日曜閑話5

今日のお題は「平家」です。もちろん「ひらや」ではなく源平合戦の一方の雄の「平家」です。昔から源氏と平家と並び称されますが、なぜか源氏は「氏」であり、平家は「家」です。後に成立した平家物語の影響もあるように個人的には考えていますが、平家全盛の時代にもやはり「平家」と呼ばれていたとされます。

「平」の姓は源平藤橘と言われますが、「源」姓と同様に臣籍降下した皇族に与えられた姓である事は知られています。俗に桓武平氏とも言われますが、決して桓武天皇の子孫にのみ与えられた姓ではなく、仁明天皇から出た仁明平氏文徳天皇から出た文徳平氏光孝天皇から出た光孝平氏もあるのですが、栄えたのは桓武平氏だけとなっています。

その桓武平氏も実は数流の流れがあったとされますが、栄えたのは葛原親王の子孫である高棟王の子孫と高望王の二系統になっています。高棟王の系統は京都で貴族になり、後に平時忠が出現し、さらにこの系統は源平争乱を生き延びて、江戸時代にも残っています。この系統は平家全盛の時代には平家の一族に数えられていました。そういう訳で高望王の系統が源平争乱の主役となるのですが、この系統は関東に土着する事になります。

高望王平高望)の子の時代には関東各地の土着勢力として根を張り始めます。有名なのは承平天慶の乱で有名な平将門で、時の京都政権を揺るがす反乱を起こした事で有名です。将門は滅ぼされましたが、その他の平氏系統はもちろん健在で、俗に坂東八平氏とも言われ、この系統も源平どころか、鎌倉、室町、江戸も潜り抜けて生き残っているものもあります。ただし関東に土着した平氏は在所名を名字とし、平家とは呼ばれません。

将門は高望王の三男の良将の子でしたが、長男の家(嫡流)ももちろんあります。長男を国香と言い、その息子が貞盛です。貞盛は将門の乱の時に朝廷側につき勝利はしたのですが、心情的な将門支持派が坂東には多く、勝利者である貞盛に冷たかったとされます。展開によっては将門の討伐側についた貞盛が坂東平氏の棟梁になってもおかしくなかったのですが、貞盛は坂東で白眼視された事と、どうも性格的に無骨な坂東武者と言うより、京都の生活の方が水に合っていたようで、将門の乱の後、生活の軸足を京都に移すことになったとされます。

こはちょっと自信がないのですが、貞盛が勢力を及ばしたところに伊勢があったようです。伊勢平氏は貞盛の三男の維衡から始まるとされていますが、伊勢平氏自体もまだ平家ではありません。維衡の子の正度の四男に正衡がおり、正衡の子の正盛を初代とする系統が平家となります。つまり伊勢平氏のさらに傍流が平家という事になります。

伊勢平氏清和源氏嫡流といってよい河内源氏と激しい勢力争いを行ないながら成長するのですが、正盛の子の忠盛の時代に平家は飛躍的に発展します。忠盛は西国の海賊退治で名を挙げるとともに、瀬戸内の海上勢力を支配するようになり、西国に大勢力を築く事になります。また武家として異例の事ながら昇殿を許される殿上人の地位まで出世し、京都の政界に深く食い込んでいくようになります。

私の知識の限界がこの辺にあるのですが、高望王嫡流は「国香 → 貞盛」は間違いないですし、伊勢平氏の始祖は貞盛の三男の維衡で正しいようなのはわかります。しかし三男という事は長男がおり系図上でも、維将(長男)、維敏(次男)とおり、長男維将の孫の直方は平忠常の乱の時に歴史に名を残しています。長男が嫡流かどうかは言い切れないのが難しいところですが、系図上の嫡流は歴史の舞台では以後ハッキリしません。

