10.20特別企画

今日が何ゆえ特別企画なのは知っている人は知っているにしておきます。本当の意味はどうでも良いのですが、先日グランプリライダーの阿部典史の死亡が報じられました。最近ではかなりレベルも上ったようですが、かつての二輪レース界は世界レベルに程遠いものがありました。その遠さは日本サッカーにとって、ワールドカップが別世界の話であったのに似ています。

私の青春時代もそうで「バイクに乗る=暴走族」の単純構図が全国に蔓延しており、二輪レースなど暴走族の塊の偏見さえあったとも言えます。世界一の二輪車生産国であるのに、一方で世界一バイクに偏見がある国であったのです。当然のように優秀なレーサーもなかなか育たず、世界の檜舞台で活躍するレーサーなど輩出しようがなかったのです。

二輪レースの最高峰と呼ばれたGP500の優勝者も金谷秀夫(1945年生)、片山敬済(1951年生)、岡田忠之(1967年生)、阿部典史(1975年生)の4人に過ぎません。もっとも2002年からGP500も制度が変わり、2ストローク500cc以下、4ストローク990cc以下のレース専用車両で競われるMotoGPになっているので、そこでの優勝者である宇川徹(1973年生)、玉田誠(1976年生)も加えておいた方が良いでしょう。

優勝者の生年をよく見て欲しいのですが、片山敬済から岡田忠之まで16年の空白があります。さすがに金谷秀夫は私にとっても神話時代のお話になりますが、片山敬済の時代も孤高のGPライダーです。当時片山以外にGPを転戦していた日本人ライダーがいたかどうかも疑問視される時代で、片山の後も少なくとも10年単位でいたかどうかも分かりません。250ccクラス以下ならいたかもしれませんが、500ccにはおそらくいなかったんじゃないかと推測します。いてもせいぜいスポット参戦程度だったと思います。

それぐらい日本のWGPに関心の低い時代に、歴史に残る名勝負が行なわれています。この名勝負を下敷きにした漫画が「バリバリ伝説」で、読んだことのある人間なら良く御存知のように、主人公の巨摩郡フレディ・スペンサーになぞられ、ライバルのラルフ・アンダーソンがケニー・ロバーツになぞられているのは有名です。「バリバリ伝説」でも巨摩とラルフは火花を散らすバトルを繰り返していますが、下敷きの'83 WGPはそれ以上の名勝負が行なわれています。

世の中には熱狂的な片山敬済ファンがおられ、なぜこのシーズンのダッチTTの話を入れないんだと抗議もありましたが、片山の話を入れる必要のないほど濃密な絵に描いたようなシーズンであり、それこそ漫画でもこれほどあざとい設定が出来ないほどの実話なのです。それと旧作なので時代とともに少し記録が変わっている部分もありますが、その辺はご容赦ください。

特別企画をゆっくりお楽しみください。


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'83 WGP。20年以上の歳月が流れたにもかかわらず、このシーズンを見、知っている者は、その後いかなる名ライダーがサーキットを駆け抜け、名勝負を行おうとも決して'83より上に置く事をしません。レース界の巨星として君臨した不滅の王者と、彗星の如く現れ激しく煌いた不世出の天才ライダーの火花を散らす激闘の物語は、見る者、知る者にそれほどの衝撃をもたらしたのでした。

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ホンダの総帥、本田宗一郎

本田宗一郎の決意

物語の序章は遥か'54までさかのぼる事になります。それはある男の決意によりすべてが始まります。その男の名は本田宗一郎、言わずとしれたホンダの総帥です。彼が若き頃よりレースに抱き続けた夢、情熱を実現すべく大号令の檄を飛ばします。

「絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到る!。明年こそはTTレースに出場せんとの決意をここに固めたのである。

此のレースには未だ會つて国産車を以て日本人が出場した事はないが、レースの覇者は勿論、車が無事故で完走できればそれだけで優秀車として全世界に喧傳される。従つて此の名声により、輸出量が決定すると云われる位で、独・英・伊・仏の各大メーカー共、その準備に全力を集中するのである。

