日曜閑話2

今日のお題は「大軍と兵站」です。歴史小説の楽しみ方はいろいろありますが、やはり合戦シーンは大きな山場です。パターンは幾つかあって、圧倒的な敵の大軍を少数の手勢で引っ掻き回して翻弄するのも痛快ですが、名将が大軍を両者が率いて雌雄を決するのもワクワクさせられます。前者の典型は楠木正成でしょうし、後者の典型は川中島の合戦でしょう。

この大軍の数がどれほどであったかです。合戦に臨む軍勢の数は基本的に最高機密です。軍記物には人数がしばしば書かれていますが、自ら呼称する時は出来る限り水増しして言い触らします。わざと自軍の数を少なく言い触らして戦い望む武将は極めて稀と言ってもよいと思います。そんな事をすれば通常は合戦どころでなくなってしまうからです。

軍勢に参加するのは武士です。武士と言っても指す範囲が時代によりかなり変るのですが、戦国前期ぐらいまでは最小の戦闘単位は小領主でした。小領主は一つの村ぐらいを支配する勢力で、自分の力だけでは領地を防衛しきれないので、地縁血縁により攻守同盟を結びます。攻守同盟のメンバーの中で比較的大きなところ、または有能な者、または家柄などによりリーダーすなわち旗頭とされるものが立てられます。同盟員は同盟者の防衛や利害について旗頭の命令に従う関係になります。

さらにその同盟は他の同盟との抗争に際し、さらに大きな同盟を結び、同盟間のさらに盟主を立てることになります。その繰り返しの関係でイザという時に軍勢が駆り集められるのが基本的なシステムです。ここで注意して欲しいのは最小単位の小領主と盟主の関係は主従ではありません。江戸期のように○○家の家来と言う関係ではないのです。あくまでも小領主は自律した存在であるのが特徴です。

たとえてみると江戸期の大名は大きな会社のようなもので、従業員は会社(大名)に忠誠を尽くします。ところが戦国期以前となればは商店連合会みたいなものと考えればよいと思います。どこかが一番違うかといえば、旗色が悪くなれば最小単位の小領主であっても容易に寝返ると言うことで、盟主たるもの自分の同盟者がどれぐらい裏切るかとか、相手の同盟からどれぐらい裏切りが出るかを常に計算しながら行動していたと言う事です。

先ほど合戦に臨む時にはできるだけ自分の軍勢を大きく宣伝するとしましたが、大きくしておかないと軍勢が集まらないからです。合戦に勝利する一番単純な要因は軍勢の多さです。「数が多いほうが勝つ」と言う極めて単純な法則は武士にとって常識以前の鉄則で、両軍の差がある程度以上開くと、雪崩を打って多いほうに集まります。これには裏切りも、日和見も含まれます。

もう一つの特徴は盟主の領地は必ずしも大きくない事です。比較的には他の同盟者より大きいにしろ、大同盟の盟主といえども自前の戦力はそんなに大きくありません。あうくまでも同盟や連合する勢力の長であるだけで、自分の領地のみを広げることに腐心すれば、味方の小領主の信望を失い離反されてしまう関係にあります。

そういう小領主の同盟や連合体の筆頭とされたのが「武家の棟梁」です。棟梁とは上手い表現で、有能な棟梁の下に自然に職人が集まる様子をよく表しています。武家の棟梁として有名なのは源氏と平家で、ほぼ全国を二分して武士の支持を集め、No.1決定戦をやったのが源平合戦であると言う見方も可能です。

源平合戦でも軍勢の数は随所に書かれています。源平合戦での軍勢の数え方は「騎」です。「騎」とは騎馬武者のことですが、軍勢を数える時には最小単位である小領主の軍勢であると考えると良いと思います。小領主は馬に乗り、徒歩の手勢を率いて合戦に参加します。つまり馬に乗った小領主と率いた手勢が「騎」であり、小領主の数を○○騎と数える事になります。イメージとしては小隊みたいな物でしょうか。では一騎に何人の従者と言うか家来がいたかは小領主の勢力によります。5〜30人とされる事が多いのですが、ここでは10人としておきます。そうなると人数の概算として10騎となれば100人ぐらい、100騎と言えば1000人ぐらいになってきます。

源平合戦でも兵力が書かれている個所が幾つかあります。源平に対して陸奥で第三勢力を堅持していた藤原氏は「奥州17万騎」と畏怖されていました。また富士川の合戦では源氏が5万騎とも18万騎とも書かれています。また一の谷の合戦では、範頼が大手軍5万6千余騎を、義経が搦手軍1万騎とも書かれています。そうなると源氏の動員兵力は富士川で50万とか180万、一の谷でも60万以上の大軍を動員した事になります。関が原も真っ青の大軍です。