もう一つ、貞盛の三男の維衡が始祖とされる伊勢平氏ですが、平家の始祖とされる正盛は、維衡の孫ではありますが四男の正衡の子です。史書にも伊勢平氏の傍流とされていますから、伊勢平氏本家と言うか嫡流がいるはずなのですが、忠盛から清盛と隆盛を極めた平家との関係がよくわかりません。清盛は一族を大切にした事で有名で、自らが京都で政権・覇権を握ると嫡流筋の伊勢平氏の子孫も栄爵を受けていますが、本来傍流の清盛を伊勢平氏の本家筋としたのかどうかはよく分かりません。

現代と異なり本家、分家の関係はうるさく、とくに嫡流の本家の当主は氏の長者として格別の地位にあった時代の話ですから、気にはなります。気にはなりますが、清盛の一族融和への手腕は物凄かったのだけは歴史が証明しており、数少ない親族(義経、範頼)さえも敵視して殺してしまった頼朝とは対照的に、平家一門の団結力、結束力は一族滅亡となる壇ノ浦までほとんど崩れずに続く事になります。頼朝は鬼才とも言える政治センスをもち、これを冷血も言える実行力で鎌倉幕府を開きましたが、もしリーダーとして仰ぐなら情のある清盛の方が個人的に好きです。

平安末期の京都の政界は、藤原摂関家と、摂関家から政権を奪還しようとする院政派が主導権争いをしていました。これも実はなんですが、藤原摂関家内部のコップの中の勢力争いに過ぎなかったのですが、エスカレートの余り、武家の勢力をこの争いの引き込む展開になっていきます。

やや時代が前後するのですが、源氏の指導者には前九年の役後三年の役で有名な頼義、義家が登場し、坂東に大きな地盤を築く事になります。もともと坂東は平氏の地盤だったのですが、どうも代を重ねるにつれ坂東の気風が染み込み、本来の本家筋に当る伊勢平氏と関係は薄れていったようです。時代的に将門の乱の記憶が残る頃と考えられますから、伊勢に本拠を移した平氏本家への反感もあったかもしれませんし、より坂東武者らしい源氏の棟梁の魅力に惹かれていったとも考えられます。

源氏は摂関家に味方してより勢力を伸ばしたのですが、平家は清盛の祖父正盛頃から院政派である白河法皇に寵愛される事になります。これは摂関家に源氏が味方している事へのパワーバランスの意味もあったでしょうが、やがて源氏に匹敵する勢力を持つことになります。そうして時代は保元平治の乱を迎えることになります。

保元平治の乱の背景は複雑ですが、源平の勝敗はそれぞれが頭と頂いた棟梁の器量の差により決する事になります。源氏の棟梁は義家の子である為義、さらに孫の義朝でしたが、どちらも無骨ではありましたが、臨機応変の才にやや乏しいところがありました。一方で平家は歴史に残る英雄清盛です。両者の器量の差は歴然で勝敗は歴史に残る通りの結果になります。

後に富士川の戦いの折の、斉藤別当実盛のエピソード、または水鳥の音に逃げ出した話から、平家率いる西国武者は弱兵、源氏率いる東国武者は強兵と思われていますが、あくまでも個人的にですが、平治の乱の経緯を見ると平家武者がそんなに弱かったと思えません。乱の細かな経緯は長くなるので省略しますが、当然平家方には西国武者が、源氏方には東国武者が参加し、兵力的にもほぼ互角ないしはやや平家優勢です。京都を舞台に御所、六波羅、六条河原と源平入り乱れての激戦が終日行なわれていますが、結局戦い疲れて敗れたのは源氏側であり、押しきったのは平家側です。

もちろん双方の大将である清盛、義朝の器量の差は歴然としており、戦術的にも戦略的にも平家側が圧勝している事情はあれ、個々の武者の戦闘で平家側が源氏側に著しく劣ると言う事はありません。平治物語は義朝の長男である悪源太義平の武勇を描いた作品と呼ばれていますが、右近の桜、左近の橘を巡って剛勇無双の悪源太義平と武勇を競ったのが清盛の長男重盛です。創作説もありますが、悪源太義平のライバルに仕立てられるぐらいですから、惰弱どころか悪源太義平の引き立て役になるぐらいの剛の者と考えられたとしてよいと思っています。