私は此のレースに250cc(中級車)のレーサーを製作し、吾が本田技研の代表として全世界の檜舞台へ出場させる。

全從業員諸君!本田技研の全力を結集して栄冠を勝ちとろう、本田技研の將來は一にかかつて諸君の双肩にある。ほとばしる情熱を傾けて如何なる困苦にも耐え、緻密な作業研究に諸君自らの道を貫徹して欲しい。本田技研の飛躍は諸君の人間的成長であり、諸君の成長は吾が本田技研の将来を約束するものである。

日本の機械工業の眞價を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。

ここに私の決意を披歴し、TTレースに出場、優勝するために、精魂を傾けて創意工夫に努力することを諸君と共に誓う」

檄文中のTTレースとはマン島TTレース(Tourist Trophy Race)を指します。もちろんこのレースだけではなく、いわゆる世界グランプリ(WGP:World Grand Prix)に参加しこれを制覇するのが目標ですが、わざわざマン島のレースを名指しであげたのはこのレースが自動車の耐久レースのルマンに匹敵する権威と敬意を払われるレースだったからです。

'50年代マン島レースの様子檄から5年、'59ついにホンダワークスはマン島の地を踏みます。初体験尽くしの初の海外レースでしたが、125ccクラスに参加し6位、7位、8位、11位と堂々の入賞を果たし、'60からは本格的にWGPに参戦、'61には125ccと250ccクラスで優勝、'66には500cc、350cc、250cc、125cc、50ccの全クラス制覇を成し遂げます。まさに世界一のバイクメーカーとしてのブランドを樹立した瞬間と言えます。

一方でホンダの活躍に刺激されたのがヤマハ、スズキ、カワサキの国内有力メーカーです。ホンダごときに後れを取るものかとWGPを始めとする海外レースへの積極参加を打ち出していきます。スズキが'60にマン島デビューしたあと、'61からスズキ、ヤマハWGP本格参戦、'65からはカワサキWGP参戦を果たします。

こうして60年代の日本車黄金時代がやってきます。いつの時代もそうなんですが、日本が強くなりすぎると日本を締め出すための新しいルールが作られるのですが、この時もまたそうで、強引なレギュレーションの変更が行われ、'69にはすべての日本メーカーは撤退してしまいます。栄光の'60年代の記録をまとめておきます。


Year 500 350 250 125 50
'60 MV Agusta MV Agusta MV Agusta MV Agusta *
'61 MV Agusta MV Agusta Honda Honda *
'62 MV Agusta Honda Honda Honda Suzuki
'63 MV Agusta Honda Honda Suzuki Suzuki
'64 MV Agusta Honda Yamaha Honda Suzuki
'65 MV Agusta Honda Yamaha Suzuki Honda
'66 Honda Honda Honda Honda Honda
'67 MV Agusta Honda Honda Yamaha Suzuki
'68 MV Agusta MV Agusta Yamaha Yamaha Suzuki
'69 MV Agusta MV Agusta Benelli Kawasaki Derbi

舞台は500ccに

表が示すとおりで500ccをのぞいて根こそぎ日本車がタイトルを制覇していた状況がよく分かると思います。撤退を余儀なくされた日本車ですが、レースの成績を見ても分かるとおり強い日本車の中でもホンダの成績が頭抜けており、他社はその引き立て役に甘んじた思いが強かったと思います。とくにヤマハ、スズキにその思いが強く、ホンダですら一度しか獲得できなかったWGPの最高峰レース500ccクラスを制覇することで'60年代の劣勢を一挙に盛り返そうと虎視眈々と失地回復のチャンスをうかがっていました。

その頃のエンジンの主流は4ストロークで、レーシングマシーンのエンジンは4ストロークであるという不文律さえあった観がありました。'60年代でもわずかにスズキが50ccと125ccクラスで2ストロークで足跡を残したぐらいで、当時の常識ではエンジンは4ストロークでした。

