30分ルール

神奈川帝王切開賠償訴訟で猛威を振るった「30分ルール」ですが、まず判決文も引用した日本産科婦人科学会産婦人科医療提供体制検討委員会の平成19年4月12日付け最終報告書「わが国の産婦人科医療の将来像とそれを達成するためめ具体策の提言」から、

緊急時の体制の整備:多様な分娩施設を許容しつつ安全性を確保するために、分娩を取り扱うすべての施設で、急変時に迅速に帝王切開を含む急速遂娩による児の娩出が可能な体制の整備を行っていく。すべての分娩施設には緊急時の体制に関する情報公開が求められる。努力目標としては30分以内に帝王切開が可能な体制を目指していくが、その達成には産婦人科だけでなく麻酔科、手術室の体制を含む施設全体の対応が必要である。

  1. 必要な人的整備及び施設整備を目的とした公的補助が地域分娩施設群に対して行われるべきである。
  2. 地域分娩施設群を構成する施設間の連携により緊急時の体制が整備された場合は、診療報酬の面で優遇措置がとられるべきである。

誰がどう読んでも明らかに

    努力目標
こう書いてあり、決して「当然の義務」ではありません。もちろん努力目標と言っても2種類あり、
  1. 現段階ではほとんど出来ていないが「いつか」はそうしたいと言う目標
  2. それなりに達成しているがすべてがそうなるにはまだ時間がかかる目標
どちらの状態であっても本来は訴訟の目安に用いるのは適切でないと考えますが、用いるなら最低限2.に近い状態でないと問題が残ると考えます。ましてや1.の状態であるなら「机上の空論」の謗りを免れ得ないものであるとも見なされます。

現状を調査した資料が必要なんですが、僻地の産科医様のコメントにある「緊急帝王切開術に要する時間の実態一大阪府下病院調査より−」(産婦人科治療 2007 vol.94 No.2 p197-200)から引用しますが、

 回答は、アンケートを送付した71施設中56施設から回答を得た.回答率は,78.9%であり,その内訳は公立(準じるものを含む)18施設,私立33施設であり、大学附属病院では5施設すべてから回答を得た.
 表2に全56施設における良・悪両条件下での緊急帝王切開執力に要する想定時間をまとめた.回答を得た大阪府下56施設のなかでは、すべての時間帯において所謂“30分ルール”を担保できる施設は.わずかに2施設しかないことが明らかとなった(表2).各設立主体別の検討では,明らかな差はみられなかったが,一部の大規模総合病院で,平日日勤帯の悪条件下での遅延が特徴的であった.
 良・悪両条件下での緊急帝王切開執刀に要する想定時間に関して,施設の年間取扱い件数との関係について,表3にその平均点をまとめた.
また、その特徴を如実に現している年間分娩数1,000件以上の10施設と201〜400件の13施設について、アンケートの結果を比較して、表4〜5にまとめた.明らかに,分娩数の多い施設において,緊急帝王切開実施に要する時間が短いことが判る.

表2が気になるところですが、この統計は二つの条件下での集計になっています。

まず好条件下、

時間帯 〜30分 〜1時間 〜2時間 〜4時間 4時間〜
平日日勤 39(69.6%) 16(28.6%) 1(1.8%) 0(0.0%) 0(0.0%)
平日夜勤 19(33.9%) 29(51.8%) 8(14.3%) 0(0.0%) 0(0.0%)
休日日勤 21(37.5%) 28(50.0%) 6(10.7%) 1(1.8%) 0(0.0%)
休日夜勤 19(33.9%) 29(51.8%) 6(10.7%) 2(3.6%) 0(0.0%)


次に悪条件下、

時間帯 〜30分 〜1時間 〜2時間 〜4時間 4時間〜
平日日勤 6(10.7%) 26(46.4%) 18(32.1%) 3(5.4%) 3(5.4%)
平日夜勤 3(5.4%) 14(25.0%) 31(55.4%) 8(14.3%) 0(0.0%)
休日日勤 2(3.6%) 16(28.6%) 28(50.0%) 8(14.3%) 2(3.6%)
休日夜勤 2(3.6%) 14(25.0%) 30(53.6%) 8(14.3%) 2(3.6%)