また平家物語で書かれる様に平家武者が源氏武者に対し恐怖心を抱いていたのなら、清盛の戦略によりいかに優位に立とうとも、六条河原で源氏軍をみた平家勢は壊走していたはずです。たしかに騎馬武者としての乗り手の技術、馬の質は源氏の方が優れていたかも知れません。しかし源平合戦といえば騎馬武者で、義経の活躍により騎馬武者による集団戦が行なわれたイメージがありますが、実際はそうとは言えません。

馬に乗れる武者とは小領主の事であり、実際の戦闘は馬に乗った小領主の周りを徒歩の家来が固めて戦うのが基本です。ここでも馬に乗った小領主同士がお互いに名乗りをあげて、家来を交えず戦うのがポピュラーのようにも感じるかもしれませんが、そういう一騎打ちを行なった話が称賛されている点に注意が必要です。そういう事は珍しいから称賛され記録されたのであり、通常は周囲を固める徒歩の家来同士の戦闘に終始したと考えた方が自然です。

もっとも未開の地と言える坂東からの兵と、坂東に較べると先進地域に当る西国の兵では質として坂東の兵が強かったであろう事は推測されますが、その差は決して圧倒的ではなく、平家物語に語られるほどのものではなかったと考えています。ただし推測で源氏方の兵は東国が主体であろうとしましたが、動員兵力からし河内源氏が主力であった可能性も否定できません。保元平治の乱の源氏の主力が河内源氏で、平家の主力が伊勢平氏なら、源氏の一部の東国武者を除くと兵の質も互角であったかもしれません。

保元平治の乱の後、清盛は太政大臣の地位まで登りつめ、平家全盛、いわゆる「奢る平家」の時代が来ます。この時代の平家の事はほとんどボロクソに書かれていますが、そんなに悪政三昧であったかと言うと極めて疑問です。歴史を見るうえで注意しておかなければならないのは、誰が記録したかです。後世の人間は前世の人間が書いた記録を基に前時代を評価しますが、平家の記録は一体誰が書き残したかを注意しなければならないと思います。

平家全盛時代の記録は、平家台頭により圧迫された藤原氏の記録です。これまで独占状態であった官位を平家に奪われ、当時の平安貴族は官位こそが人生の全てであったので、コンチクショウと言うぐらい悪し様に罵ります。とくに当時の貴族の感覚からすると、武家なんて人間とさえ思っていない面がありますから、人間と思ってなかった成り上がり者が大きな顔をされれば残された記録は想像がつきます。

また源氏側も記録を残していますが、これもまた平家を貶めます。源氏による平家追討なんて、一皮剥けば単なる復讐戦にすぎません。しかし復讐戦だけでは武家としての名分はついても、鎌倉幕府と言う革新政権の大義として弱いという事になります。そうなれば平家政権は「奢る平家」であったから源氏に倒されて当然と言うプロパガンダは絶対に必要です。

平家全盛時代の政治を考えると大した事はしていないように思います。これは平安末期の政治がどんなものかを知っておく必要があります。平安時代中期ぐらいから荘園と言うものが全国にはびこります。荘園の解説は長くなるのでごく簡単にしますが、貴族の私領です。この貴族の私領が大部分を占めてしまった結果、中央政府として政治をする余地がほとんどなくなっています。荘園のタチの悪いところは、公式には領地ではなく別荘の園庭として扱われた事です。庭だから税金は不用との運用でしたし、庭に対する政治も存在しない事になります。そんな状態で誰が政権を握ろうが大した事は出来ないのは自明の事です。

官位を独り占めする勢いは「平氏にあらずんば人にあらず」で象徴されますが、それまでの藤原氏は何百年も「藤氏であらずんば人にあらず」をやって来たわけですから、「あんたには言われたくない」と言ったところでしょうか。

