お祭りに行ってきました

故郷を離れてから27年、ほとんど足を運ばないのですが、祭りだけは時々見に行っています。今年も露店目立ての子供を連れて出かけました。

祭りの形式は地元では「太鼓」と呼ばれる布団屋根の屋台の宮入がメインです。祭りは大雑把には旧町を上(かみ)と下(しも)に分け、それぞれが違う神社に屋台を宮入りします。昔は同じ日に祭りを行なっていたのですが、下の祭りが播州三大祭に数えられるほどにぎやかであったの対し、上の祭りが地味なものであったので、現在では日をたがえて行なわれています。

私が上の祭りに属する人間なのか、下の祭りに属する人間なのかは実は微妙で、祖父が住んでいた元々の実家は下にあったのですが、父が開業時に上に属する地に家を作ったため上の人間ともいえます。ところがその家の町は遥か昔に屋台を運行しなくなっており、子供心を湧かせる屋台自体が町に存在せず、そのため祖父の家がある町の屋台をなんとなくホームグラウンドの様に思っていた次第です。

いかにも中途半端な立場で、地元の人間としては子供時代さみしい思いをしたのは間違いありません。今でもホームグラウンドと思っている屋台の側に行っても、所詮は他所の町の人間ですから、疎外感を感じるというか、祭り特有の一体感をもてないのが悲しみ言えば悲しみです。これでも三代続きの地の人間ですからね。

それでも祖父の町の屋台には思い入れがありました。屋台蔵が祖父の家のまん前にあり、なんと言っても物心付いた時から親しんだ屋台だったからです。また大した事ではないのですが、この屋台は祖父が町内会長をしていたときに、北条辺りから購入してきた屋台とされ、その点でもどうでも良いような親しみがありました。

祭りの風景を左の写真に示しますが、これはいわゆる下の祭りです。ここがクライマックスの石段登りで、神社特有の急な石段を1トンもある大きな屋台が登って行くところです。この階段が何段あるかは諸説があり、私も子供の時に何回も登りながら数えましたが、85〜86段程度だったはずです。ただ本来は87段であったという説があり、根拠はこの階段のもっと手前の一の鳥居にも昔は石段が2段あり、合わせて89段で「厄(やく)を踏みぬく」にかけてあったと言われます。現在の石段数が減っているのは、参道を舗装した時に地面をかさ上げして減ったという説です。

祭りには熱心な割りに、この手の伝承に熱心でないのも土地柄で、私がこの説を話しても「へー」以上の感想が返ってこないのが笑えます。もっとも一の鳥居に石段があった時代など私も知りませんし、地元でも相当の「古老」でないともう誰も伝えていないかもしれません。祖父が生きていたら知っていたかもしれませんが、祖父もまた地元出身でないため、そこまで知っていたかどうかはわかりません。

祖父が町内会長として屋台を購入したのが1961年となっています。三木の屋台年表(含む近隣祭礼事情)にも北条町より屋台購入と記されています。その後、1966年に水引き新調、1974年高欄掛新調、さらに1994年に新町、高欄掛購入となっています。水引きも高欄掛も高価なもので、そうそう新調できる代物ではないのですが、この町の新調ペースは異常にユックリだとだけ言っておきます。この祭りはサンテレビでも放映されるのですが、屋台の紹介に「最古の水引き」とされ、苦笑したのを覚えています。



長々と祭りと屋台の講釈をしましたが、今年は大事件が起こりました。今年はユックリとした水引きと高欄掛の新調をなんと行なったのです。綺麗になるのは嬉しい事で楽しみにしていたのですが、なんとなんと失火で屋台が焼けてしまったのです。これまでも屋台が台風などの天災で損傷を受けてた事は数多くありましたが、失火による損傷は前代未聞とされます。私も叔母の家に立ち寄ったのですが、まさにお通夜状態でした。