最高は好条件下の平日日勤で69.6%ですが、好条件であっても夜勤や休日になると半減します。これが悪条件下となると一遍に数字が悪くなり、平日日勤であってもやっと10.7%、それ以外ではさらに激減し、平日夜勤でも3施設、休日となるとたった2施設しか対応できません。個人的には2施設「も」いかなる悪条件下でも「30分ルール」を遂行できることに驚異を覚えます。

大阪の産科事情の評価は難しいところですが、飛びぬけて悪いところではありません。日本の産科事情そのものが「良いどころか、普通のところさえ無い」状態なので、システムが整っているという点で悪い中でも「マシ」な方の評価も可能なところです。そこでやっとこさこの程度の成績です。好条件下の平日夜勤や休日のでも、ようやく1/3程度が「30%ルール」に対応できているぐらいで、条件が悪くなれば本当に運良く2施設で入院治療中であれば「30分ルール」で治療できる程度です。現状で言えば悪条件下なら「1時間ルール」でも厳しく「2時間ルール」ならなんとか程度と考えられます。

ちなみに「30分ルール」「1時間ルール」「2時間ルール」にして悪条件下で達成率に組みなおしてみると、

時間帯 30分ルール 1時間ルール 2時間ルール
平日日勤 6(10.7%) 32(57.1%) 50(89.3%)
平日夜勤 3(5.4%) 17(30.4%) 48(85.7%)
休日日勤 2(3.6%) 18(32.1%) 46(82.1%)
休日夜勤 2(3.6%) 16(28.6%) 46(82.1%)


現実的には「30分ルール」どころか「1時間ルール」でも平日日勤でようやく約60%、それ以外の平日夜勤および休日となると約30%になります。達成可能が夢ではないのやはりせいぜい「2時間ルール」で精一杯と言うのがわかります。

それでもって判決が重視した30分ルールですが、これについての産科関係者の意見を紹介しておきたいと思います。事情があって著者や引用元を記せませんが、相当有力な産科医の意見とだけしておきます。

いわゆる「30 分ルール」の存在がある。そのような基準ないしガイドラインはわが国には存在しない。これは米国での議論が不完全な形で輸入されたものである。以下のその事情を述べる。American Academy of Pediatrics(アメリカ小児科学会) とAmerican College of Obstenicians and Gynecologists(アメリ産婦人科学会) が2002年に発行した書籍であるGuidelines for perinatal care(周産期ケアのガイドライン) にはいわゆる"30-minites rule" 「30分のルール」が記載されている。これは、分娩取り扱い施設に対し、帝王切開術の決定から施行まで30分以内で行うことが可能な能力を求めるものである。「分娩を取り扱うすべての病院は緊急帝王切開術が実施可能であるべきである。看護師、麻酔担当者、新生児蘇生チームのメンバー、産科医を含む必要な人員が院内にいるか、すぐに対応できる状態にあるべきである。産科医療を供給する病院はすべて産科救急への対応能力をもっているべきである。

 処置のタイミングとその結果の関係に関ずるデータは存在しないし、今後も得られる可能性はほとんどないが、一般に、病院は帝王切開実施の決定から手術を開始するまで30分以内に行う能力を有しているべきであるというのがコンセンサスとなっている。帝王切開術の適応の中には、30分以上の余裕が十分にあるものもあるが、逆に前置胎盤の出血、常位胎盤早期剥離、臍帯脱出、子宮破裂等のようにより迅速な児娩出が必要な可能性のあるものも含まれている。」(Guidelines for perinatal care p146-147)

 しかし、これには多くの異論がある。全く同一の団体が発行している別の図書には以下のような記載がある。「この時間制限は、病院の産科病棟が迅速に麻酔、手術室、看護師、産科医、新生児蘇生術などを提供できる能力を持っことが望ましいとの意図をもって決められた暫定的で任意的なものである。臍帯脱出や子宮破裂のような一定の状態ではできるだけ迅速に帝切がなされなければならない。しかし分娩誘発の失敗、会娩進行停止などのある種の状態に対しても同様に30分以内に帝切をすることは必ずしも必要ではなく、また望ましいことでもない。」(Anlerican Clollege of Obstctricians and Gynecologists, American Academy of Pediatrics,2003:Neonatal Encephalopaty and Cerebral Plasy p,35。

