久坂部羊閣下

久坂部羊閣下の経歴はwikipediaでは、

大阪府生まれ。大阪府三国丘高校26期、大阪大学医学部卒業。大阪大学付属病院にて外科および麻酔科を研修。その後大阪府立成人病センターで麻酔科、神戸掖済会病院で一般外科、在外公館で医務官としての勤務を経たのち2003年、『廃用身』で作家デビュー。

こんだけしかありません。他には本名が久家義之である事と1955年生まれである事がわかり、年齢は2008年時点で53歳である事がわかります。後は執念深くググって見ると久坂部羊閣下は堺の御出身で、二代続けての医師であるようです。本名の久家は珍しい方の名字なのでググって見ると、久家医院と言うのは堺にはありました。しかし院長の久家雅治氏は1979年御卒業で2004年開業ですから、少なくとも久坂部羊閣下の御尊父ではありません。御兄弟なのかアカの他人なのかはこれ以上は確認出来ませんでした。

もう少し経歴のデータが欲しいところなので、カンカンガクガクのバックナンバー#79を参考にします。

大阪府三国丘高校26期とは1974年卒業となっており、この辺は学校の慣例で変わりますが、1974年3月卒業の意味なら18歳、1974年度卒業生の意味なら、1975年3月卒業になり19歳になります。一方で阪大医学部卒業が1981年3月なので入学は浪人、留年などがなければ1975年4月になるはずです。ここで早生まれ説を取ればさらに1歳増えるのですが、出生年に誤りが無ければ1974年3月卒業が年齢的には妥当のように感じます。

1981年3月卒業で阪大病院で研修を行なっているのですが、wikipediaでは研修年数が書いてありません。これもググッた結果ですが、どうやらこの様であったらしいと考えられます。

  • 阪大外科1年
  • 大麻酔科1年
  • 大阪府立成人病センター麻酔科2年
  • 神戸掖済会病院一般外科3年
全部足すと7年ですが、内訳は外科4年、麻酔科3年になります。この時点で1988年にあたりますので引用した経歴と合致します。その後大使館の医務官になるのですが、外務省医務官のお仕事をwikipediaから引用します。

外務省の医務官とは、在外公館に勤務し、主として医務に関する事務に従事する外務職員が用いる特別の公の名称である。「外務職員の公の名称に関する省令」(昭和27年外務省令第7号)に基くものである。現地に勤務する外交官及びその家族の健康管理に当たり、場合によっては現地の医療機関を紹介する。一般の在留邦人や旅行者に対する治療は、現地の医師診療資格の相互協定により禁止されている。(外務省医務官が現地で一般人の診療行為を行うと、その国の医師法違反になる。)

お仕事は読めばわかるように大使館員の診察だけです。久坂部羊閣下が医務官を勤めた期間は5年説と9年説があるのですが、引用した経歴には1988年外務省入省、同年、医務官として在サウジアラビア大使館、以後在オーストリア大使館、在パプアニューギニア大使館に勤務、97年帰国となっていますから、オーストリアが5年だったのかもしれません。しっかしパプアニューギニア大使館なんて、一体何人の大使館員がいたのかと思ってしまいます。

帰国後、久坂部羊閣下は外科医局の紹介で老人デイケアのクリニックに就職したとされます。外務省医務官のお仕事を考えると、臨床医としての能力は少々疑問ですから手頃な部署と言えないこともありません。ここまでの経歴をまとめてみると、

年月 事柄
1955 0 大阪の堺にて出生
1974.3 18 大阪府三国丘高校卒業
1975.4 19 大阪大学医学部入学
1981.3 25 大阪大学医学部卒業
1981 26 阪大病院外科研修
1982 27 阪大病院麻酔科研修
1983 28 大阪府立成人病センター麻酔科勤務
1985 30 神戸掖済会病院一般外科勤務
1988 33 外務省入省、医務官となる
1997 42 外務省辞職、老人デイケアセンター勤務
2001 46 『大使館なんかいらない!』(幻冬舎
2002 47 『呆然!ニッポン大使館 ―外務省医務官の泣き笑い駐在記―』(徳間文庫)
2003 48 『廃用身』(幻冬舎)・・・デビュー作
2004 49 『破裂』(幻冬舎
2006 51 『無痛』(幻冬舎
2007 52 『大学病院のウラは墓場』(幻冬舎)、『日本人の死に時』(幻冬舎


