強弁を考える

詭弁術の考察というサイトがあり、そこに強弁と詭弁の解説があります。

■強弁とは何か?詭弁との違いは?

 はじめに「詭弁」と「強弁」の違いがどこにあるのか説明します。強弁の意味を広辞苑岩波書店)で調べると「無理に理屈をつけて言い張ること。また言いわけすること」と書いてあります。一方、詭弁は「1、道理に合わぬ弁論。理を非に言いまげる弁論。こじつけの議論。」と書いてあります。詭弁の意味にあるように詭弁には一応「論」があります。つまり詭弁では考え方が間違っているなりに物事の道理を述べているのです。それに対して強弁は「無理に理屈をつける」「言い張る」という部分から、明確な「論」と呼べるほどのものはないことが分かります。要するに考え方を支える部分が弱く、力まかせに強引に正当性を主張することが強弁なのです。

■強弁が使われる場面

 強弁が高い効果を持っていたのは昔のように強い権力者がいた時代です。立場の弱い人は生命や財産の危険から権力者に逆らうことができず、強弁を受け入れるしかなかったのです。しかし、現代の日本では昔のように絶対的権力を持つ人はおらず、権力による強弁が通る場面は少なくなっています。

■小児病

 これは野崎昭弘氏が著書『詭弁論理学』の中で使っている言葉です。子供は自分の主張に確信を持ち、相手の主張が間違っていると感じたら、相手の言うことを一切聞かず、ひたすら言いたいことをしゃべりまくり、時に相手を脅したり泣いたりして自分の主張を通そうとします。こうした行動は大人になるにつれて知識も増え、考え方がしっかりしてくると自然に消えていくものです。ところが、こうした性質を大人になっても引継ぎ、子供と変わらない強弁を振るう人がいます。このような大人のことを同氏は「小児病」と呼んでいるのです。某少年漫画雑誌に掲載されている少年探偵漫画の主人公とは逆のタイプの人間のようですね。強弁の中にはこうした子供の主張となんら変わらないものがあるので、うっかり使わないように気をつけたほうがよさそうです。

なかなかよくまとまっているので解説も要らないかと思うのですが、強弁と詭弁の違いについて、

    詭弁とは考え方の間違った物事の道理を述べる事であり、強弁とは道理部分が薄弱であるのに強引に正当性を主張することである。
つまり詭弁には詭弁なりの理屈があるのですが、強弁になると理屈もヘッタクレもなくなり「オレが正しいと思うから正しい」みたいな弁論法になります。引用部分にも書いてある「小児病」がある意味わかりやすく、
    自分の主張に確信を持ち、相手の主張が間違っていると感じたら、相手の言うことを一切聞かず、ひたすら言いたいことをしゃべりまくり、時に相手を脅したり泣いたりして自分の主張を通そうとする
ここの確信している主張ですが、たんに本人が確信しているだけで道理も何もありません。あくまでも「オレがそう思っている」だけの根拠で、ひたすら強硬にまくし立てる様子と考えてもらえればと思います。

強弁法はもちろん「小児病」みたいな単純なものだけではなく手法で分類すれば、

  1. レッテルを貼る
  2. 相殺法
  3. 二分法
  4. 権威の利用
  5. 脅迫
現実社会や政治の世界でも思い当たる事のある弁論手法です。もちろん現実社会では強弁法一辺倒で押し通す事はなく、これに詭弁法も織り交ぜて使われます。思い当たるものなら前々首相のワンフレーズ・ポリティクスも強弁法の一種かと考えます。「抵抗勢力」というレッテルを貼り、二分法を利用して郵政選挙に大勝したのは記憶に残るところです。この強弁が通ってしまったあたりに前々首相の政治手法のしたたかさが感じられます。

