宗教は扱い辛い

宗教とは何ぞやの回答はなんでしょうか。宗教学みたいな大そうなものにもなりかねませんが、一言で言えば「神を信じること」に尽きるかと考えます。世の中の不条理、不合理、憤懣、悲しみによる心の乱れを「神を信じること」により癒しているのが宗教と考えます。信仰に深い人が、悩みを神に預ける事によって心の平安を得ているケースがあることは私も少なからず知っています。

信仰の深さは信仰心もあるでしょうが、教義での神の絶対性が高いほど強いと考えます。簡単に言えば一神教の神の絶対性は多神教を絶対的に凌駕する関係です。また社会環境が厳しいほど神への信仰が強くなるのも確実にあると考えています。もっと言えば社会環境が厳しいところにこそ唯一絶対の神への信仰が成立しやすく、そうでないところは緩やかな多神教的世界が広がる感じでしょうか。

一神教の代表の一つであるキリスト教も、母体ともいえるユダヤ教、原始と言うか出来た頃のキリスト教は唯一絶対の神を信じる宗教であったと考えます。これがヨーロッパ社会に広がるとやや変形します。一神教の骨組みは変わらないものの、マリア信仰が現れたり、聖人信仰が出てきたりで、微妙に多神教的色彩を帯びていきます。これに対しイスラム教がはるかに強固に一神教の色彩が強いのは社会環境の違いかと考えています。

中近東やヨーロッパに較べても遥かに豊かで暮らしやすい環境であったアジアでは一神教は基本的に馴染みません。日本もまたそうです。日本人の宗教観は典型的な多神教です。多神教の考え方は神と人間の関係が遥かに近いというところにあります。言い切ってしまえば信仰する変わりに確実に御利益があるのが宗教と言う考えです。それも一つの神に一本被りするわけでなく、商売ならえべっさん(戎信仰)、交通安全なら成田山、安産信仰なら中山観音(宝塚にあります)みたいに振り分けて信仰します。

これは国家規模でも行なわれています。聖武天皇が全国に国分寺国分尼寺を作り、さらに東大寺まで建立したのは国家鎮護のためと言われていますが、本当の狙いは皇太子が欲しかったためと言われています。聖武天皇光明皇后には男子が恵まれず、そのためにあれほどの国家事業が行なわれたとの説です。ところが結局男子には恵まれず、奈良朝は聖武天皇の娘で史上唯一皇太女から天皇の即位した孝謙天皇重祚して称徳天皇)で実質終わってしまいます。実質跡を継いだ、桓武天皇は役に立たなかった東大寺を見捨てて平安京に奠都してしまいます。

東大寺を始めとする莫大な賽銭を奉じたのに、御利益がなかったら捨て去るのが日本人の基本的な宗教観と私は思っています。日本人も一神教への信仰に熱狂した時期、たとえば戦国期の一向一揆キリシタン信仰などもありますが、熱狂が過ぎ去ると元の多神教的宗教観に速やかに戻っていっていると思います。

日本人は絶対的な唯一神を信じる宗教感覚に馴染み難いところがあり、唯一神を信じて宗教的陶酔に浸っている人々に共鳴し難い性質があるように感じます。宗教への期待は現世御利益が基本で、御利益というからには信仰さえビジネスライクに捉えていると思います。神と言っても必ずしも信用できるものではなく、「苦しいときの神頼み」の言葉に象徴されるように基本的に生活の外に宗教を置いてきたと見ています。生活上のオプションみたいなものでしょうか。

そんな日本人が唯一神に陶酔する人間を見ると気色が悪いと言う感覚があります。神は生活の上でのオプションに過ぎないと考えているのに、これを生活の中に取り入れ、価値判断の中心に据えている人間を見ると寒気がすると言う感触です。日本は島国ですから外国人がそうである分には全く寛容です。そういう異国の人間であるからと認めてしまう寛容さです。しかし同じ日本人なら底知れぬ不気味さを感じます。

当然と言えば当然ですが、神の絶対を信じて生活の中心に置いている人間と、神を生活のオプションとして外に置いている人間の議論はかみ合う余地が殆んどありません。価値観の主体が天と地ほど違うのですから、主張はすれ違うどころか180度違う方向に突き進んでいるように思えます。交差する事さえも無い議論といえば良いのでしょうか。

もちろん信仰の自由は当然のようにありますから、神を信じて心の平安を得ている人間をどうこうする気は私には全くありません。ただし心の平安を得るために周囲に大迷惑をかけている人には困ります。日本人の多数派の宗教観は多神教的な感覚ですから、これに一神教的価値観を押し付けられても対応は困難ですし、お互いにストレスだけが残ります。

もう一つ日本人の宗教観に「和」というものが根本にあります。この言葉は綺麗事だけでなく、集団秩序の鉄の規律です。和を乱すものは何より大罪であるという宗教観というか倫理観が根底にしっかり根付いています。一神教の価値観を周囲に押し付けるのは和の大罪を犯していると感じてしまう感性が日本人にあるとも言えます。

以上、NATROM先生のところで行なわれた7/77/13の激論を読んだ感想でした。