言葉は難しい

人と人とのコミュニケーションに言語は非常に重要です。言語なんていうと身構えるかもしれませんが「言葉」すなわち「ことば」です。それも英語とかフランス語みたいな外国語ではなく、日常で朝から晩まで使っている日本語です。ネットコミュニケーションも画像や音もありますが、基本は言葉です。朝から晩まで意識さえせずに使っている言葉ですが、時に意思を伝えようとすると非常に難しいものになります。

とりあえず難しいのは専門用語。医療の事を書けば嫌でも専門用語が出てきます。いつも申し訳ないと思いながら、当ブログでは専門用語の逐次説明はサボっています。非常に初期のうちはやっていたのですが、これをやっているとタダでも冗長なエントリーがさらに長大になってしまいます。丁寧にやりだすと、専門用語の解説の解説文の中の専門用語のさらに解説みたいな泥沼に入り込んでしまうからです。さらに用語の定義や使い方が辞書や教科書に書いてあることから、実戦や先端レベルの新たな解釈までウンザリするほど幅が広く、さらに疾患の状態や診療科によって使うニュアンスがさらに異なるなんて事がザラにあるからです。

専門用語まで行かなくとも日常語に近いものでも大変な事はよくあります。医学用語は一部を除けば日常で使われることは少ないのですが、法律用語は日常語の意味やニュアンスで話をすれば、法律解釈的にはかなり異なる場合があり、幸いな事によく御指摘頂きます。だいぶ慣れてきた面はありますが、それでも不慣れな用語の解釈について、今でもよく御注意を受け、赤恥をかくことも珍しい事ではありません。

そこまでスノブな領域までいかなくとも、もっと日常語レベルに近いものでも難しいものはあります。上記した専門用語レベルなら、難しくとも言葉のある程度厳密な定義があります。つまり間違って使っていたら、専門家には正しい用法の指摘が可能で、覚えさえすれば次から正しい用法で使えます。もちろん生易しくはないのですが、基本的に正しい意味はある一定の幅の中に統一されているからです。

ところが言葉の中には受け取る人によっては万華鏡の様に様々な形で解釈されるものがあります。つまりある言葉の意味の受け取り方があるグループにはAという解釈をされ、また別のグループにはBと言う解釈をされ、なおかつ正しい意味としてAもBも成立するなんて事が幾らでもあるからです。さらにその時々のシチュエーションによりAともBとも解釈が可能となり、ある時点でAの解釈であったのが、次の時点でBの解釈に都合により変更されるなんてこともよく起こります。

「ここに」って程、身構えるものではないのですが、「謝罪」と言う言葉があります。字面の単純解釈では「罪がある事を謝る」になります。もう少し言えば「罪がある事を認めたから謝る」にも受け取れます。もちろん文字通りに使われることが多いのですが、いつでもそうだとは限りません。日本人にとって「謝罪する」という意味はもっと広範囲に使われます。

日本流の謝罪でとりあえず謝るというのがあります。ある不幸な出来事の当事者に対し、責任者もしくは担当者と考えられる人が謝罪するというものです。このとりあえずの謝罪は必ずしも罪を認めたからの謝罪ではありません。あえて言えば「当事者が不幸な事になって悲しむ事」に対する謝罪です。その出来事がなければ当事者が悲しむ事はなかったわけですから、責任者として悲しませた事への謝罪とすれば良いでしょうか。

そういうその場での謝罪は日本では儀礼行為として欠かせないものとされています。行なって当然行為であり、行なわないものは礼を欠くと見なされていると考えています。ただ暗黙の前提として、あくまでも儀礼的謝罪であり、本当に罪があるかどうかは問わないという了解事があったと思います。本当に罪があるかどうかは、それこそ後日に事実が明らかになってから判定される事であり、そのときに本当に罪があれば今度は罪を認めての謝罪となります。

日本流の儀礼的謝罪は本当はもっと芸が細かく、罪がなくとも、そういう騒ぎが起こったことをさらに謝罪して完結するとした方が正しいかもしれません。罪があってもなくても2度の謝罪を行なって、日本の型としての謝罪が形式として完成すると考えています。ですから、罪がなくともその場と後日の謝罪を欠くと失礼と受け取られます。これが日本流の謝罪の型かと考えられます。

一方で欧米流の謝罪の定義も日本に確実に入っています。欧米と言っても広いのですが、日本で理解されているものは、字面どおりのものになり、「謝る=罪を認める」というストレートなものです。当然ですが、罪を認めなければ謝罪はしませんし、罪を認めず謝らない態度を取ることが、もっとも正しい行為になります。一般的な日本人の感性からすると傲慢とも受け取られそうですが、欧米では当然として違和感などないものだと思われます。この辺は文化の違いとしか言い様がありません。

欧米流の謝罪の解釈が入っていると言っても、完全に欧米流で押し通す人間はまだ多くありません。しかし斑に取り入れ始めている人間は、確実に増えています。斑とは状況に応じてある時は日本流、ある時は欧米流に解釈するというぶれ方をします。

日本流の儀礼的謝罪の特徴と言うか難点は、とくのその場で謝罪する時には「罪を認める」かどうかの本音を表面に浮上させないところにあります。これをわざとはっきりさせないと言うのが約束事で、後日に「罪があったとき」にその場の謝罪と二重に謝罪として認めると言うのも了解事項です。ただし表面として罪を認めているかどうかが明言されないので、欧米流の解釈を正面からぶつけられるとしばしば難儀な事になります。

会社の事件などで、不特定多数の人間に謝罪する時などは困難性が増していると感じています。日本流のその場の謝罪を行った時に欧米流の解釈をする人間がいれば「罪を認めた」と騒がれます。では欧米流に突っぱねなどしようものなら、多数派の日本流儀の人間から失礼と大顰蹙を買います。これは言葉に書けば同じ「謝罪」の意味が人により大きく異なり、なおかつどちらも解釈が成立する性質を持っているからだと考えています。

先ほど欧米流の解釈を斑に受け入れている人も増えているとしましたが、そういう人の中にはまず当然のように日本流の儀礼的謝罪を要求し、謝罪をしたらしたで今度は欧米流に「罪を認めた」と主張される方も出ています。つまりこれまで身につけてきた儀礼感覚としてまず謝罪をするのは当然であり、謝罪しないのは礼に欠くとして許せない行為になります。ところが謝罪と言う言葉を聞いた瞬間に、儀礼としてより「謝罪」と言う言葉の意味が圧倒的に重くなり、「謝ること=罪を認めること」がストレートに直結します。謝罪する側にすれば極めて厄介な存在ですが、そう考えた本人はどちらも正しい行為であり、どこも間違っていないと確信して行動されます。

これからどうなるかですが、流れとして欧米流解釈が徐々に主流になっていくと考えています。日本流は基本的に儀礼的謝罪の意味を全員が知っていないと成立しないものであり、ドライな欧米流解釈には歯が立たない面があるからです。しかし儀礼的謝罪を礼として要求する動きは当分なくならないと考えています。たとえ欧米流に解釈されようとも礼として謝罪が不可欠であるとの考えです。

まったく矛盾した二つの動きですが、現代の日本では確実に存在します。謝罪する側にすれば非常に困る状態ですが、存在し発生しています。単純にこれを解消するには、その場の謝罪で「これは罪を認めていない」と明言してから変形した日本流の謝罪する事になりますが、そんな事をどうなるか考えただけでゾッとします。「誠意がない」の大合唱が起こりそうです。

言葉って本当に難しいと思います。