日曜閑話17

今日のお題は「明治維新」です。篤姫に便乗と言われれば、そうです。明治維新は革命とも言われますが、英訳では「the Meiji Restoration」であり「revolution」ではありません。「restoration」とは日本語では回復、復旧、復興を意味するものであり、個人的には王政復古の「復古」を訳している様な印象になります。

ただ形としては革命の方が本質に近くなります。明治維新の成果として、それまでの地方封建制から中央集権制に短期日に作り変えましたから大きな変革です。明治維新の主力となった薩長土肥のうちとくに薩長は明治政府に大きな存在感を示しましたが、驚くべき事に薩摩の島津も長州の毛利も明治政府には実質的に参画せず、そのうえ廃藩置県で領地まで失っています。

明治政府において藩閥問題は政争の種にはなりましたが、薩摩のお膝元の鹿児島県が優遇されたり、長州のお膝元の山口県がとくに優遇されたりは殆んどなかったと言っても良いかと思います。土佐の高知県肥前佐賀県もそうです。薩長人が東京で権勢を揮ったのは間違いありませんが、東京を中心とした中央政府の繁栄に力を注いだのは覚えておいて良いと思います。

これほどの大革命を戊辰戦争程度の内乱で終わらせた事は世界史的にも奇跡的とされます。通常はもっと泥沼の内戦と多くの犠牲者が出るのが当たり前で、フランス革命がどれほどのものであったかを考えればよく分かります。

理由については様々に説明されていますが、幾つか考察してみたいと思います。まず思いつくのは市民革命では無いという事です。江戸時代とくに幕末の日本の人口は3300〜3500万人とされ、このうち9割は農民とされています。そうなると農民以外の人口は3500万人説を取ると350万人程度になります。さらにこのうち武士の数となると詳しくは不明なのですが、100万人程度であったかと思っています。

明治維新には農民も町人も実質として参加していませんから、武士100万人の争いであったとも見れます。農民や町人が明治維新に参加しなかったのは江戸幕府の政治に革命を起すほどの不満が無かったからとされます。不満はあったでしょうが、不満の頂点でも百姓一揆までで、百姓一揆も政権打倒まで進展せず、現状の政治の改善までが精一杯であったと考えています。

百姓一揆に対する対応も幕府も、諸藩も穏健で、確かに指導者を死刑にはしましたが、基本的にその要求を受け入れて解決しています。百姓一揆の要求を力で粉砕して更なる圧政を敷くような事は殆んど無かったんじゃないかと考えています。そういう状況では市民革命みたいな民衆の反乱まで不満のパワーは蓄積されないとしても良いかと思います。

それと武士階級以外の人間は江戸幕府では完全に政治の枠外である体制であったとも言えます。枠外であるだけでなく、広い自治権を持たせ、かなり自由にやらせていたと考えています。この自由は現在の基準からすると異質ですが、当時の人間なりに束縛と言う感じが薄い代物であったと思っています。つまり薩長側と幕府側が政権を巡って争っても完全に無関係で害も及ばない出来事の認識であったと思っています。完全に他人事であったという事です。

最終的に薩長側が明治政府を作りますが、農民や町人達にとっては「幕府が交替した」ぐらいしか意識できていないのが明治維新の側面であったかと見ます。さらに言えば「幕府が交替」したは戊辰戦争の主役の藩以外にも濃厚で、天王山になった鳥羽伏見の戦いも、どちらが勝ちそうかで旗幟を決めたところが多いとされます。幕府軍の数は多かったですが、雑多な寄せ集めが多く、真剣に戦ったところは多くないとされます。

幕府側も会津や桑名や新撰組、江戸から連れてきていた一部の洋式部隊は真剣だったかもしれませんが、それ以外は形勢を眺める日和見連中が多く、形勢が少しでも傾くと、裏切りが出たり、大坂に逃げ帰ってしまったのが実相だと考えています。つまり基本的に幕府が勝とうが、薩長側が勝とうがどちらでも良かったわけであり、目的は勝者に自分の領地の保障をしてもらうだけであったと言っても良いかと思っています。


何が言いたいかですが、明治維新は非常に関係者の少ない革命であったと考えています。農民、町人階級は無関係、武士でも多数はお家大事だけで政治的関心は低かったのが実相でなかったかと見ています。主役である薩長土肥や幕府にしても、明治維新を何のためにやっているか理解している人間は一握りであったんじゃないでしょうか。維新の志士と言っても、その大部分は思想で動いたというより、信用している誰かについて行っただけとも考えています。祭礼があってワッショイ、ワッショイやっていたら江戸幕府が潰れてしまった感じです。

そうなると明治維新の鍵は祭礼が何故起こり、祭礼に参加する人数が増えたかが鍵になります。とりあえず祭礼の種は国防でしょう。鎖国状態ではありましたが、清(中国事情)は耳にしていましたから、黒船騒ぎを経験して日本もしっかりしないと侵略されるの危機感がまず醸成されたと考えています。水戸斉昭や島津斉彬あたりが先駆者であったと思いますし、ある程度の信奉者が集まっていたのも事実して良いと思います。

国防への意識も最初は当然ですが幕府を中心としての発想になります。ところが幕府は幕府の人間以外の政治への容喙を嫌うところがあります。水戸斉昭は御三家では無いかと言われそうですが、幕府は伝統として政治を行なうのは譜代大名の仕事であり、親藩や御一門の徳川家の人間はタッチしないと言うのがあります。

譜代大名とは元々徳川家の家臣の家であり、政治は家臣の仕事であると見なしていたと言えばよいでしょうか。それじゃ譜代大名家の当主が優秀であったかどうかですが、これも世襲ですから出来不出来の差は大きく、正直なところこれまでのしきたり重視の凡庸な人物が多いとしてよいと思いますし、その程度の人物でも運用できるのが江戸幕府でした。