'73にヤマハがYZR500 OW20で、続いて'74にスズキがRG500でいずれも2ストロークマシーンでWGP 500に参戦します。'74にはホンダ撤退以後、7年連続優勝を誇っていたMV Agustaを破りヤマハが初制覇、この年は日本車にとって記念にしても良い年で、以後現代に至るまで500ccでは日本車以外の優勝を許していません。

翌'75もYZR500 OW23で連覇を果たしたヤマハでしたが、'76からはスズキがRG500で無敵の快進撃をつづけることになります。打倒スズキ、打倒RG500に執念を燃やすヤマハワークスが'78に作り上げたマシーンがYZR500 OW35Kであり、アメリカから呼び寄せた切り札のライダーこそ、いまや伝説となった「キング・ケニー」ことケニー・ロバーツでした。

「王者」ケニーロバーツ (YZR500)

「不滅の王者」キング・ケニー

彼はアメリカの国内レースのAMAレース(ダートとロードを組み合わせたようなレース)で主に活躍し、アメリカ国内ではすでに敵無しの状態でした。彼の王者の敬称はすでにアメリカ在住中からつけられ、キング・ケニーにヤマハはスズキからの王座奪還の使命を託すことになります。

彼のライディング・フォームはそれを見た人すべてが「世界一美しいライディング・フォームである」と絶賛したそうです。さらに単に美しいだけではなく、時代を刷新するような新しいフォームをWGPに持ち込む事になります。

オートバイレースでもっとも重要なポイントはいかに素早いコーナリングを行うかにかかっています。つまりいかに減速せずにカーブに突入し、いかに小さな回転半径で回りきり、いかに素早く加速するかです。彼がWGPに持ち込んだコーナリング法は「ハングオン」(正確には「ハングオフ」が正しいそうでが)と呼ばれるものです。ではそれまで他のライダーが行っていたのは何かと言うと「リーンウィズ」です。

どこが違うかなんですが、その前にカーブを曲がる時のバイクの動作を簡単に解説しておきます。カーブを曲がる時マシンには強い横Gがかかってきます。まっすぐのままハンドルを切ったのではそのまま吹っ飛んでしまうので、マシンを内側に倒して横Gに対抗することになります。当然カーブへの進入速度が速ければ速いほどその倒しこむ角度が深くなります。深く倒しこむと言っても当然限界があり、さらに倒しこむ角度が深すぎると直線に向かった時、加速するために車体を垂直に立て直すのに時間がかかることになります。

リーンウィズとはバイクのシートの上にしっかりとまたがり、そのままバイクと一体になって倒しこむ方法のことを言います。一方でハングオンとはライダーがシートからさらに内側に倒れこむ方法で、ちょうどバイクにぶらさがるような状態になります。上の写真はケニー・ロバーツのコーナーリングの時のものですが、彼のお尻に当たる部分が内側にずれ込んでいるのが分かってもらえると思います。こうしてライダーが内側により重心を移すことにより、バイクが従来のリーンウィズに比べてコーナーリングの時により立てた状態で曲がれることになります。その結果、同じ倒しこみの角度でもより速いカーブへの進入速度が得られますし、同じ速さでコーナーを曲がった時でも、直線に向かった時の立て直しがより早くできるようになり、カーブが終わった後の直線加速が有利となります。

ライディング・テクニックの素人追加解説

 ライディング・テクニックにはリーンアウトリーンウィズ、リーンインとそれの発展型と言えるハングオンがあげられます。「リーン」とはごく単純に車体(もしくは重心線)と解釈すればわかりやすいです。二輪車は四輪車と違いはいかなる時でもライダーが重心のバランスを取ることが要求されることです。まっすぐ走っている時はそれこそど真ん中に位置すれば良いのですが、いざカーブを曲がろうとすれば複雑な重心移動が必要となります。


 自転車を例に取るとわかりやすのですが、ゆっくり走っていて曲がろうとすると通常は車体を旋回方向に傾け体をほぼ直立(やや旋回方向の外側)させてバランスを取ります。体を旋回方向とは逆の外向きに傾けるのでこれをリーンアウトと呼びます。

