準委任契約と常識

医師と患者の契約は準委任契約であるとされます。私も使った様な気がしますし、各所で使われています。しかしよく考えてみると正確な意味を把握していない様な気がします。把握していないのは私だけかもしれませんが、今日はまず私のお勉強にお付き合いください。

まずなるべく簡潔に言い表しているものを探しますと、¥塾より、

法律行為以外の事務を委託する契約のこと。民法第656条(および民法第643条から第655条)に規定されている。法律行為以外の事務としては、具体的には、診療行為(診療契約)や、不動産の管理(不動産管理契約)を挙げることが可能。

素人には煙に巻かれそうな定義なのですが、民法の656条、643条、655条当たりに根拠のある話であることだけはわかります。該当する部分は民法の第3編債権の第2章契約になり、債権契約の事を指す事になります。そうなると民法上で医療行為とは、患者が医師から「病気を治す」という債権を買っていると解釈すればよいのでしょうか。

患者は「病気を治す」という債権を医師から買い対価を払います。、医師は債権の目的と言うか価値として治療行為を行なうと考えたら良さそうです。だから債権の価値が無価値となってしまったり価値を大きく損なえば、損害賠償を起こす事が可能になります。まあ、買ったものが不良であれば弁償しろとの理屈なので理解できます。

準委任契約が民法の第3編債権の第2章契約にあるのですが、もう少し細かくはその第10節の委任に書かれています。委任とは何かですが、

第643条委任は、当事者の一方が法律行為をすることを相手方に委託し、相手方がこれを承諾することによって、その効力を生ずる。

委任とは委託することと民法に書かれています。どうもこれで法律家は了解するようですが、素人には「???」なんですが、委託とは委ね託する事で、国語辞書的には「人に頼んで代わりにやってもらうこと」となります。自分の代わりにある仕事を頼んでやってもらうイメージと取れば良いのでしょうか。

頼まれた方は受任者と言われるようですが、受任者に課せられる義務も民法に書かれています。

第644条受任者は、委任の本旨に従い、善良な管理者の注意をもって、委任事務を処理する義務を負う。

「善良な管理者の注意」とは善管注意義務とも言われるものです。これがどれ程のものかがまた分からないのですが、国語辞書では「普通に要求される注意義務」となっています。なるほど「普通に要求される注意義務」を果たせば善管注意義務を履行した事になる訳です。

ここで民法643条では「法律行為」を委託することを委任としています。これが言葉通りなのは弁護士などの法律家になります。でも医師は法律行為ではなく医療行為の委託を受けています。その点についても準委任として書かれており、

第656条この節の規定は、法律行為でない事務の委託について準用する。

委託を受ける行為が法律行為であれば「委任契約」となり、法律行為でなければ「準委任契約」と名称が変わるだけで、本質的には同じ義務を課せられた契約である事が分かります。しかし医療行為が「法律行為でない事務」に民法上では該当するとは少し驚きました。

問題は準委任契約で受任者に当たる医師が課せられた義務の「善良な管理者の注意」です。国語辞書では「普通に要求される注意義務」となっていますが、「普通に」の但し書きにはこうあります

    行為者の属する職業や社会的地位等に応じて
医療行為で考えてみると、医師は一般の方々よりも医療知識が豊富です。なおかつ医療は高度に専門化された職種です。仮に同じ医療行為を行なったとしても、医師と医師以外で「普通に要求される注意義務」水準が異なっても不思議ありません。当然ですが医師の方がより高い水準での注意義務を要求されて当然かと思います。

では医師が要求される「普通の注意義務」とは誰が決めるのでしょうか。医療は準委任契約ですので、委任者(患者)と受任者(医師)の間でまず決められるかと考えます。委任者が契約によって期待された内容を満たされればもちろん問題はないのですし、必ずしも満たされなくとも受任者が「善良な管理者の注意」を果たしたと納得すればこれも問題はありません。

ところが委任者にとって不満足な結果となり「善良な管理者の注意」を受任者が果たしていないと考えたら、「善良な管理者の注意」の定義である、医師に求められる「普通に要求される注意義務」の水準を満たしているかの争いが生じます。準委任契約による債務不履行民事訴訟です。

ここで医師が「普通に要求される注意義務」とはどこにも明文化された規定がありません。日進月歩の医療界ですからそもそも明文化する事など不可能です。受任者たる医師はその時点での医療界の常識こそが「普通に要求される注意義務」であると主張します。あくまでも個人的な見解ですが、医療は高度に専門化された職種なので、その業界人の一線の現場にいるもので無いと、その時点の医療の常識は分からないと考えます。これは医療だけではなく他の業界でも当てはまるかと考えます。