この軍勢の数に関しては水増しももちろんありますが、後世にドンドンかさ上げされたのはほぼ間違いありません。源平合戦を伝えたのは琵琶法師や講釈師ですが、彼らも話をする上で軍勢の数が多いほうが話が盛り上がりますし、語る時の時代で大軍の概念自体が変ります。江戸期の大軍の概念は関が原や大坂の陣で、その時には実際に10万以上の大軍が動員されています。そうばれば源平時代だって、それぐらいの大軍が戦ってもおかしくはなかろうの発想です。

ところで軍勢のと言うのはどれぐらい動員できるんだろうかの問題があります。これもまた答えが出難い問題ですが、参考になるデータはあります。明治の日本は徴兵制を敷き、日露戦争を戦い抜きました。奉天会戦の頃には40歳以上の予備役まで動員されていますが、この時の総動員兵力が108万とされています。日露戦争が始まったのが1905年で当時の人口が4400万人ほどです。そうなると全人口約2.5%になります。

では源平時代の人口がどれぐらいになりますが、平安時代末期で約680万人とされます。男女同数として、男性が340万人。富士川でもし18万騎(180万人)も源氏が集めたのなら、当時の成人男子の約半分が源氏方にいた事になり、水鳥の音が無くても平家は逃げ出します。奥州17万騎も同様で、170万人もの軍勢を藤原氏が抱えていたら、源氏と平家が束になっても勝負になりません。

では富士川の源氏勢を18万騎ではなく5万騎とし、なおかつ「一騎」を「一人」としたらどうでしょう。つまり源氏は富士川に5万の大軍を集められるかです。源氏側の兵力動員地域はもちろん関東です。東北は藤原氏ががっちり抑えていますから当てに出来ません。当時の関東にどれほどの人口があったかですが、これもデータはあり約160万人とされます。日露戦争方式で動員数を考えれば4万人は動員可能ですから、根こそぎ動員すれば5万人に近い数は不可能ではありません。5万騎を5万人とし、さらに5万が2倍の水増しをしていると仮定すれば2.5万人、関東の動員能力の62.5%を富士川に集めれば数字上は可能です。

問題は2.5万と言え、これの兵站をどうしたかです。日本の合戦の一つの特徴は占領地の略奪を基本的に行わなかった事です。もちろんゼロではありませんし、そこそこはしていましたが、原則は自前で食料を調達し戦うです。現地調達を行なうにしても、それなりの代価を支払って求めていたと言うことです。これについては、日本の合戦の根本原則は領地の奪い合いであり、奪って取った領地は自前の領地になるので、略奪を行なって反感を買ったり、疲弊させると損だと考えていたからだとあります。

そうなると地盤の関東から富士川まで自前で食糧を運ばなければなりません。さらに現地調達と言っても2.5万人の調達は当時の生産能力らして容易でありません。富士川での勝利後、頼朝がそのまま京都を目指さなかったのは諸説ありますが、一つには集まりすぎた大軍を食わせながら京都まで進軍する目途が立たなかったのも一因かと考えています。富士川の頃の農業事情もある程度分かっており、西国は飢饉だったとされます。頼朝が富士川の勢いで西上しても、遠征の源氏軍は食糧調達に困り、引き返さざるを得なくなるとリアリストとして知られる頼朝が判断してもおかしくありません。

兵站と大軍を考えると一の谷の合戦時の源氏軍も謎です。源氏軍は総勢7万6000騎、これが7万6000人のさらに半分の3万程度であったにしても兵站面からすれば、途轍もない大軍です。宇治川の合戦で義仲を破って近畿の覇権を握っていたにしろ、主力は関東軍であり根拠地は関東です。そこから考えると平家の戦略は兵站面からは優れているとも考えます。一の谷の平家軍の兵力は分かりませんが、源氏に近い勢力でなかったかと考えられています。

しかし平家軍の兵糧輸送は源氏に較べると遥かに容易です。一の谷は南が海であり、制海権は平家がガッチリ握っていました。当時であっても船による海上輸送と、荷駄による陸上輸送では、輸送量で比べ物になりません。おそらく平家の大戦略は一の谷に源氏の大軍を引き寄せて持久戦を行い、源氏側の食糧補給の不足を待つ戦略であったと考えています。一の谷の陣地は堅固であり、兵站面の不安が無ければ長期戦は容易です。

一の谷の事は前にも調べた事はあるのですが、戦略面では絶対平家優勢です。源平合戦では常に間抜けな役回りに書かれている平家ですが、一の谷の戦略はまさにどこを突いても穴がない完璧なものであると感じてします。しかし歴史は平家に微笑みませんでした。戦略的には平家の罠にかかり必敗状態の源氏ですが、ここに世界史的に見ても稀有な天才戦術家を源氏に登場させます。言うまでも無く義経です。

義経の天才が生み出した鵯越の逆落としの奇襲により平家の必勝戦略は脆くも崩れ去ります。これは「戦略の失敗は戦術では取り戻せない」の鉄則を覆した非常に珍しい例ではないかと考えています。

もう一つまとまりの悪いお話でしたが、今日はこれで休題にさせて頂きます。