 加速がついている時には外向きへの遠心力がついているため、わざわざリーンアウトにしなくても旋回中のバランスが取れるので、車体とほぼ一体となって傾けて旋回運動を行うことがあります。これをリーンウィズと呼びます。


 曲がる時でも路面が非常に滑りやすい時(ダートなど)は、無闇に車体を傾けるとスリップして転ぶので、車体を転ばないように出来るだけ直立させるようにするため、体を旋回方向の内向きに傾けてバランスを取ります。これをリーンインと呼びます。

 バイクと自転車の相違点はバイクは自転車と較べて重量がはるかにあり、また速度も段違いにでるので、旋回中は遠心力が常にある一定水準以上あり、よほどの低速走行でない限りリーンアウトまでしてバランスを取る必要がなく、リーンウィズで旋回運動をとることになります。


 ところでバイクでリーンインが必要とされるのは、路面のμが低いところ、つまりダートコースを走る時だと考えます。バイクのタイヤが自転車に比べ太く、グリップ力があると言っても限界があり、ダートコースで速度をあげて旋回運動を行うためにはなるべく車体を立てた状態で曲がる必要があります。より内向きに重心を取ろうとする結果生れた走法がハングオンでなかったかと推測します。


 アメリカではダートコースでのバイクレースがさかんであり、ケニー・ロバーツを始めとする当時のアメリカン・ライダーは当然ダートコースでのリーンイン走法に慣れ親しんでいた考えられます。μの低いダートコースで有利な走法はμの遥かに高い舗装路でのレースでもまた有利であり、そういう経験の薄いヨーロッパ・ライダーを圧倒したのではないかと考えます。


 レーサータイプのバイクに乗るとごく自然にコーナーリング・スピードを競うようになります。ごく自然な動作としてリーンウィズでの車体のハング(傾け方)の深さを度胸だけで追求することになります。あくまでも素人レベルですが、高速でコーナーリングをしている時の緊張感は相当なものであり、その時にさらに体を内向きに倒れさせるなんてことは想像もつかない程の恐怖があります。ケニー・ロバーツWGPハングオンを持ち込んでも他のヨーロピアン・ライダーが容易にはまねできなかったのはその辺にもあると考えます。

彼はスズキに押されっぱなしのヤマハの救世主としてまさに孤軍奮闘の活躍をすることになります。'78、'79、'80と3年連続でWGPの個人タイトルを獲得、アメリカのキングが世界の王者でもあることの証明をします。しかしこれだけの活躍したにもかかわらず、ヤマハはワークスとしての王座奪還をはたせずスズキに苦杯を喫し続けることになります。

名車RG500γ
RG500γ(ウンチーニ搭乗)

一方で王座を脅かされたスズキはそれを死守するためにRG500の改良を行います。ライダーとしての技量は残念ながらスズキ所属のライダーが束になってもかなわず、とくにハングオンを駆使するコーナリング技術の差は一朝一夕には詰めようがないので、マシンのコーナリング性能を飛躍的に伸ばすための小型・軽量化でした。そして登場したのが名車RG500γです。

どうやらこの時代の技術力はスズキがヤマハをかなりしのいでいたらしく、'81になるとケニー・ロバーツの力をもってしてもコーナーリングでRG500γにしばしば後れを取り、スズキは'81、'82と個人タイトルの奪還だけではなく、ワークスとしても7連覇の偉業を成し遂げることになります。

スズキ、ヤマハWGP 500でしのぎを削っていたいた頃、もう一方の雄ホンダも'79にWGPに再参入してきます。エンジンが2ストローク全盛の時代にあえて4ストロークのNR500をひっさげてです。しかし結果は無残なもので優勝争いどころか完走さえ間々ならない状態が続き、ついに4ストロークメーカーの面子をかなぐり捨てて2ストロークのニューマシンNS500を'82に投入することになります。さらに新人ライダーとしてアメリカで頭角を現し始めていた「ファスト・フレディ」ことフレディ・スペンサーをチームに迎えることになります。