久坂部羊閣下の医師としての業績ですが、阪大麻酔科教室の業績集にその一部を見る事が出来ます。

13. 西村信哉、太城力良、久家義之、戸崎洋子、真下 節、竹田 清、天野 勝、吉矢生人:ニフェジピン細粒の鼻孔、舌下、胃内投与の降圧効果. 臨床麻酔 8:1357-1360, 1984

1984年となっていますから、大阪府立成人病センター麻酔科勤務時代のものと考えられます。それと現在の閣下が老人デイケアセンター勤務なのは有名ですが、もう一つの肩書きが出てきました。大阪人間科学大学社会福祉学科の教授・講師紹介の中に


教授

久家 義之

専門分野

老人医療、終末期医療



カンカンガクガクのバックナンバー#79に閣下のお写真がありますので較べてみると、
これは同一人物と見なしてよいと考えられますから、閣下は教授でもあらせられる訳です。この分野と考えられる出版もあり、老いて楽になる人、老いて苦しくなる人が出されています。ただし2002年12月出版ですから、教授職とは関係ないかもしれません。


これぐらいしか調べられなかったのですが、閣下は医師になって27年のキャリアをお持ちです。病院の勤務経験は再掲しますが、

  • 阪大病院に研修医として2年間
  • 大阪府立成人病センターに2年間
  • 神戸掖済会病院に3年間
7年も経験すれば病院のことはある程度は分かると思いますが、12/6付【断 久坂部羊】医師に「社会的常識」はあるか久坂部羊閣下の勤務ぶりの一端が書かれています。

 少し前になるが、麻生首相が「医師は社会的常識がかなり欠落している人が多い」と発言して物議を醸した。

 首相の発言としては、もちろん不適切だが、私自身、医師の端くれとして、ある程度は当たっているなと思った。

 社会的常識とは何ぞやという問題もあるが、多くの人は社会に出てから、それを徐々に身につけていくのだろう。叱(しか)られたり、忠告を受けたり、下げなくてもいい頭を下げたりするうちに、だんだんとわかってくる。

 しかし、医師は国家試験に通ればすぐに「先生」と呼ばれ、いきなり一定のステータスを獲得する。周囲には患者や看護師や技師など、自分より立場の弱い人間ばかりしかいないし、事務員や業者に気を遣(つか)う必要もない。怖い先輩や教授はいるが、彼らが社会的常識に欠けていることも多いから、それを学ぶのはむずかしい。

 収入面でも恵まれているし、失業の心配はほぼないし、人前では職業を名乗るだけで、表面上の敬意を得ることもできる。

 二十代半ばでそういう環境になれば、いくら激務をこなし、命を預かる重責に耐え、医療ミスに対する緊張を持続させても、「社会的常識」は身につかないだろう。

 もちろん社会的常識を備えた立派な医師もいる。しかし、どちらかと言えばそれは特例で、基準にしてはいけない。病気や障害という人の不幸を多く目の当たりにしながら、常に安全な場所にいることの多い医師は、ある種、人格形成には恵まれない職業である。(医師・作家)

このお話は1981〜1988年の病院勤務医時代の経験を基に、久坂部羊閣下が個人的に経験された勤務医生活が書かれています。つまり久坂部羊閣下はここに書かれているような態度で病院勤務医生活を送っていたとしても良いと考えます。分かりやすい個所として、

  • 周囲には患者や看護師や技師など、自分より立場の弱い人間ばかりしかいない
  • 事務員や業者に気を遣(つか)う必要もない。
  • 怖い先輩や教授はいるが、彼らが社会的常識に欠けていることも多いから、それを学ぶのはむずかしい。
つまり患者や看護師や技師などを見下し、事務員や業者には横柄な態度で臨み、指導医を「社会的常識に欠ける」と軽蔑すような勤務医生活です。こういう医師は確かに存在します。同僚や先輩から「鼻つまみ者」と蔑ずまれる存在として、残念ながら少数ながら存在するのは認めざるを得ません。またそういう「鼻つまみ者」はプライドだけは一人前ですから、卒後の医師教育としての矯正も受付けません。どうなるかと言えば、