それと平家政治は西国の人間には相当強く支持されていたのは間違いありません。源平合戦は平家敗北の歴史でもありますが、富士川倶利伽羅峠の敗戦から都落ち、さらには一の谷、屋島と手痛い敗北を喫しますが、それでも最終決戦壇ノ浦を戦うまで支持勢力が確保されます。これは驚くべき事なんです。平家以降でも以前でも、これだけ敗北を繰り返しても勢力を保った例は思い浮かびません。

日本に限らず、戦いは勝てば勝つほど勢力は雪ダルマ式に増えますが、負ければクモの子を散らすように逃げ散ります。ましてや源平時代の主従関係は江戸期や戦国後期のようにサラリーマンスタイルではありません。各地の地生えの武士が有力者の庇護を認めて味方するスタイルで、直接の主従関係は乏しい上に、有力者の直轄の兵力もさほどのものではないからです。ここまで平家に支持があったからこそ源平合戦はラウンドを重ねる事が出来たのであって、源平合戦以外なら都落ちしたぐらいで平家勢力は散り散りになっても何の不思議もありません。

もう一つ平家一門の結束力の強さです。清盛の死後、一門を率いたのは宗盛です。宗盛は残念な事にさしての器量人ではありません。英雄清盛の後は誰がやっても大変なんですが、宗盛の持つ器量で平家一門の求心力になれるかと言えば大いに疑問です。これは戦国期まで続く伝統になるのですが、軍勢の基本は独立した小領主が最小単位で、小領主が棟梁に仰げる人の器量で味方につくか、敵に回るかの判断をします。軍勢の召集に棟梁の器量は大きく影響します。これは清盛が遺した一族結束の遺産がいかに大きかったかが窺われます。

源氏の棟梁頼朝に較べ、遥かに劣る宗盛を棟梁に仰いで戦う平家の大変さがあります。器量に於ては劣る宗盛を盛り立て、さらに敗戦続きの平家方の士気、結束力を維持した努力は目を剥くほどのものがあります。時代は違いますが、一代の英雄信玄の後を継いだ勝頼が、相次ぐ敗戦により支持を失い、最後は一族の者にも続々と裏切られたのと好対照です。

もちろん平家は時代の流れからすると滅びるべきして滅んではいます。時代は源平争乱後の鎌倉幕府を見れば分かるように、貴族による荘園支配から、独立した自作農による政治に代わっていきます。この時代の変化に対し、英雄清盛をもってしても対処する事は出来ませんでした。平家の目指した政治はあくまでも藤原氏の政治の継承であり、独立した自作農を勢力基盤とする武家政治への転換までは踏み出せませんでした。

これは清盛と頼朝の政治家としての資質の違いもあるでしょうが、旧勢力との権力闘争が残る京都に本拠地を置いた清盛と、あくまでも旧勢力と距離を置き鎌倉に本拠地を据えた頼朝の環境の違いも大きいかと考えています。京都に身を置くというのは現代からでは想像もつきませんが、非常に特殊な環境にいるのと同じ事になります。この京都の影響は戦国期にも残り、戦国期に勢力を誇った、三好氏、松永氏が天下を握るには程遠かった事でもわかります。京都を地盤としている限り、旧勢力との水面上だけではなく、水面下での争いに精力を磨り減らさざるを得ない特別の地であるということです。

それでも私は関西人であり、神戸に住んでいますから、平家に限りない愛着があります。源氏に稀世の天才戦術家義経がいなければどうなっていたか。一の谷なんて、義経がいなければ平家にとって必勝の大戦略であったはずです。一の谷で平家が勝ち、京都を奪還し、鎌倉との東西対決が展開していたらどうなっていたかなんて、夢想してしまいますし、そういうロマンを頭の中で遊ばす事が出来るのが歴史の楽しみです。

では、では、この辺で今日は休題にさせて頂きます。