フレディ・スペンサー
「天才」フレディ・スペンサー (NS500)

「不世出の天才」ファスト・フレディ

フレディ・スペンサーは「天才」として敬称されることが多いのですが、もうひとつのあだ名の「ファスト・フレディ」は当時のレースのスタートがすべて押しがけであり、その時に誰よりも早く、まるでセルモーターを装着しているかのように素早くスタートするところからつけられています。

そのライディング・テクニックはまさに無類のもので、今もって彼しかできない神業であると語り継がれています。誰よりも早く、深くバイクを倒しこみ(ハングさせ)、なおかつ誰よりも早く加速に移る、この矛盾する動作を信じられないようなドリフトを行うことで彼は可能としました。

後年に鈴鹿の8時間耐久に参加したことがあります。もう遥か昔に全盛をすぎた彼には大きな期待はできないと誰しも思われる中、コーナー毎に誰もつけたことがない、誰も見たことがない強烈な前後輪ドリフトのブラックマーク(タイヤ痕)を残しながら走り抜けた姿は今も語り草です。

ライディング・テクニックの素人追加解説 その2

 フレディ・スペンサーのドリフト走行は有名です。ドリフト走行自体は彼が発明したものではなく、昔からあるもので彼以外のライダーもまた駆使していたテクニックです。しかし当時のドリフト走行への認識はどうしてもの時に繰り出す必殺技みたいなもので、もし必要としないのであれば出来たら使わないテクニックという考えが支配的であったようです。


 フレディのドリフト走行もまたもともとはダートコースでのコーナーリングでの必然性から育まれてきたと考えます。ダートレースでは嫌でもタイヤがすべりドリフトを多用しないことには勝負になりません。ただしこれをμの高い舗装路で行うとなれば、タイヤの滑らし方、さらにタイヤのグリップが回復したあとのコントロールに比較にならない高度の技術を要します。ひとつ間違えば吹っ飛んでしまう曲芸のようなもので、舗装路でのグリッド走法を追求してきた当時のヨーロピアン・ライダーが積極的に使用しなかったのはなんとなく理解できます。


 ところがフレディはこのドリフト走法をコーナリング時の「ごく普通」の走法として常用しました。フレディのセッティングは有名な「前輪ユルユルの後輪ガチガチ」であり、コーナーリングは後輪主体のドリフトで曲がることのみを主眼にしたものでした。このセッティングを極限にまで煮詰めて開発されたのが'85のNSR500・250であり、フレディ・スペシャルとも呼ばれるこのマシンを他のホンダ所属ライダーが忌み嫌っていた事からも、フレディのドリフト走行が時代の水準を越えた特異なものであった事が推測されます。

伝説のシーズン

運命の'83シーズンに向かって役者がそろいました。王座を死守すべくスズキは熟成されたRG500γで8連覇をうかがいます。RG500γの出現や自らの負傷などで不本意なシーズンをおくっていたキング・ケニーはヤマハが願いをこめて作り上げたYZR500 OW70で雪辱を期します。またホンダは'82から順調に成績を積み上げてきたNS500にファスト・フレディが搭乗し'66以来の王座復活を狙います。

プロ、アマチュアを問わず、見るものがいちばんわくわくさせられる夢の対決は、真に王者たるに値する好敵手がそのもてる力をふりしぼって対決する時です。小説や漫画の世界ではよくある話なんですが、現実になると案外少ないものです。微妙に全盛期がすれ違って勝負が一方的になってしまったり、どちらかが怪我や不調などで勝負にならなかったり、低レベルの争いになってしまったりです。でもこの年は見事なぐらいに条件がそろい、バイクファンには今でも最高のシーズンであったと語る人は決して少なくありません。技術力、精神力のすべてを燃やし尽くす激闘がこの年に繰り広げられることになります。

