8/18付毎日新聞東京朝刊より
明日の私:どこで死にますか 第2部・在宅療養支援診療所/3 自宅介護の悲劇
在宅療養支援診療所1カ所当たりの75歳以上の高齢者数 ◇医師往診の形跡なく
◇しわ寄せ、娘に−−末期がんの母を絞殺
核家族化が進み介護者の負担が増すなかで、殺人という悲劇が繰り返されている。宇都宮地裁栃木支部で9日、末期がんで痛みを訴える68歳の母親をみかね、栃木県足利市の自宅で42歳の娘が首を絞めて殺し承諾殺人の罪に問われた裁判の判決があった。在宅死を望む家族を支援する体制作りが急務となっている。
話は昨年12月にさかのぼる。母親は足利市内の病院で胃がんの摘出手術を受けた。医師は娘に「余命半年」と伝えた。
父親は仕事の関係で群馬県で別居。娘には妹もいるが、結婚して家を出ており、介護はほぼ娘が一人で担っていた。娘は結婚していた一時期を除いて実家で暮らし、近所では「仲の良い親子」と評判だった。
母親は自宅療養していたが、4月以降、急速に容体が悪化した。娘は勤めていた不動産会社を辞め介護に専念。母親は痛みを訴え眠れない日々が続き、5月13日に救急車で再入院、「余命1〜2カ月」と診断された。
入院中「家に帰りたい」「死にたい」と繰り返す母親に、娘は心中を決意。同月24日に外泊許可をとり、鬼怒川温泉近くの橋から飛び降りようとしたが、怖くてできず、そのまま退院という形をとり自宅に戻った。
事件があったのは6日後の30日。いつもと違う痛みと寒気を訴え、意味不明の数字を言う母親のただならぬ姿に、娘は「楽にしてあげよう」と近くにあった電気ストーブのコードを示し承諾を得たうえで首を絞めた。後を追って死のうとしたが、死に切れなかった。
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足利市は人口約16万人で、在宅療養支援診療所は8カ所(4月1日現在)。しかし、母親が医師の往診や看護師の訪問を受けた形跡はない。
母親は「他人に(病気を)知られたくない」との気持ちが強かったとはいうものの、実際にどの程度の働きかけがあったかは定かではない。病院には地域医療対策室は用意されているが、「患者の紹介を受けた所と退院時に連絡を取ったりはするが、ケース・バイ・ケース」と話すだけだ。
精神科医で介護者支援に詳しい渡辺俊之・高崎健康福祉大教授は、このケースを「病院は家族に丸投げし、家族は介護者一人に丸投げしていたようにみえる。要介護者と介護者が閉じた関係(ペア)になったことが要因の一つ」と分析する。
渡辺教授はさらに、在宅死の条件として「医療、看護、介護などの地域の受け皿の他に、がんの末期なら、家族にも相応の準備と覚悟がいる」と指摘。「医療者側がチームを作り、きちんと在宅に誘導しないと、家族にしわ寄せがいく」と話す。
事件の構図は、
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母親の在宅介護に疲れ果てた娘が、母親を絞め殺す
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要介護者と介護者が閉じた関係(ペア)になったことが要因の一つ
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病院は家族に丸投げし、家族は介護者一人に丸投げしていたようにみえる
- 病院は退院だけさせて後は知らん顔をしていた
- 娘以外の他の家族も知らん顔をしていた
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病院には地域医療対策室は用意されているが、「患者の紹介を受けた所と退院時に連絡を取ったりはするが、ケース・バイ・ケース」
具体的には在宅療養支援診療所ですが、今回のケースは紹介元医療機関が在宅療養支援診療所ではないようですから、これを紹介元医療機関が紹介するか、病院が紹介するか、患者および家族が自力で探すかです。この辺の連携は地域によりケース・バイ・ケースですが、現在の実情はどうなっているのでしょうか。
少なくとも病院は容体悪化時に入院を引き受けているので、外来followはしていたと考えて良いと思います。しかし記事のニュアンスから在宅療養支援診療所の支援はなされていないようですから、在宅療養支援診療所への紹介受診は行なわれなかったと考えるのが妥当な解釈です。それどころか介護支援も行われなかったようです。