結局のところ雄藩による国防論議安政の大獄から桜田門外の変に展開するのですが、これは譜代大名とその他の大名の幕府の主導権争いの結果と考えています。この抗争劇の結果として「幕府は言う事を聞いてくれない」の認識が広がったと考えています。つまり幕府では国防問題を解決できないという政治的テーマとしてです。


政治的テーマとして国防問題は幕府に任せきれないが出たと言いましたが、この本質を理解していたのはごく少数と考えています。倒幕の主力となった薩長側の一つの特徴として下級武士が実権を握ったというのがあります。細かい経過はいろいろあるのですが、彼らが倒幕に奔走したのは政治的テーマを理解していたのではないと考えています。もっと現実的な理由で動いたと考えます。つまりは自らの立身出世です。

江戸期は身分制度が固定した時代です。武士の間でもこれは固定され、下級武士に生まれれば余ほどの僥倖でもない限り死ぬまで下級武士です。ところが倒幕が実現すればその立役者として一躍の立身出世が可能になります。下級武士が動くにも大義名分が必要ですが、当時普及していた水戸史観が下級武士でもある程度はあり、その上で国防問題をからめて論じられれば単純に「倒幕 = 正義」に傾いてもおかしくないかもしれません。

政治的テーマとしての国防の本質まで理解できなくとも、よく分からないが正義は我にありそうで、働けば一躍の立身出世が可能そうだとなれば祭礼に乗ろうと判断したと考えています。この辺の空気を上手に煽り、活用したのが明治維新の原動力の一つと見ています。人間は利益だけでも大義名分だけでも動きませんが、両方そろうと俄然活動的になります。


明治維新の不思議さは倒幕までは尊皇攘夷であったはずが、明治政府が成立すると掌を返したように開国和平路線に転換します。当然ですがこれは既定路線であったはずなのですが、薩長側が勢力を集めるには宣伝として尊皇攘夷が必要であったからに他ならないと考えます。志士の世論は複雑なんですが、これに求心力を持たせるには尊皇攘夷の旗が不可欠であったからです。

イデオロギーと言うか大義名分として尊皇攘夷は必要でしたが、これもまた本質的に必要なものではなく、そう言っておかないとまとまらないだけの事です。薩長側の主力であった下級武士にすれば、倒幕によって新幕府(新政府)になり、そこで自分の功績をどう評価して立身出世できるかの方が遥かに重要になります。ですから明治政府になり尊皇攘夷路線が開国和平路線になってもさして文句も出なかったと考えています。


明治政府成立後、廃藩置県は大きなハードルであったと考えられます。西郷隆盛などは壮絶な内戦を予想していたとされます。しかし廃藩置県を行い、中央集権政府を作らないと明治政府とは言え、実質として江戸幕府の単なる後継程度の実力しかない事になります。明治政府も相当な混乱を予想していましたが、殆んど混乱なくこれは行なわれています。

理由としては江戸封建制のシステムがそうであったからとされます。江戸期の封建支配の特徴は、大名といえども領地は私領でない事です。大名の領地と言っても、実質は領地の行政権、徴税権を任せられているだけで、直接支配の領地はほとんど無かったと言えます。居城や江戸屋敷さえ大名家の私物と言うより、藩と言う公の機関の所有物と言う感覚が強かったとされます。さらに家来である藩士も当主の家来の意識と言うより、藩と言う公的機関に属している感覚であったとされ、親分子分よりも社長と社員の関係の方が近かったとされます。

さらにこの領地を預かっているという感覚は、幕府支配の象徴である御取り潰しとか、国替えを見せつけられる事により、江戸期を通じて浸透されたと考えます。多くの大名家にとって明治維新は政権移動による新幕府成立ぐらいの認識であったと思われますし、薩長側に与しなかったら当然それなりの信賞必罰が下ると考えていたと思っています。

地方にいれば明治政府の実力などは正確には分かりませんし、きっとあの江戸幕府を倒したぐらいですから物凄い実力を持っていると推測しても笑えません。廃藩置県の命令は地方の大名家にとって幕府の改易命令に等しいものですが、戦っても分が無いと判断したと考えています。そうなれば江戸期の大名の特性としてお家の存続が第一の目標になります。小さくなってもなんとかお家を存続させるのが最重要時になります。

明治政府としても実際に反乱を起されると軍事力は心許ないものでしたから、大名家自体の名誉や面子は立つように計らいます。かくしてほぼ平和裡に廃藩置県は実行されることになります。非常に不思議な革命といえばそうです。


あくまでも個人的にですが、明治維新の本質を理解していた人物は本当に少なかったと考えています。西郷隆盛でも理解していたかどうか正直なところ疑問です。倒幕運動は非常に政治的な側面があり、幕末をテーマにしたドラマや時代小説でも政治的論争は激しく戦わせられますが、どうにも各々が勝手気ままに都合の良いところだけを引用して大きなテーマである倒幕に収斂させて行ったように考えています。

幕末の動乱から明治維新にかけての動きは、残されている資料も多く、また様々な角度からの考察が行なわれていますが、未だに「あれはなんだったのだ?」の疑問が解決しない問題です。私の中でも永遠のテーマの一つで、今日も閑話として触れてみましたが、まだまだ話としては練れていない代物です。ひょっとして当時の誰もが何をしているか分かっていなかったんじゃないかとも考えています。漠然としたゴールに狂乱の中で暴走した結果みたいな感じです。


ではでは、今日はこの辺で休題にさせて頂きます。