まずスズキの凋落がありました。ついにこの年はワークスの優勝どころか、シーズン中にも一度たりとも優勝を飾ることができず、8連覇の野望はむなしく潰えます。名車RG500γの技術的アドバンテージもヤマハ、ホンダの激しい追撃の前に失われ、その上残念ながらケニー、フレディという稀有のライダーに匹敵するものに恵まれなかったためです。さらにこの年以降勝利の女神からも見放され、18年後の2000年まで覇権は遠のく事になります。

運命のシーズンの覇権を争ったYZR500とNS500の特徴ですが、YZR500が直線加速に優れトップスピードで勝っていたのに対し、NS500は旋回性と低速トルクに勝る特性を持っていました。またYZR500はエンジンの始動性が悪い難点(当時のレースは押しがけスタート)があり、レースの多くが先行するフレディーをケニーが追走する展開となりました。

'83シーズンは'82からの好調を誇るフレディが3連勝を飾ることから始まります。復活したホンダワークスの、フレディの圧倒的なシーズンさえ予感させるものでした。一方で序盤ケニーは第1戦がスタート出遅れで2位、第2戦はトップ快走中にエキゾーストパイプが割れて4位、第3戦がガス欠でリタイアと今ひとつ波に乗ることができず、第4戦では逆にフレディのエキゾーストパイプが割れて逆転勝利を手にしたものの、続く第5戦は周回遅れのパスに手間取るケニーを横目にふたたびフレディが勝利。

 相変わらずフレディ優勢の流れでしたが、第6戦はフレディがマシントラブルでリタイアとなりケニー勝利。全12戦中、半分の6戦が終了した時点で、フレディー68ポイント、ケニー62ポイントと大接戦となったのでした。
このシーズンの流れとして高速コースはヤマハのYZR500が優勢、中速コースはホンダのNS500が優勢となっており、後半戦は高速コースが多く前半戦の劣勢を十分取り戻せることができると、ヤマハワークスは期待に胸を膨らませることになります。

ケニーは例年後半戦に入るとやや調子を落とすことが多かったのですが、この年の二人の充実ぶりはシーズンが深まるにつれ加熱する一方になり、第7戦をフレディが制すると、第8戦、9戦、10戦とケニーが3連勝で巻き返し、迎えた第11戦スウェーデンGP。このレースがチャンピオンの行方を左右する天王山になったと後に語られることになります。

スタートで4位と出遅れたケニーでしたが、オープニングラップでフレディに追いつき4周目にはトップに立ち、以後テール・ツゥ・ノ−ズで相譲らぬバトルは最終ラップまで続くことになります。ドラマはケニーがトップの最終ラップの最終コーナーにおこります。当時のヤマハワークスの関係者はこう語ります。

「最後のコーナーでスペンサーがケニーの通常のラインの内側に入ってきたんです。

ケニーはフレディが転ぶと思ったらしいですね。ふっと起こしたんです。

で、二人ともグリーンに飛び出して、スペンサーが1フィート、ケニーが4フィート、グリーン上を走ったらしいです。

離してくるなあと思っていたら、アナウンサーがスペンサーって言うでしょう。がっくりですよ」

フレディの強引さは一部に非難の声も上がりましたが、それに対するケニーのコメントは明快でした。

「あそこで何インチかの余裕を与えた自分のミスだ。その何インチかを見逃さなかったスペンサーは、今年素晴らしい進歩を見せた」

終戦を残してフレディ132ポイント、ケニー127ポイント。当時のポイント制は、1位が15ポイント、2位12ポイント、3位10ポイントであるため、ケニーがチャンピオンになるためには、優勝するだけではなくフレディを3位以下に抑え込まなければならない条件を背負うことになります。

運命の最終戦サンマリノGP。ケニーの作戦は自分がフレディに先行して抑え込み、なおかつ同僚のエディ・ローソンを先行させ、最後にエディを抜いて1・2フィニッシュを狙うおうと考えていました。先行するフレディを8周目でパスした後、ケニーはあらん限りの力をふり絞ってフレディをブロックします。ただし相手はフレディ、ペースを落としすぎて少しでもスキを見せるとあっという間にパスされます。何度か首位の座をフレデイに奪われるも懸命の努力でこれを奪い返し、ひたすらエディが追いついてくるのを耐え忍ぶレースを展開します。