 帝王切開を決定してから児を娩出するまでに要ずる時間として、30分以内という数値が示されているが、それはあくまでも目安である。この30分という数値は「標準的な時間」として示されているわけではなく、現状では一般の分娩取り扱い施設においては努力目標と考えるべきである。

要は輸入元と考えられるアメリカでさえ必ずしも誰もが無条件で認めるルールではなく、あくまでも「努力目標」であるという事です。

さらに日本で公的通達で「30分ルール」的なものが初めて見られたのは平成15年4月21日付けで各都道府県知事あてに厚生労働省雇用均等・児童家庭局長が出した「周産期医療対策整備事業の実施について」という文書において、「周産期医療対策事業実施要綱」が示され、そこの「周産期医療システム整備指針」の中に、緊急帝王切開に対する対応として、この地域周産期母子医療センターに望まれている要件となります。そこには、

産科については、帝王切開術が必要な場合30分以内に児の娩出が可能となるような医師及びその他の各種職員… を配置するよう努めることが望ましい。

これは平成19年7月20日付医政指発第0720001号「疾病又は事業ごとの医療体制について」にも受け継がれ、地域周産期母子医療センターの項目に、

(エ)医療従事者

以下の医療従事者を配置するよう努めることが望ましい。

a 産科及び小児科(新生児診療を担当するもの)は、それぞれ24時間体制を確保するために必要な職員
b 産科については、帝王切開術が必要な場合30分以内に児の娩出が可能となるような医師及びその他の各種職員
c 新生児病室には、以下の職員

(a)24時間体制で小児科を担当する医師が勤務していること。
(b)新生児集中治療管理室には、常時3床に1名の看護師が勤務していること。
(c)後方病室には、常時8床に1名の看護師が勤務していること。

この通達は今春に策定される地域医療計画に「反映せよ」との通達でありここでも、

    以下の医療従事者を配置するよう努めることが望ましい。
ここでもまだ「努力目標」に留めて置かれます。そりゃそうで、そんな人員も予算も逆さに振っても出て来ません。現在の産科事情は「30分ルール」の達成を競うなんて夢のまた夢で、産科救急をなんとか受け入れるレベルも越え、どうやったら分娩機能を維持できるかレベルか、さもなくば産科と言う診療科が存続できるかのレベルです。

些細な事ですが「30分ルール」が仮に可能としてもそれはあくまでも入院中の患者に限られます。搬送が行なわれた時点でほぼ達成不可能になります。搬送もまだ搬送元が「緊急帝王切開手術が間違い無く必要」と判断可能で、なおかつそれが信用できる施設からのものであれば、搬送時間さえ短ければ可能ですが、そこまで信頼できる搬送元(全然信頼できない搬送元もある意味該当するのが産科の怖いところですが・・・)でなかったり、搬送元段階の情報が不確かであれば絶対無理です。

それと産科が危機的なのは言うまでもありませんが、緊急帝王切開に必要とされる他の診療科の医師の確保も容易ではありません。普通に考えて小児科医とくに新生児を十分扱える小児科医と、産科麻酔をこなせる麻酔科医が必要です。どちらも危機的不足なのは言うまでもない診療科で、医療危機が叫ばれる中、もっとも脆弱とされる診療科の連合軍を結成しなければなりません。とくに麻酔科の危機進行は半端じゃありませんから、常に緊急帝王切開のために30分以内に呼集される産科施設に魅力を感じるか疑問です。無理してそんなところに勤めなくても、それこそ他に働き口は幾らでもある世界です。

文面は努力目標である事を明記してありますが、そんな事は無視して、「これこそ医療の基準」と心証で断定してしまう司法に根拠を与えた、日本産婦人科学会の最終報告書は大失敗であったように感じてなりません。これを教訓にして各学会におかれましては「努力目標」であっても、「達成不可能」もしくは現時点では殆んどの施設が「未達成」の事柄については報告書、ガイドラインの類に記載されないようにお願いしたいと思います。

どうしても書く必要があるならば「努力目標」などと言う曖昧な表現は避けて頂き、「夢想の世界」であるとか「来世紀への目標」とか「見果てぬ夢」の様に明瞭に「今では絶対無理だ」との表現が裁判官でも理解できるようにしてもらいたいと思います。