例年ならば市内を屋台で練り歩き、夕方になれば石段を登って宮入りして気勢を挙げるところが、やる事が無いので朝から自棄酒という状態です。なんと言っても焼けてしまったのですから、再び屋台を出すには新調が必要ですし、屋台倉も焼けたのですからこれも新調しなければなりません。そうは言っても両方を一挙に新調となれば1億仕事の話になり、そんな金は町内に無いので、自棄酒を飲んで愚痴るしかない状態です。

そうは言っても「なんとかならんか」なんですが、茫然自失状態で知恵も出ない状態だったので、叔母ととりとめのない話をしていました。祖父は正直なところ活動的で社交家というには余程縁遠い人物で、無口で話し下手で、どちらかと言うと不器用そうな人でした。また基本的に当時は他所者であったはずなのに、なぜ町内会長をやったのだろうとの話になりました。その辺は当時の微妙な年功序列で、もう知る人もいませんが、あの祖父が、なぜあの時期に屋台新調をしたのだろうという話になりました。

叔母の記憶に依れば、当時の屋台は大変大きく、石段を登るにはあまりにも大変であったからだったと語りました。それにちょうどその時に台風被害で屋台の屋根が損傷し、それが相俟って屋台購入の話になったはずだと言う事です。ところが私も古い写真で旧屋台を見た事があるのですが、どう見てもそんなに大きかった記憶が無いのです。写真なのでスケールが分かり難いのですが、周囲の人間に較べると小さな屋台のイメージしかありません。

伝承では当時の屋台は市内の他の町に売却され、その町では屋根を新調してごく最近まで使っていたという事です。その屋台は私も何度も見た事があります。屋根のイメージが違ったのは新調したためと思いましたが、どうも叔母も記憶違いをしているんじゃないかと思います。

三木の屋台年表(含む近隣祭礼事情)には、


1874参考、多可郡中町より購入の新町屋台に記された墨書新町旧屋台
1912新町、大塚へ屋台を売却現大塚屋台
1961新町、北条町より屋台購入(反り屋根型)新町現屋台


ちょっと注釈が必要ですが、新町現屋台は今年の火事で焼けたもの、現大塚屋台は現在新調更新されています。つまりこのHPの記録が正しければ、大塚町の先代屋台は新町から購入したものに間違いありませんが、祖父が1961に現屋台を購入した時に売却されたものではなく、その39年前に新町から購入したものになります。

そうなると新町の先代屋台の行方は不明という事になります。どこから先代屋台が購入され、どこに売却(あるいは破棄)されたかは不明です。叔母の記憶のうち「屋台が大きくて宮入が大変だった」は先代大塚屋台のことで、先々代の新町屋台であったと考えた方が正しそうです。おそらくですが、先々代の新町屋台の大きさに手を焼いたので、これを大塚に売却し、その資金で小ぶりの先代新町屋台を購入したのが真相の様な気がします。

1912年に手に入れた先代屋台ですが、これもおそらくですが小ぶりすぎて威勢が悪く、叔母の話にある「台風被害」もあって、祖父が1961年に購入したのだと考える方が妥当な様な気がします。現屋台も軽量級なのですが、反り屋根が異常に大きいデザインで、小ささが目立ちにくいものとなっており、そこを気に入って購入したと考えれそうな気がします。

叔母の家でも話に出たのですが、高齢化が進む町では、屋台倉及び屋台新調の経済的負担に耐えるのは非常に難しい状態だそうです。そうなると手段として大塚先代屋台を利用するのが一つの方策です。由緒を辿れば元々が新町の屋台ですから、買い戻して使っても、さして不自然ではありません。大塚先代屋台は現在地元の美術館に展示されているそうですから、これをなんとか交渉して祭りに使えるようにするのがもっとも現実的な手段かと考えます。

ネックは山ほどありますが、最大のネックの一つが屋台が大きい事です。なんと言ってもその昔、「大きすぎて」手放した屋台ですから、手に入れても石段を登れるかどうかです。

てな事に思いを巡らした今年のお祭りでした。