しかし翌'84にはWGPを制し後に計4度の世界チャンピオンに輝き、一時代を築くことになるエディ・ローソンをもってしても、ふたりのペースについに追いつくことができなかったのです。実に22周目(残り3周)、ピットサインでエディがフレディのはるか8秒もの後方を走っていることを知ったケニーは、ついにタイトルをあきらめ猛然とスパートしこのレースを制します。ケニーには敗れたものの2位に入ったフレディは、史上最年少のワールドチャンピオンとなります。


1983 Result R1 R2 R3 R4 R5 R6 R7 R8 R9 R10 R11 R12 Point P.P WIN 2nd 3rd 4th DNF
Pole Position F.S K.R K.R F.S F.S K.R F.S K.R F.S K.R F.S K.R * * * * * * *
Kenny Roberts 2nd 4th DNF WIN 2nd WIN 4th WIN WIN WIN 2nd WIN 142 6 6 3 0 2 1
Freddie Spencer WIN WIN WIN 4th WIN DNF WIN 3rd 2nd 2nd WIN 2nd 144 6 6 3 1 1 1

表にシーズン成績をまとめました。いかに凄まじい争いだったかがわかってもらえると思います。全12戦のうちケニーとフレディが6勝ずつ、またポールポジションも同じく6回づつ、さらに2位も3回ずつ。勝負を分けたのはノーポイントに終わったのは1戦ずつですが、ケニーが残りの2戦をいずれも4位であったのに対し、フレディが3位と4位であったことが勝負の分かれ目になっています。とくに9戦〜最終戦まではいずれかが優勝でいずれかが2位という、文字通りのマッチ・レースを展開し、3位以下は遠く残された存在となってします。

また各レースの経過の詳細を見るとYZR500は始動性の悪さを何回か露呈してスタート時に大きなアドバンテージをNS500に与えていますが、トップスピードの優越性は明らかで、不利と見られた旋回性の差も'81、'82と後塵を拝したRG500γとの時ほど大きくは無かったようです。一方でNS500のトップスピードでの劣勢はシーズン後半の高速コースになるほど明らかになり、心身ともに充実したキング・ケニーの猛追撃をファスト・フレディがその天才性で辛うじてかわし切った結果になっています。

ただしYZR500にしろNS500にしろ絶対的なアドバンテージはあったわけではありません。今のようにマシンに恵まれることが勝利の絶対条件ではなく、むしろ与えられたマシンの能力をいかに引き出すかが勝利の鍵となっていました。つまりライダーの個人的な能力が勝負を大きく左右した時代でした。トップスピードに劣ってもフレディが走らせればYZR500をしのぎ、旋回性でかなわないところがあってもケニーが走らせればNS500を上回る事が可能でした。

ケニーロバーツ最後の雄姿
ケニー・ロバーツ最後の雄姿

エピローグ

バイクファンにとってまさに夢のようなシーズンとなりました。敗れたとはいえキング・ケニーは間違いなく甦り、来年こそ小生意気なフレディを返り討ちにすることにケニーファンは夢を膨らませました。

ところがケニーは31歳の若さで引退を表明します。なぜだったのでしょうか。'83は彼にとってもベスト・シーズンであったと考えられます。マシンの完成度もあがり、また彼自身もテクニック、精神力、経験さらにフレディという最強のライバルを得てモチベーションも最後まで途切れずこれ以上は無いほどの力を発揮したはずです。

ところがそれでも紙一重とはいえフレディに及ばなかった。来年以降は自分の力は落ちこそすれ上がることは期待しにくい、一方でフレディはさらに手強いライバルとして立ち塞がるのは確実です。「王者」のプライドは「天才」フレディを土壇場まで追い詰めた事で満たされ、無残な敗北の姿をさらすより、潔い引退の道を選んだのではないでしょうか。「天才」フレディ・スペンサーの出現は「王者」ケニー・ロバーツの名を不滅のものとしましたが、同時に世代交代の波を感じさせ、引退の花道を与える事になります。

