが後世の聖人評価につながっていると考えます。それと隆盛の思想は新政府をどうしようかの構想はほとんどゼロであったフシが窺えます。なぜ構想が無かったかですが、斉彬がそこまで考えていなかったからだと思っています。

隆盛にとっては斉彬が望んだであろう倒幕さえすれば「すべてはうまく行くはずだ」と信じていたんじゃないでしょうか。隆盛の実質の活動は戊辰戦争で終わっています。隆盛にすれば「オレの仕事はこれで終わり」と考えていた様に思います。もっと言えば江戸無血開城で終わりとも考えていたのかもしれません。それ以上は斉彬の遺訓にも無いので、「後は誰かがやってくれ」で終始している様に思えます。


もう一つ、隆盛の思想が窺えるものがあります。これは斉彬の思想なのか、他の革命家の思想なのかは判然としませんが、かなり激烈な内戦が新政府樹立には必要と考えていたフシがあります。当時の西洋事情は断片的ですがかなり日本に流入しています。明治維新もどこかのモデルを当てはめて考えられていても不思議ありません。モデルとして候補に上がりそうなのはフランス革命かと考えられます。これも体系だって入ったものではなく、フランス革命に連動するナポレオンの活躍もごっちゃになって入り込んでいたと考えられます。

隆盛は幕府をブルボン王朝になぞらえ、フランス全土が騒乱の坩堝になったフランス革命こそが強国になるためのモデルと考えたのかもしれません。江戸無血開城は幕末の大きな山場ですが、史実でも隆盛は江戸城総攻めに相当こだわります。無条件降伏に近い条件で降伏を望む幕府側に執拗に「No」の返答を繰り返したのは隆盛です。隆盛の思想としては、どうしても江戸城を攻め、慶喜の首を取らないと革命にならないと考えていた様におもわれます。

もちろん明治維新は江戸無血開城で終わったわけではなく、上野の彰義隊から、函館五稜郭まで戊辰戦争は続きますが、隆盛としては「戦が足りない」の感想はどうもあったように思われます。隆盛が次に期待したのは廃藩置県で、きっと各地の大名がこれに抵抗して内乱が起きる事を期待していたともされます。ところがこれもスルスルと進んでしまい、ついにやる事がなくなったの思いが隆盛に出たように感じています。


新政府成立後の隆盛は不幸であったと見ています。隆盛は斉彬の遺訓を果たし、思想として持っていた激烈な内戦も起こらなかったので、既に無用の人物となっていました。実際に何度も薩摩の故郷に引っ込んでいます。ところが新政府は寄り合い所帯で、どうしてもこの巨大な人望家である隆盛を政治の表舞台に引っ張りだそうとします。

引っ張り出された隆盛ですが、隆盛の目に新政府は斉彬の望んだものではないとの感触がどうもあったようです。斉彬がどんな政権構想があったかも疑問なんですが、隆盛が斉彬の教えから膨らましていた政権とは肌合いが異なるものであったであろう事は感じられます。ただそれについて積極的に発言して是正するには思想や構想が無く、さらにする気も乏しいのに東京に引っ張り出される苦痛を味わっていたと考えています。もうちょっと言えば、明治政府の要人もそういう隆盛に「悪いな〜」の感想をもち、その伏線が西南戦争後の名誉回復につながっていると考えています。


最後の西南戦争は、隆盛の余りに高い人望と、声望がもたらした悲劇と見ています。表舞台から引き込みたい隆盛でしたが、薩摩に帰ってさえも持ち上げられます。これだけの金看板ですから、利用しようとする人間はワンサカ出てきます。あくまでも結果論ですが、隆盛は薩摩で隠棲すべきではなかったと見ています。もっとも東京では隠棲しようとしても中央政府が何かにつけて引っ張り出そうとしますから、場所として薩摩しかなかったといえばそれまでなんですけどね。

こう考えると隆盛は長生きしすぎたのかもしれません。隆盛の真骨頂は革命家であり、革命家でしかなかったという事です。長州で言えば高杉晋作みたいな感じで、高杉も新政府に生き残っていたら使い道に困るというか、隆盛同様の末路を辿った可能性があります。新政府が出来てしまうと無用の人間になったにも関らず、功績の大きさと人望の高さから新政府は隆盛を野に放つわけには行きません。

とはいえ新政府に登用しても隆盛は正直役に立ちません。このジレンマは隆盛自身も自覚していたフシはありますが、自殺するほどの事態でもないので困惑していたと考えています。隆盛が江戸城総攻めにこだわったのは、この戦いで自らの死を思い描いていた可能性すら考えています。偉大な革命家として死に場所を見つけられなかった悲劇が隆盛と言う事も可能な様な気がします。

隆盛が新政府で役に立った可能性があるとすれば、やはり軍人としてではないかと考えます。それも野戦指揮官と言うより総司令官としてです。そんな役回りが歴史にあったかと言うと、明治政府が国家の命運を賭して戦った日露戦争ぐらいになります。ただ隆盛が生存していたとして77歳になり、さすがに満州の地に立つことは無理があると思われます。


それにしても隆盛の生涯を見てみると晩節を全うするのがいかに難しいかが思い知らされます。では、では、この辺で今日は休題にさせて頂きます。