日曜閑話12

今日のお題は「信秀の遺産」です。信秀とは信長の父です。信秀時代の尾張は守護として斯波氏がおり、守護代として織田氏がいる体制になっていたようです。守護代も上と下で半国づつを統治するスタイルで、信秀は下の守護代織田家重臣であったとされます。あんまり資料的な裏付けがないのですが、信秀時代にも守護の斯波氏の力はすでに衰え、実権は守護代の上下の守護代織田家が握っていたと考えています。尾張の石高は太閤検地によると57.2万石、半国であれば25〜30万石程度が主家である守護代織田氏の勢力範囲となります。

下の守護代織田家重臣は三人衆と呼ばれたそうで、少なくと3人はいたようです。信秀が当主となった時の下の守護代織田家の勢威はわかりませんが、重臣である三人衆の所領は三人合わせても10万石足らずでなかったかと推測します。つまり信秀の所領は2〜3万石が精々という事になります。2〜3万石といえば動員兵力は500〜700人程度の小勢力になります。

信秀はこの時代の英雄に数えても良い人物で、一代の間、合戦に次ぐ合戦を続けましたが、最盛時には下の織田家をほぼ支配し、上の織田家もその下風にたつぐらいの勢力になったと考えられます。晩年は西進してくる今川氏、美濃の斎藤氏に苦戦して勢力をすり減らした部分はあったようですが、息子の信長にはそれでも10〜15万石の遺産を残したと考えます。桶狭間での信長軍はおおよそ4000人程度とされますから、信秀一代の遺産がなければ、信長がいかに天才でもあの奇跡は起せなかったと考えます。信秀が凡庸で2〜3万石程度のままであったら、奇跡のタネさえなく押し潰されたのは確実です。

信秀の遺産は他にもあると考えています。信秀から信長への代替わりでかなりの抗争がありましたが、信秀時代からの重臣として林通勝(近年の研究では秀貞説も有力)、柴田勝家佐久間信盛が後世も有名ですが、彼らもまた信秀の遺産です。遺産と言っても敵に回ったりもしているのですが、家臣の雇用法、軍団の形成が信秀の遺産と考えています。

林通勝柴田勝家佐久間信盛重臣であるのは間違いないのですが、直接の所領を持っていた形跡が非常に薄いとされています。もちろん後年信長による天下統一事業が進行するにつれて所領を持つようになりましたが、信秀から信長時代のある時期までは無かったか、あっても非常に小さかったんじゃないかと考えられています。

この三重臣も経歴がはっきりしないところがあるのですが、林通勝尾張土豪ではあったようです。しかし勝家や信盛となると出自さえはっきりしません。おそらく信秀が尾張に勢力を伸ばそうとした時に迎え入れた浪人者あがりではないかと考えています。ちょっと微妙な時期なんですが、信秀の時代であっても少しでも家格の高い家なら素性もわからない浪人者を家臣にしたりはしません。足軽ならともかく士官として迎え入れることはまだまだ敷居の高い時代であったと考えています。

しかし信秀の家は小さく、家格も当時の概念からかなり低い方です。信秀のキャラもあったでしょうが、急速な勢力拡張期でもあったので入り込みやすかったと考えます。ここで重要と思うのは信秀は家臣にするにあたり、所領でなく現物(蔵米)で給与としたんじゃないかと考えています。またこれはあくまでも想像ですが、信秀は尾張での勢力拡張に当たり、中間勢力を味方にする手法ではなく、討ち滅ぼして併呑する手法を取ったのではないかと考えています。併呑した所領の年貢はすべて信秀が取り、そこから給与として現物供与にした可能性です。

信秀の手法は信長にも受け継がれていると考えられるフシはあります。信長が中間勢力の抱きこみを真剣に行なったのは北近江の浅井と三河の徳川ぐらいです。他にも中間勢力の抱きこみはやっていますが、この二家以外は権謀術策上での一次的な抱き込みに過ぎず、用がなくなったら容赦なく滅ぼしていると見ます。戦うからには相手の息の根を完全に止めて併呑する信秀流を続けたとするのは考えすぎでしょうか。

軍団の成り立ちも小さな織田家の軍制が拡大したと考えています。当時の軍制は旗頭とする大将の呼集によって味方する豪族が参集する形式です。ところが信秀の勢力はもともと呼び集められる方の小勢力クラスであったため、すべて直轄軍であったと考えています。信秀が勢力を拡大しても基本の形態は変らず、重臣が兵を率いる事はあっても、あくまでも信秀の直轄軍を預かる形式で行なわれたと考えています。つまり重臣といえども私兵が殆んどいないスタイルです。

当然ですが信長も信秀のやり方を見ているはずです。信長は諸事革新というか斬新な発想を断行した人ですが、秩序だった軍事改革を行った形跡はありません。つまり信秀の軍制を基本的に受け継いだと考えるのが妥当かと思われます。当然家臣への給与も現物供与が当然で、領地はすべて自分のもの、兵もすべて自分のものと考えたかと思います。