病気や障害という人の不幸を多く目の当たりにしながら、常に安全な場所にいることの多い医師は、ある種、人格形成には恵まれない職業である

医師としての使命感や倫理観をどうしても身につける事が出来ず、使い物にならないお荷物と化します。かつての大学医局ではこういう医師の扱いに苦慮しています。どこに派遣してもトラブルメーカーであるだけでなく、本人自身がトラブルメーカーであるとの認識が極限までゼロだからです。外科医なら技術さえ良ければ使い道はまだあるのですが、そういうのは稀で、臨床技術も驕りたかぶった態度の故に十分な伝授を受けられず、最悪とも言えるのは自分の技術が劣っておる事さえ気がつかない始末になります。

なんと言っても他の医師を見る姿勢が、

もちろん社会的常識を備えた立派な医師もいる。しかし、どちらかと言えばそれは特例で、基準にしてはいけない

こういう社会人として最低のモラルさえ身につけられない人間は、医師だけでなくあらゆる職業で「鼻つまみ者」として軽蔑され唾棄されます。阪大医局も扱いに困ったと思います。あくまでも推測ですが、神戸掖済会病院からも三拝九拝で追い出された可能性があります。追い出されたと言っても、こういう場合、本人に面と向かって言うような事は少なく、同僚医師から大学医局に「なんとかしてくれ」の悲鳴が執拗に寄せられたと考えます。大阪府立成人病センターでも同様であったかもしれません。

ここでどういう経緯かわかりませんが、外務省医務官の話があり、これを大学医局は巧妙に久坂部羊閣下に押し付けたんじゃないかと考えています。それとも「社会的常識に欠けた医師」との仕事に嫌気が差した久坂部羊閣下が医務官を希望し、これ幸いとばかりに医局挙げての運動を行って外務省入りをさせたとも考えます。

久坂部羊閣下が外務省に入ったのが33歳の時ですから、通常の医師なら外務省医務官のような閑職など絶対望まず、キャリアアップに脇目も振らない時代です。医師として脂がドンドン乗ってくる時代にそんな閑職に行く事など考えられません。また大学医局もそういう貴重な戦力をホイホイと外務省医務官などにムザムザ渡したりはしません。つまり久坂部羊閣下の医師の評価はその程度であったと言う事です。

久坂部羊閣下が大学医局と友好的に外務省に入ったことは、帰国後の老人デイケアセンターへの勤務まで紹介している点でわかります。これもおそらくですが、大学医局にしてみれば「なんで帰ってくるねん」てなところだったと思います。ただ大学医局にとって幸いだったのは久坂部羊閣下は臨床医としての志向は余りなく、売れない作家の生活費を稼ぐための職場を欲しがっただけだったので胸をなで下ろしたかもしれません。

久坂部羊閣下の現在のお仕事ぶりは、

  • 週3日 寝たきり老人の訪問診察をして
  • 残り4日を執筆にあてている
この程度の医療範囲であれば社会的常識に欠いた典型のような久坂部羊閣下でも被害を及ぼす範囲が少なく、日本の医療にとって、また患者にとっても勿怪の幸いと言えます。もっと良いのは一刻も早く「元医師」になられることです。ただの「作家」であればこの程度の社会的常識の欠落は大した問題ではなくなるからです。謹んで御忠告申し上げます。

もうひとつ心配してしまうのは、久坂部羊閣下の著作のタネです。どの著作も読んだことはないのですが、「老いて楽になる人、老いて苦しくなる人」以外は外務省批判と医師批判の著作になっているかと考えています。つまりこれまで御経験された職場の実体験に基づく報告と言うか、はっきり言って悪口です。ターゲットになっているのは1981〜1988年の病院勤務医時代、1988〜1997年の外務省時代であるのもわかります。

その流れからすると次のターゲットは老人デイケアセンターか大阪人間科学大学になる可能性が高いと考えられます。別に書かれる事は自由ですが、同僚として勤務されている方々はくれぐれもお気をつけになるように御心配しておきます。