日曜閑話

3周年の目標の「休日は休むか、話題を変える」に則って、お気楽な話題をさせて頂きます。もし医療崩壊ブログを探して来られた方は、今日はお休みですので悪しからず。

世の中には歴史嫌いの方が少なくありません。おそらくですが、中高の歴史授業とテストでのトラウマが反映されているためと考えています。歴史もまたある程度の基礎知識を覚えるまでは無味乾燥な暗記科目になりますから、気持ちは分からないでもありません。それでも私は大好きです。嫌いにならなかった理由は単純で中高の歴史・地理に何の苦労もしなかったからです。苦労どころか勉強した記憶さえ殆んどありません。当時の教科書レベルの内容なら全部知っていたので、そういう意味ではつまらなかったとは言えますけどね。

ですから歴史ネタをブログに書きたくて仕方なかったのですが、ブログがああいう流れになってしまい、到底触れる事が出来なくなってしまったのは寂しいというか、辛いというか、埋め草記事を使う手を封じられていたと言う感じでしょうか。久しぶりに書く事が出来て妙にワクワクしています。ただワクワクするのは良いのですが、読者が増えた関係でたとえば天漢日乗氏のように本職の方もおられると思うと、これはこれでプレッシャーです。あくまでも素人の歴史好きの与太話と思ってください。

今日のお題は「大和」、戦艦じゃなく国名としての「やまと」です。なぜ「大和」を「やまと」と読むかについて諸説あるようです。通説では「やまと」は「山門」であり、山の麓の地域を指す言葉で、そこの勢力が政権を握ったので「やまと」と訓み下すとあります。とくに古代で「やまと」は三輪山の麓の地域を指して呼んでいた説もあり、古代から続く三輪山信仰と結びついて一つの説となっています。

それと字としての「大和」の由来も複雑で、奈良朝以前は国名を「倭」としていたとされます。これもよく分からないのですが、聖徳太子が隋の煬帝小野妹子を送った頃には漠然と「日本」と名乗っていると考えていましたが、はたしてどうなんでしょうか。日本の語源自体がこれもまた不明な部分が多く、奈良朝になってから「日本」は使われていた形跡は日本書紀から推測はされますが、読みはそれでも「やまと」であったとされます。

「大和」は「倭」が「大倭」になり、さらに「倭」が「和」に置き換えられた事は大宝律令で確認されるとされます。「倭」が「大倭」になったのは分かりやすく、中国の国号を習ってのものと考えれば自然です。中国王朝の名前は一般に「唐」とか「明」とか「清」と言いますが、あれは正式には「大唐」であり「大明」であり「大清」です。「大」は国の美称みたいなもので、当時の日本も国名の「倭」の上に嬉しそうに「大」を付けたと考えてよいでしょう。

「倭」が「和」に変わった理由も難しくなく、古代中国は周辺の蛮族(日本も当然含む)の国の名前に卑しい字を用いており、「倭」と言う文字も矮小の「矮」から取られているとされます。これも「にんべん」が使われているだけマシという考え方や、国号を一字にしているのが異例と言う見方もあるそうです。それでも、それまで嬉しそうに使っていた「倭」に、そんな意味が込められたのを知って変更したとするのはおかしくありません。えらく遅く気がついたような気もしますが、当時の情報と言うか知識の伝達スピードはそんなものだったのかもしれません。

結局のところ国号は日本語の読みとしての「やまと」が元々あり、そこに中国人が付けた漢字の国号である「倭」が後から来て、「倭」を「やまと」と読み、「倭」が「大倭」になっても「やまと」と読み、さらに「大倭」が「大和」になっても「やまと」と読んだと考えるのが通説のようです。

ところで何故古代中国人が日本の国名を「倭」としたかです。中国人が蛮族であっても国号をつける時は、卑しい文字は使いましたが原則として現地の発音を漢字で当てはめます。それでもって大問題なのは古代中国人が「倭」をなんと読んでいたかです。一般には「わ」と読んでいたとされますが、どこかで違うという説を読んだことがあります。ここも私の知識では確認しようがないのですが、「わ」と読んだととりあえずしておきます。

ではなぜ国の名前が「わ」なのかですが、当時の国と言っても小さな集落の塊ですが、集落は自衛のために周囲に柵を張り巡らしていたようです。柵は集落の周囲をぐるりと取り囲んでおり、これを当時の日本人は「輪」すなわち「わ」と読んでいたとされます。古代中国人が国名を付ける時に通訳を介して行なわれたとは思いますが、「この国は名前は?」と言う質問に、国と言う概念に乏しい日本人が「ここは『わ』である」と答え、これに「倭」と言う字が当てはめられたと言う説があります。

これも説だけ聞けば説得力がありますが、古代中国人が「倭」を「わ」と発音したのか、古代日本語が「輪」を「わ」と発音したのかに疑問が残る説です。今でも方言の強いところは同じ日本語であっても聞き取り難いところがありますし、江戸期でさえ方言が違えば言葉が通じない事は多々あったとされます。もちろん聞き取り能力の問題もありますし、通訳の能力の問題も十分に考えられます。


閑話なので話がブンブン飛びますが、あくまでも個人的に大和に全然違う意味があるのではないかと考えています。もちろん「大倭」から「大和」になったのは資料的に裏付けがあるので単なる与太話になりますが、そういう遊び心が歴史を楽しめるところです。

古代日本人が「和」という言葉を尊んだのは十七条憲法を見ればわかります。一般的に「和」とは和やかにしようぐらいで今は考えますが、当時の「和」の意味はもっと広く重い概念であったのではないかと考えています。言ってみれば国そのもみたいな概念や、国民とか、国の精神やルールみたいなものをすべて含んでいる感じで、「和」と言う言葉一つで、古代日本人なら大和王朝すべてを象徴するような重みがあったんじゃないかと考えています。

「和」と言うより概念的には「わ」で、当初はこれに「倭」という文字をあてはめ、さらに「和」に変更されたという考え方です。漢字は輸入語ですから、本来の漢字の持つ意味とゴッチャになりますが、「わ」ないし当時「わ」と発音していた言葉は非常に尊貴な言葉として用いられていた可能性です。「わ」の上に「大」がついたのは中国文化のもちろん影響で、「大」は美称の概念がありますから、「大わ」は「わ」をもっと尊んだ表現と考えます。

通説は古代中国人が付けた国名説であり、当初「倭」を使ったのはそのためで良いと考えます。ただこれは国号ではなく、国号の美称ではないかと考えています。つまり本来は「大『わ』なる『やまと』」でなかったかと言うことです。「わ」は「倭」から「和」に変わっていますが、「やまと」と言う国号を褒め称えての用法でなかったかと考えています。

「大『わ』なる『やまと』」が「大和」だけで「やまと」になったかですが、類似例があります。皆様「飛鳥」なる地名をご存知かと思います。あの字はどうしたって「あすか」とは読めません。ではなぜ「あすか」と読むかといえば、元々は「あすか」の地名に美称を被せて「『飛ぶ鳥』の『あすか』」としていたからです。それが美称の「飛ぶ鳥」だけで「あすか」と読むようになり、今では「飛鳥」だけで「あすか」と読むようになっています。

御静聴ありがとうございました。本日は以上を持って休題とさせて頂きます。