織田軍団の革新性の一つに、兵農分離による常備軍制があります。あれも信長が作ったというより信秀が作ったと考えるのが妥当かと考えています。信秀も生涯合戦に明け暮れています。信長とはスケールが違いますが、他勢力を併呑すれば摩擦は高まります。お家再興に動いたり、それを支持する勢力との格闘、または信秀の勢力拡張を快く思わないものとの抗争が断続的に続きます。

そうなると「さあ、合戦だ」と言ってノンビリ兵を集めていては間に合いません。相手に隙あらば瞬時に攻め寄せ、不意を突こうと攻め寄せてきたら素早く迎撃する必要があります。そのためには軍団は城下に常に常駐していなければなりません。兵農分離のネックは当時の主要産業である農業の従事者が減ってしまう事ですが、銭経済に早くから目を付けて収入源とした事と直轄軍制度でそれを可能にしたのではないかと考えます。

どうも直轄軍による常備軍制度が信秀の強さであったのではないかと考えます。信秀はしばしば大敗を喫していますが、それでもしぶとく盛り返しています。これは中間勢力の抱きこみによる勢力拡大部分が少なかったためと考えています。中間勢力は旗色を見てすぐに離散しますが、直轄領による直轄軍であったがために敗戦でも致命的な落ち込みとならず勢力挽回が可能であったとも考えています。

信秀が常備軍制度を整えていたので信長独特の出撃が可能となります。桶狭間の時が典型で、信長が突然「出撃するぞ」と馬に跨り単騎で出撃しても、直ちに城下の常備軍に瞬く間に触れが回り、その後を追っかけながら軍を作り上げるなんて芸当が可能になります。信秀も信長ほど極端でなくとも似たような出撃スタイルを行っていた可能性があります。信長といえどもそういう軍制がなければあんな出撃方法は取れないはずだからです。

直轄常備軍方式は信長も忠実に受け継いでいたと考えています。信長の頭の中では兵はすべて織田家のものであり、大将と言っても指揮させているだけの意識が濃厚であったかと思われます。ですから相当強引な運用を平気で行ないます。軍団の組みなおしも何の斟酌もなしに必要に応じて瞬時に行ないます。家臣の採用や登用も信秀流で、才能があると見ればドンドン重用しますし、才能がなければ一族であっても冷遇そのものです。

信長を支えた有能な将軍である丹羽長秀滝川一益明智光秀羽柴秀吉もそういう家風の中で採用登用され頭角を現します。また織田家での現物給与による待遇に不満を言わせません。言わせませんと言うより、信長の頭の中では家臣とはそんなものであるとの強固な常識が出来上がっていたのではないかと考えています。登用された重臣ももともとは徒手空拳に近い状態でしたし、他の家では旧来の門閥が支配していたので織田家のような出世は不可能に近いので満足していたとも考えます。

ちょっと信秀を買い被り過ぎかもしれませんが、

  1. 直轄常備軍制度
  2. 家臣の現物雇用制
この二つを織田の軍制として信秀が確立していたのを信長はそのまま利用した可能性があります。とくに常備軍制度は一年中戦争が出来るというメリットがあり、兵農分離が進んでいない周囲の強豪に対して非常に有利な体制です。信長はいつでも好きな時に常備軍を動かして戦を仕掛ける事が出来ますが、相手は農繁期にこれをやられると農業生産に痛手を蒙りますし、農繁期に兵を動員される恨みを自国の領主に向ける事になります。

天下統一事業が進んでさすがに重臣たちに所領を与えていますが、これもおそらくですが私領を与えたという意識は非常に薄かったのではないかと考えています。意識としては織田家の所領の一部を統治させてやるではなかったかと思います。後世で言えば官選知事みたいなもので、あくまでも管理者であっていつでも信長は首を挿げ替えられるの意識が濃厚だったと考えています。あくまでも全部織田家のものであると言う意識です。


これは今日に関しては蛇足ですが、現在でさえ様々に推測される信長の天下統治の形態がここから視点をあてれば一つ見えてくるような感じています。やはり織田家による中央集権政治を考えていたと思います。すべての大名家を基本的に押し潰し、織田家だけによる統治制度確立です。ここから先は本能寺で急死したのでどうするつもりであったのかは誰にもわかりません。

わからないのですが、推測する手がかりはあります。信長は室町幕府を知っています。それも衰微して弱体化した室町幕府です。室町幕府が弱体化したのは功臣の所領が将軍家を凌ぐほどのものであり、肝心の将軍家が弱体であった事は信長でも知っていたかと考えています。そういう政権にしたくないと思えば織田家を強力にする必要があります。それも強力であればあるほど望ましい訳ですから、全国をすべて織田家の領地にするのが理想になります。

近代的な議会政治みたいなものを構想していた説までありますが、そうではなくて歴代中国王朝の皇帝みたいなものを考えていたんじゃないかと思っています。秦王朝みたいな完全な郡県制度まで行かなくとも、天下の7〜8割は織田家の直轄地として支配し、残りの2〜3割程度を功臣や滅ぼしきれない大名の支配地として残すみたいな形態です。少なくとも江戸幕府ぐらいの封建政治では妥協しなかったように考えています。

では、では、この辺で本日は休題にさせて頂きます。