一方で委任者たる患者が考える注意義務水準とは、その患者が考える常識です。常識の根拠は委任者の職業、生活環境などから導き出されたいわゆる一般常識と言って良いかと考えます。患者は治療を通じて医療のことはある程度知識があるとは言え、これは断片的で不十分なものであり、体系的な知識は持つことが困難であるからです。

民事訴訟の場では委任者である一般常識と、受任者たる医師の医療常識のどちらが医師の注意義務水準であるかの判定になります。ここで判定者は言うまでもなく裁判官です。裁判官は高度な法律知識を持つとは言え、医療知識については医師並とはいえません。たとえ知識が医師に近い水準があったとしても、実経験が皆無であるために、医師から見れば医学生程度のものにすぎません。医学生程度でも知識があれば素晴らしいですが、通常はそれにも程遠いものがあります。

日本の訴訟制度は心証主義です。簡単に言えば裁判官が「正しそう」と感じた方に判決を下すシステムです。一般常識と医療常識の判定となったとき、裁判官は親和性の高い一般常識に傾きやすくなります。医療常識は専門分野の常で、一般常識を超えるところが多々あるからです。一般常識を超えるものについては裁判官であってもそれを常識として理解するのが困難と考えます。

では訴訟において一般常識が優先されるとどうなるかです。例えば人の「死」を考えてみます。一般常識では「死」は非常に重い存在です。医療であっても決して軽いわけではありませんが、一般常識とは重さが違います。医療常識では死は日常です。どんなに最善を尽くしても避けえぬ死はありますし、どんなに細心の注意を払っても避けえぬ死はあります。これは医療に従事するものにとって常識です。

しかし一般常識としては死は医療常識よりも格段に重いものとして位置付けられます。死と言う存在だけで判断のバイアスが大きく傾きます。死と言う重大な結末を迎えたからにはきっと何かがあるの常識です。何かとはミスです。医療常識では一つの治療結果に過ぎない死が、一般常識ではとんでもないほどの重大な結果として受け取られます。

これは断っておきますが、すべての医療訴訟に該当するわけではなくJBMレベルの訴訟と御理解ください。死が重いと言う一般常識が注意義務水準に反映されると、死を防ぐための注意義務水準が設定されます。医療者の常識では不可避であるとの常識が既にあるので、その常識を越えてのものにならざるを得ません。常識を超えるとは履行不可能な注意義務水準になってしまうと言うことです。

さらに医療側に都合が悪い事に、医療側にとって履行不可能な注意義務水準である事は、医師以外に理解できない事です。医療は懐の広い学問ですから、結果から遡れば「あの時にAでなくBをしていれば結果が変ったかもしれない」を掘り返す事はいくらでも可能です。むしろそういう積み重ねが医学を進歩させてきました。Aという方法で失敗すれば、次回はBと言う方法でトライしてみるという試行錯誤です。

少し例えが飛んでしまいますが、将棋や囲碁で例えると分かりやすいかもしれません。名局と呼ばれるものは、敗者も疑問手や悪手を打っていません。強いて言えば最善手でなかったかもしれない程度です。その最善手でないとの判断も、打たれた時点では妥当な手なのです。妥当であった手が勝者の巧妙な戦略によって価値を落とされ、結果として「この手が問題であった」とされます。囲碁や将棋でも感想戦があり、結果から見て、この手をこうしていれば結果が変わったかもと言われる程度です。ここで結果が変わったかもは勝負が入れ替わると同義語ではありません。少なくとも敗者が敗北に至った結果と同じ道に進むことを回避できたかもの意味です。

JBMクラスのトンデモ訴訟は、このクラスを常識として「善良なる管理者」としての注意義務水準に設定しています。将棋や囲碁と違うのは、決定者が裁判官であり三権の一つである司法である事です。「そんな無茶苦茶な」と医療者が憤慨しても揺るがす事のできない決定となるのです。

準委任契約の「善良な管理者の注意」はかくして飛躍的に注意水準は上がり、事実上の請負契約に近づきつつあります。JBM判例によっては、医療者側から見ると請負契約そのものと化しています。そうなればどうなるか、危ない橋を渡ることを回避する医学常識が形成されます。確実にこれは浸透し、広がっています。これを今から逆に戻せるかですが、医師の心理としてはPONRを越えたと感じるものが急増していますし、それでもなんとか戻そうとする努力、勢力は皆無に近いかと思います。

行き着くところが確実に見えるところまで来ています。