「何故だ!」という事になりますが、これは2.の問題に関わってくると考えます。
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母親は「他人に(病気を)知られたくない」との気持ちが強かった
もし患者である母親の明確な意思を踏みにじって医療行為を行なえば、それがたとえ医学的にどれほど正しい行為であろうとも許されざるものとなります。どれほど許されないかを端的に表現すれば、訴訟で負けます。病院が末期癌であるとして退院時に在宅療養支援診療所の支援を提案しても、患者本人が拒めば了承するのが正しい治療方針です。下手に無理やり説得しようものなら、「不本意な治療を了承させられた」と訴えられる危険がありますし、訴訟になれば勝敗の帰趨はわかりません。
記事に無いので病院が在宅療養支援診療所の支援を患者に提案したかどうかはわかりませんが、今どきの事ですから、それに近いニュアンスの話はしたんじゃないかと思います。全く一言もしていないのなら病院も少しは責任があるかもしれませんが、提案をした時点で患者が「不要」とすれば、病院が「丸投げ」したと非難される謂われはありません。患者の自己決定権の尊重です。
肝心の病院と患者のこの点についてのやり取りが情報としてないので推測に留まりますが、常識的にあった可能性が高いと考えます。記事では
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・・・とはいうものの、実際にどの程度の働きかけがあったかは定かではない。
渡辺教授の
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在宅死の条件として「医療、看護、介護などの地域の受け皿の他に、がんの末期なら、家族にも相応の準備と覚悟がいる」と指摘。「医療者側がチームを作り、きちんと在宅に誘導しないと、家族にしわ寄せがいく」と話す。
また渡辺教授の正論ですが、「きちんと在宅に誘導」とはどういうことでしょうか。おそらく「きちんと」の意味合いは、
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病院、在宅支援診療所、介護支援、および家族が連携しての万全の体制を整えて
つまり家族で介護が出来る戦力として、長女、次女と高齢の夫の3人になります。長女は結婚歴もあるようですが、子供についての情報はありません。そうなれば他に期待できるのは次女の夫と子供ぐらいになります。しかし次女や次女の夫、またその子供は嫁ぎ先の義父母の介護もあるかもしれません。次女はともかく、次女の夫やその子供には介護戦力として大きな期待を寄せ難いかと思います。
結局のところこの家族で母親の介護が出来る戦力は最大で、長女、次女、夫の3人になります。一般的には仕事で別居中の夫が介護に加わらなかった事が非難されそうな構図ですが、母親が末期癌で在宅治療中であると言っても、医療費、生活費が必要です。誰かが働いて稼がないと食べていけません。夫は帰宅すればおそらく職を失う可能性が高いとなれば、残された長女と次女が残された実戦力になります。
次女ですが、どこに住んでいるかが問題です。近所であればある程度の戦力になりますが、遠方であれば顔を出す程度が精一杯になります。次女にも仕事があるかもしれませんし、自分の家庭をすべて放り出して母親の介護に専念するわけには行かないからです。
そうなれば結局のところ同居している長女にすべての負担がかかります。残りの戦力を呼ぼうとしても、夫が参加すれば生活費の収入を犠牲にせざるを得なくなりますし、次女を呼べば次女の生活を犠牲にする必要があります。介護戦力は万全の体制を取りたくとも悲劇の構図と大して変わりない事になります。
違うのは在宅支援診療所の医師が定期的に訪問診療してくれることです。そうなればこの悲劇は防げたでしょうか。これは何とも言えませんが、すべて防げる期待を寄せられたら医師は困惑するかもしれません。幾分以上は防げる可能性は出てきますが、すべて防げると言える医師は少ないかと思います。
今後こういう悲劇は数限りなく繰り広げられると思います。どこの家庭の介護力も似たり寄ったりでしょうし、家族の経済的余裕はここ数年で見る見る落ち込んでいます。家族の磨り減った介護力と、磨り減った介護力をさらに奪う経済的余力。こういう事が記事に載っているうちがまだ状況は良いのだと思います。記事すらならなくなったときこそ怖ろしい世界が展開されていくのでしょう。