前々首相の手腕にまでなれば「やられた」と言う感じですが、強弁法で押しまくられるとやはり違和感は残ります。強弁法の狙いの一つに強硬に主張することにより、その場では「なんとなく正しそう」の感触を相手に抱かせることです。しかし余ほど巧みな強弁法でない限り、後で思い返してみると「やっぱりおかしい」と気づきます。強弁法の最大の弱点は立脚する道理が非常に脆い点にあります。そこに相手の思考が向かないようにするのが最大のポイントで、相手の目を逸らし続ける工夫と努力が必要です。

質の悪い強弁方は単なる強がりにしか聞こえません。得手勝手、傲慢とすぐに見破られ、強弁法の弱点である脆い道理をすぐに突かれます。弱点を突かれても、なお強弁でカバーしようとするともはや醜態になります。強弁法でも初歩である「小児病」的手法では、既に聞くに値しないものとなります。これはある産婦人科のひとりごと氏が保存してくれていた8/4付の共同通信記事の一部です。記事は福島事件の特集ですが、

  • 事件と裁判の経過から感じたことは。

 「遺族にとって必要なのは、事実関係の率直な説明と謝罪だ。反省と再発防止に真摯(しんし)に取り組む姿勢を医療側が示せば、遺族側は刑事罰を望むような気持ちにならないことが多い。そういう意味では、今回の裁判で、被告側が医療ミスはないと強固に主張し続けたのは残念だ」

まず発言内容そのものについては私は「一切」論評しません。今日のテーマは強弁法ですから、その観点からのみの論評にします。まず冒頭の

    遺族にとって必要なのは、事実関係の率直な説明と謝罪だ
断言も強弁法の一つの手法です。断言する事により道理の脆弱さを補強しようとの手法です。そうですね、強く断言する事により「なぜそうしなければならない」の質問を封じ込めようとする意図と考えて良いかと思います。まず断言する事により「説明と謝罪」とくに「謝罪」が何の解説も無しに、なぜか絶対必要な前提条件に仕立てられています。
    反省と再発防止に真摯(しんし)に取り組む姿勢を医療側が示せば、遺族側は刑事罰を望むような気持ちにならないことが多い
この部分は断言により仕立てられた「謝罪」の前提からの展開です。前提の謝罪を行なえば、遺族の主観で刑事罰を恣意的に運用する事が出来ると話が膨らんでいっています。
    そういう意味では、今回の裁判で、被告側が医療ミスはないと強固に主張し続けたのは残念だ
ここでの「そういう意味」とは、前提として無条件に謝罪するのが当然としている事かと考えます。その展開として謝罪をすれば遺族が恣意的に刑事罰の適用を決められたのに、被告側が「医療ミスはない」と主張するのは言語道断であり「残念」であると結論付けています。薄弱な根拠の道理の基盤の上に独善的かつ強引な決め付けで相手を説得しようとする強弁法である事が分かります。

ここで大事な事はマスコミによる編集が行なわれています。私は間違い無く発言者の真意が捻じ曲げられていると考えます。真意と言うか論理展開としてもよいかと考えます。マスコミの無残な編集により、話のレベルは強弁法の中でももっとも幼稚な「小児病」レベルのものに成り果てています。是非強い抗議を行う事をお勧めします。もともとの話はこんな杜撰なものでなかったのは絶対に間違いないからです。こんな幼稚な強弁による主張をされる知性の方々でないことは誰でも知っています。

このまま放置すれば、発言者の人格・思考法はもとより、所属する会の性格まで疑われるのではないかと危惧します。もっと論理的な秩序だった主張のはずが、子供がダダを踏むような代物に変えられているのは非常に遺憾です。マスコミの編集により手痛い目にあったことは医療関係者の話でも枚挙に暇がありません。無念の心うちは十分に察する事はできます。抗議をしてもマスコミサイドは蛙の面にションベン、馬の耳に念仏状態なのは医師も無数に経験していますが、抗議せずに放置すればさらに増長し、その所業はさらに酷いものに転じます。是非看過せずに粘り強い抗議を行われる事を期待します。