10月15日付読売社説より、
新聞週間 時代の羅針盤でありたい
きょうから「新聞週間」が始まった。国民が参加する裁判員制度の開始を来年5月に控え、報道のあり方を改めて考える機会となる。
刑事裁判は、有罪か無罪かを的確に判断し、罪の重さに見合った刑罰を科すのが目的だ。
これに対し、事件や事故の報道は、役割が異なる。
事件などの背景にある問題点を探り、制度や法律に不備があれば是正して再発防止策にいかす。また、逮捕権などを持つ捜査機関が正しく権限を使っているか監視し、行き過ぎを防ぐことだ。
読売新聞では3月末から、「事件・事故 取材報道指針」の運用を始めた。例えば記事の書き方では、捜査機関の情報とそれ以外の情報を明確に区別した。捜査側の情報は、裁判では被告側と対等な一方の主張にすぎないからだ。
法曹界には、報道が裁判員に予断を与えかねないという懸念が強い。だが、国民の常識を反映させる制度の導入が、報道の自由を制約し、国民の知る権利を侵すことになっては、本末転倒である。
予断排除は、まず法曹界自体が取り組むべき課題だ。とりわけ裁判官の役割は大きい。法廷の証拠だけで判断する重要性を、裁判員に丁寧に説明する責任がある。
公正・公平な報道は無論、報道機関の責務だが、警察・検察と弁護士の理解、協力も求めたい。
特に、捜査側の見方に偏らないためには、容疑者の言い分を速やかに伝えることが必要だ。
弁護士には、弁護方針が固まらない段階で取材に応じるのは妥当ではないとの考えが根強い。しかし、バランスのある報道を強く求めてきたのも弁護士だ。
日本弁護士連合会会長は9月、記者会見で「裁判員制度開始までに基本的な考えをまとめたい」と述べた。ぜひ実現してほしい。
報道機関には、ネット社会への対応も新たな課題だ。
東京・秋葉原の無差別殺傷事件では、携帯電話サイトに犯行予告とおぼしき大量の書き込みがあった。だが、本人の書いたものかどうか、確認作業が必須となる。
読売新聞の世論調査では、新聞への信頼度は今年も8割を超え、ニュースの解説、社会の懸案の解決策提案という役割では他のメディアを引き離した。9割の人は今後も新聞が必要と答えている。
政局や米国発の金融危機など、国内外の情勢は刻々と変わる。情報があふれ、社会が激しく変動する時代だからこそ、新聞は確かな羅針盤であり続けたい。
まずまず
事件や事故の報道は、役割が異なる。
事件などの背景にある問題点を探り、制度や法律に不備があれば是正して再発防止策にいかす。また、逮捕権などを持つ捜査機関が正しく権限を使っているか監視し、行き過ぎを防ぐことだ。
素晴らしい宣言として記憶に残しておきましょう。素晴らしい宣言と言うより当然これまでもそうしてきたかと思うのですが、
読売新聞では3月末から、「事件・事故 取材報道指針」の運用を始めた。例えば記事の書き方では、捜査機関の情報とそれ以外の情報を明確に区別した。捜査側の情報は、裁判では被告側と対等な一方の主張にすぎないからだ。
失笑してしまいそうになりました。「3月末から」と誇らしげに書かれていますが、「3月末」までそうでなかったことになります。読売新聞は1874年創刊となっていますから、130年以上その事に気がつかなかったとも受け取れます。指針の変更は、これまで良くなかった、もしくは時代に合わなくなったから変更したのでしょうが、「3月末」までは問題なかったと「きっと」判断されているのでしょう。
法曹界には、報道が裁判員に予断を与えかねないという懸念が強い。だが、国民の常識を反映させる制度の導入が、報道の自由を制約し、国民の知る権利を侵すことになっては、本末転倒である。
予断排除は、まず法曹界自体が取り組むべき課題だ。とりわけ裁判官の役割は大きい。法廷の証拠だけで判断する重要性を、裁判員に丁寧に説明する責任がある。
マスコミが刑事事件報道について本当に公平なら法曹界も懸念しないでしょうが、そうでないから懸念していると考えられます。この懸念は漠然とした不安ではなく、テンコモリの実例で示されるかと思われます。その懸念に対する読売の回答は素晴らしく、裁判員に法廷の証拠だけで判断するように裁判官が全責任をもって指導せよとしています。
訴訟の証拠とか事実認定については、医療訴訟を追っかける過程において幾つかの知見を得ましたが、正直なところ一般常識とは相当かけ離れた知的作業が必要とされるものです。マスコミ報道の影響はプロの裁判官でも完全に排除する事は実際は難しいとされています。決して裁判官はそんな事を口にしませんが、影響はやはりあるとされます。巨大な影響力を持つ新聞は好き勝手に書くが、それを素人の裁判員は無視すれば事は解決するとの主張と考えられます。
それとここだけ読むと「国民の常識」の反映とは、まるでマスコミの意見がそうであるかのように曲解を招く書き回しになっています。マスコミが報道する「国民の常識」に反した判決は許さないとのアピールと受け取っても良いのでしょうか。解釈に悩むところでもあります。
特に、捜査側の見方に偏らないためには、容疑者の言い分を速やかに伝えることが必要だ。
弁護士には、弁護方針が固まらない段階で取材に応じるのは妥当ではないとの考えが根強い。しかし、バランスのある報道を強く求めてきたのも弁護士だ。
容疑者側の言い分もバランスとして報道する事は間違っていませんが、弁護士への要求はチト無茶ではないでしょうが。警察や検察は立件するために容疑者を拘束します。拘束中は弁護士といえども限定された条件でのみしか会う事が出来ません。一方で検察はすべての証拠と供述を固め、訴訟方針を確定してから起訴に踏み切ります。弁護側は検察側の起訴の後に、ようやく容疑者と連絡を密に取れるようになり弁護のための情報集めと弁護方針を考えます。
もっと言えば起訴時点でも検察の戦略を弁護側は見えるわけではありません。訴訟は弁論と言う名の戦争ですから、嵌め手、隠し技は自由に駆使できます。弁護士は検察のカードを全部は見れないうちに訴訟に臨まなければならず、被告となった容疑者の命運を背負って発言しなければならないのですから、そんなにホイホイと取材に応じれるものではありません。
検察が報道機関に提供する情報も訴訟が有利に展開する事を狙っての限定されたものであるのは周知の事であり、情報量のアンバランスが存在する現状で読売は何を求めているのか私には不可解部分があります。少なくとも弁護側には記者クラブ制度は無かったかと思います。
読売新聞の世論調査では、新聞への信頼度は今年も8割を超え、ニュースの解説、社会の懸案の解決策提案という役割では他のメディアを引き離した。9割の人は今後も新聞が必要と答えている。
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新聞への信頼度は今年も8割を超え
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9割の人は今後も新聞が必要と答えている
ちょっと話が拡散したので整理すると、読売は刑事訴訟に対し「おそらく」ですが、
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創刊以来130年ぶりぐらいで「事件・事故 取材報道指針」を変更した
- 新しい指針は完璧だから裁判員制になっても「国民の常識」を自由に報道する
- 報道の裁判員への影響は裁判官の責任でシャットアウトせよ
- 新しい指針により容疑者側(被告側)のコメントが必要になったから即座によこせ