鈴鹿8耐でインタービューを受けるフレディ
鈴鹿8耐でのフレディ・スペンサー

一方の「王者」ケニーの引退は「天才」フレディのその後に大きな影を落とします。誰しもフレディ時代の到来を予想しました、天才から帝王への進化です。ところがフレディは天才でありすぎました。王者ケニーが去った後のWGPに彼はモチベーションをもてなくなったようです。ケニー以外のライダーなぞ彼にとってはその能力を燃焼させるには物足りなかったのです。「天才」フレディは「王者」ケニーの存在があって初めてあれだけ能力を発揮できたともいえます。

'84シーズンは5勝をあげたもののムラのある走りで結局総合4位に終わりました。しかし'85に彼は誰もできないような目標を掲げて新たなモチベーションを燃やします。WGP 500とWGP 250の両クラス制覇です。両クラスといっても同じ日にレースを行うのですから1日2レースとういう途方もない企てです。誰しも無謀とささやく中、彼はあっさりと目標を達成してしまいます。しかし彼はこれで終わります。以後は年度チャンピオンはおろか表彰台にも立つことができず消えゆく事になります。不世出の天才にはもうこれ以上情熱を傾ける対象がなくなったのです。

「王者」ケニー・ロバーツと「天才」フレディ・スペンサーが持てる力のすべてをすべてを絞りつくした'83の激闘は見るものに忘れられない感動と興奮を与えました。しかし「王者」ケニー・ロバーツは引退を早め、「天才」フレディ・スペンサーはその無限の才能を十二分に燃焼させる好敵手を永遠に失うことになりました。もう二度と出現することのないであろう史上最高のライダーであるふたりによる史上最高のシーズン、極限のレースはその疾走するシーンを知るものだけが密かに語り継ぐだけです。

時代は流れ、ケニー、フレディが去った後も幾多の名ライダーがWGPの舞台で活躍しています。しかし「王者」「天才」の称号はいまだにそれを引き継いだものがあったことを私は知りません。

あとがき

現在ですらそうですが、'83当時はオートバイレースはもっとマイナーな存在でした。スーパーカブの様な実用車やスクーターはともかく、スポーツタイプのバイクに乗るものは「暴走族」のレッテルを貼られ、WGPレースといってもテレビ中継はおろか新聞のスポーツ欄にも見ることができないものでした。
大学時代のある旧友がコチコチのバイク狂で、驚くべきことに50ccのバイクではるか筑波までレースを見に行くほどのバイク好きでした。私が中型免許をなぜか持っているのもその時の彼の影響であったのは間違いありません。
その彼が情熱を持って語ってくれたのが、「王者」ケニー・ロバーツであり、「天才」フレディ・スペンサーであったのです。WGPのレース結果を一刻も早く知りたい彼は図書館備え付けの英字新聞を読み漁り、'83シーズンの激闘を熱く語ってくれました。
最初は'83シーズンだけにしぼって書くつもりだったのですが、WGPの成績を見ると個人タイトルはケニーが3連覇しているのですが、一方でメーカー・タイトルはスズキが7連覇もしており、また二輪スポーツ界の雄であるホンダの姿が'70年代から'80年代の初頭まで出てこない?。そんなこんなの理由を調べているうちに、結局'83のシーズンの背景を書くには本田宗一郎までもちださないとしかたがないと、いつもながらの長い前置きになってしまいました。
それとなにぶん古い話で、レース経過の詳細や見解も微妙に異なる意見を取る人が多く、それよりなにより私も含めて実際に見た人間が少ないので正確さに欠ける点があることをご容赦ください。
今ではBSなんかでWGPの放映もされるようになり、「王者」ケニー・ロバーツの息子ケニー・ロバーツJrの姿を見ると、わずかな間でしたがバイクに熱中していた青春時代を懐かしんで書かせていただきました。