ちょっと精神論

新約聖書マタイ伝に「人はパンのみにて生くるにあらず」という有名な教えがあります。多分ですが、これが書かれた時には、人間は食うためだけに生きるでは意味が無い、信仰による精神的充足が伴ってこそ生きる意味が出てくる、ぐらいで使われた様な気がします。キリストが活躍したのは紀元0年当時ですから、民衆は今より貧しく、本当に生きていくのが大変な時代であったと思いますので、そんな時代に食う事より信仰の大切さを強調したのは斬新な響きがあったと考えます。

東洋でも同じ考え方があります。キリストよりさらに600年以上前の中国春秋時代の大政治家である管仲の有名な言葉です。

    倉廩実ちて 則ち礼節を知り 衣食足りて則ち 栄辱を知る
後世には「衣食足りて礼節を知る」として伝えられています。管仲の言葉は政治家であるだけに、キリストの言葉より具体性に富んで現実的な物になっています。中国の礼は後に孔子儒教として集大成しますが、孔子以前にも厳然たる礼はありました。孔子は古代周の時代を理想と見なしましたが、周以前の商の時代にも礼はあり、当然ですが当時の貴族は礼を尊重していました。礼の重さは命をかけた戦場でも重視され、礼を欠けばそれだけで烙印を押されると言えば良いでしょうか。

ちょっと礼の話に脱線しますが、孔子以前の礼は以後の礼とはやや様相が異なります。もちろん孔子はそれ以前の礼を集大成したのですが、儒教として国教扱いになって以降は、その精神より外形が重視されて拡がる事になります。礼はその表出形態として儀が必然なのですが、孔子以降は儀が形式化され絶対化されてしまったと考えています。

では孔子以前の礼とは何かになります。礼とは宇宙の運動律の中に自分を位置づけ、その中で自分がどう振舞うかの科学であったのです。宇宙には天の意思による流れがあり、その流れに従って行動すれば何事もスムーズに動き、この流れに反する行為を取れば、宇宙の流れに反するために必ず報いが訪れるという考え方です。当時も盛んに予言が行なわれましたが、予言の基になる科学が礼であり、礼に従って行動するものの栄えと、礼に反して行動するものの滅びを綿密に分析しています。

これほど重い礼ですが、管仲が斉の宰相として辣腕を振るいだした頃に、礼の乱れを進言したものに対しての言葉が上記のものです。当時の常識では礼の重さが一番であり、まず礼を正してから政治を行なわなければならないと考えられていました。管仲に進言した者はその常識を踏まえたもので、政治の第一歩である礼の乱れを正すことの重要性を管仲に進言したのです。

ところが管仲は礼を行なうためには、礼を行なう心の余裕が無いとできないと喝破しています。礼を尊重する事は当時では常識以前なのですが、礼が乱れているのは「生きる」事が最重要事項になっているためで、生きる事に余裕が出来れば自然に礼は正されるんだと説いています。その言葉どおりに管仲は不世出の名君桓公とともに斉の国を富ませ、強大にし、覇者として諸国の上に君臨させます。

さらに管仲は一部貴族だけを富ませたのではなく、国民すべてが富んだと実感できる政策を行ったため、国民全体から尊敬されただけではなく、後世に伝説的に伝えられるほどの大政治家として、中国史にその名を燦然と残しています。もっとも実際にどんな事を行なっていたかは、長い年月に資料が散逸し、断片的にしかわかっていません。

話が飛びまくりますが、キリストは貧の中に信仰の大切さを説き、管仲は生活基盤を築いた上での礼の実践を行ないました。この二つの話は今の日本にどう当てはまるでしょうか。今の日本とキリストや管仲が活躍した時代とは「貧」の物指しが異なる事をまず念頭に置かなければなりません。単純に「貧」の物指しを置けば今の日本は遥かに富んでいます。管仲の全盛時代より富んでいると考えて良いと思います。

そんな単純な物指しで、今の方が富んでいるのに心が貧しいとの評価も有りますが、これは大きな誤解があると考えます。生活の充実感はあくまでも個人的な感覚です。管仲時代はスタートが低く、管仲時代を通じてドンドン生活が良くなったと考えます。日本で言えば高度成長期のようなものです。そういう時代に生きる人間の感覚は常に明日に希望があるのです。今日より明日、今年より来年、来年より10年後はもっと暮らしが良くなっているだろうと考えます。

今の日本はマクロでは富んでいるかも知れませんが、生活実感はジリ貧です。明日の事はわからない、いや明日の方が今日より悪くなっているかもしれないの生活実感です。漠然と悪い方向に生活が転がり落ちていく感覚が今の日本ではないでしょうか。

明日に希望がある社会では何事も前向きですし、今の苦労もきっと明日には報われるはずだと考えて対処します。みんな一緒に頑張って、みんな一緒に豊かになろうとの暗黙の連帯感が生まれます。ところが明日に希望が持てないと、視線がドンドン内向きになります。自分を守る事が第一になり、自分を守るためには周囲を蹴落とすのも当然の考えが広がります。また悪い方に落ち始めたと感じ始めたものは、そこからの回復に希望が持てないために、社会の連帯に興味を示さなくなります。

そういう疑心暗鬼の時代に、キリストの言葉と管仲の政策が求められると思います。キリストの言葉で荒みつつある心を救いつつ、管仲の政策でそれを実感あるものに変えて行くことです。古代と現代では社会構造が遥かに複雑化しているために、管仲の政策をそのまま実践しても効果は無いかもしれませんが、管仲の政治への姿勢は2600年が経過しても基本は変わっていないと思います。

最後に、ある名物理事長がある病院の再建を託されたときに、話したと言われる言葉を引用したいと思います。豪腕として知られたその理事長は、傾いた病院の経営建て直しのために三顧の礼を持って迎えられます。一方で職員は経営建て直しのために厳しい経営方針が行なわれると予感し、戦々恐々で迎えます。職員が予感する経営方針とは、労働強化と給与削減です。そういう期待と不安の中の訓示は、

    経営建て直しと言ってもオレはビフテキを食わせてもらう。その代わり職員全員にもビフテキを食わせてやる。そのために一緒に頑張ろう。
社会は人間が動かしています。どんなに符号化されようが動かすのは生身の人間です。生身の人間を動かすには精神が非常に重要です。世の中の事を金銭で置き換えて考えるのはある程度可能ですし、金銭で精神をある程度買う事も不可能ではありません。しかしそれがすべてではありません。精神を掻きたてるためには、希望とか喜びをもたせる事が非常に重要と考えます。仕事の対価は金銭ではありますが、金銭以上の希望とか喜びを得る事で人間の能力は倍増すると考えます。

なにかまとまらない話でしたが、そんな日もあると思ってお許しください。